驚いたことに、中学校には来客用の駐車場があった。と言っても、すでにそこは二十三区から離れた西東京だったのだからそうなのかもしれない。僕には分からん。この世は分かんねえことだらけさ。『この世』という概念を考えだしたのも人間だし、それをちゃんと理解できなかったのもまた別の人間だ。
 守衛の爺さんは不思議なニヤつきをして僕たちの車を通した。多分、このニヤつきに動揺するやつを弾いているんだろう。ロリコンの心ってのは随分弱くできているらしい。嘘がつけないともいう。僕は自分の性的嗜好がまっすぐに育った事を嬉しく思った。今のところ僕のそれは雌伏の時を迎えているが。いや、男のそれが『雌伏』と言うのは健全な状態にあるという意味か? まあいいさ。
 僕達は特に何事も無く、校舎の中に入った。小さい学校だ。来客用スリッパは履かなかった。床の冷気が靴下を通して伝わってくる。廊下の隅には影がうずくまっている。子供の声は聞こえるが、子供の姿は見えなかった。亡霊の住む学校にでも来たような気分になった。
 彼女は僕の方を振り向いて、「あのさ、と口を開いた」
「十分、ここで、待ってて。あたしはあそこにいるから」
「オーケー。何するつもりだ?」
 彼女は答えなかった。その代わりに「時計ある?」と尋ねた。僕は腕時計を渡してやった。彼女は何だかおぼつかない足取りで、廊下の隅まで歩いて行った。ママにお別れを済ませな。僕が他人の墓から花でも取ってきてやるからさ。
 彼女は、薄暗い廊下にぽつんと立った。何分かが経った。朝の会が終わり、生徒たちががやがやと出てきた。何となく不釣り合いに感ぜられた。彼らはどことなく、深海に住むイソギンチャクのように、その細くて白い手足を動かしながら廊下を通り過ぎた。僕の方に注意を向けるものもいたが、ほとんどは無視した。中年の教師が通り過ぎる。彼は首からネームプレートを下げていて、僕は役畜を思い出した。ヒゲをうまくそれていないのも、どこかで見た牛と似ている。
 彼女は廊下の隅につったっている。誰も彼女のことを見ていなかった。彼女の横を通り過ぎ、彼女のそばで定規を落とし、彼女の隣でどつきあい、彼女の目の前で話し合っている。それでも彼らは彼女に話しかけなかった。気がついてさえいないのかもしれない。教師も同じだった。 
 それでも彼女は待ち続けて、やっと(多分)十分経ったところで、僕の方に歩いてきた。
 僕はなんとも言わずに腕時計を受け取って、彼女を促した。彼女は別段悲しそうな顔もしていなかった。僕たちの車のボンネットがきらきらと光った。それだけだ。僕たちは車に乗り込んだ。
 守衛は、やはり同じような顔で僕たちを送り出した。彼はきっと悪意など無いのだろう。もし、あの爺さんがさ、『目つきが気狂いじみている』とかなんとかいう理由で首を切られたら、僕はどんなことを思うんだろう。いつものように嫌な気分になるんだろうか。その、深い紺色の後悔はどこに向かうのだろう。彼に会わなけりゃよかった。僕はきっとそんなことを言うんだろう。
 車の中はひどく静かだった。カーステレオを入れるのは僕の仕事じゃない。沈黙に満たされた隔離病棟。患者は二人になった。