Neetel Inside 文芸新都
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 黒の女は財布をテーブルに置いて、千円札を両手でつまんで持つと、バンダナの中年女性に渡した。僕は静かに素早く立ち上がると、黒の女の方に歩いて行った。
「あら、あなた、何かし――」
「いえ、テーブルが濡れてますから、拭かないと」
 僕は黒の女とデーブルの間に割り込んで、バンダナの女に目配せをした。僕はテーブルに腰掛けて「いや、何となく。気まぐれですよ」と愛想よく言った。
「はあ、それは結構ね。それにしても、いきなり、失礼じゃないかしら」
「そうですかね。僕にとってはさほど失礼じゃないですよ。お金をお持ちの方が、床で滑っちゃいけないですし、何より、見栄えも悪いでしょう」
 黒の女は、見れば見るほど、中学校の時の美術の教科書に載っていた『だまし絵』の女そっくりだった。もちろん、顔を埋めた、異常に顔のでかい婆さんの方だ。向こう側を向いた女性の方ではなく。
「え? 冗談よしていただけない? こんな店に見栄えがあると思っているの?」
「ええ。この世に存在しているすべての物体に見栄えはありますよ。あなたの何兆円かするファーにも。シャネルの八番にも。もちろん味噌ラーメンにも。抜かれたコーンにも、あ、正確には抜かれていないんですが、とにかく、コーンにも――」
「何がいいたいのかしら」
 ちょっと時間を稼ぎたいっていいたいんだよ。僕はそのまま半ば精神病めいた会話を一分続けて(これが限界だ)、バンダナのばあさんから台布巾をもらった。黒い服の女に背を向けると、笹崎が一瞬だけにやっと笑った。僕も一瞬だけ、にやっと笑って、さっと台を拭いた。水が追い立てられて、数秒掛けて布巾に染みこんだ。
「本当、お代はいいので。勘弁して下さい……」
「はいはいはいはい、いいわ。ありがとう。ありがとう。どうもありがとう」
 黒の女はなんだか興が削がれたように肩をすくめて、フェイクファーを首と肩にぐるりとかけた。テーブルの上から(さっきとはなんだか向きが変えられて置いてあった)財布を取り上げると、彼女は店を出て行った。
 間。
 笹崎がにやっと笑って、「へへ」と声を漏らした。僕も「へへ」と声を漏らした。遥か彼方から光がさっとさして、テーブルを味見するように舐めた。テレビの音がなぜだか小さくなった。ありとあらゆるものが、たくさんの法則を無視して、好き好きに――多くは、いつもよりゆっくりと――時を刻んだ。氷水のピッチャーにへばりついた、透明なてんとう虫のような水滴は、くにくにと周りのてんとう虫をリレーしながら落ちた。カウンターにはもやしが一本、なんだか気品を湛えた象牙細工のようにこぼれていた。
「いくらだ?」
「五万」
 ピンとたった慶応義塾大学が五枚、彼女の手元に置いてる。店長が中華鍋をコンロに叩きつける澄んだ音がした。一回打つたびに一つの時が刻まれる。逆の年輪。そちらの方がいい。ぶくぶく肥る木よりも、少しずつ衰えながらも僕達に鉄分をくれる中華鍋のほうが。年代の測定には向かない。
「ちょっとあんたら、何やったんですか?」
 ばあさんの疑問符。僕達は顔を見合わせた。勝手にすればいいよ。お馴染みの肩すくめ。彼女はバンダナ女に話しかけた。落ち着いた声だ。君ならもしかしたら、僕の元彼女を救ってやれたんだろうか。反語的表現。なんだかごめんな。
「おばさん、お勘定、お願いします。五万円で足りますよね」
 二人の顔を見比べた。そして――今度は上手くいかなかった。バンダナの女性はなんだかひどく疲れたような顔をして、首を振った。
「いいえ、結構です」
「そんな、おばさん、会計させてください」
 その『おばさん』は首をしつこく振った。
 変な沈黙があった。さっきのとは全く違う種類の沈黙だった。
 ローマ法王を決めるときは、ちょうどこんなふうな空気が流れるんだろうか。次の将軍は誰にしますか。犬公方の誕生。いや、もっと悲劇的なのがいたな。暗殺に次ぐ暗殺と、それに対する回答が繰り返される。もやしはすっかり萎えて閉まっていたし、ピッチャーはびたびたしたプラスチックに成り果てている。急流の岸辺にできたよどみに、水が長くはとどまれないように、僕達の世界はやはり元の早さに戻ろうとしている。かつ消えかつ結びて。転生なんてしたくないよ。よどみがちぎれていく。綿の塊から糸が紡がれていく。こっちとこっちがより合わさって、そっちとあっちは遠く離れて。インド人もひどいことするよな。暴力は振るわないって言っていたのに。聖者の行進。列車の記号はA。
 店長が前掛けで手を拭きながら僕達の前に立った。薄汚い男だった。何よりももみあげが変な天然パーマになっていて、どことなく、爆薬を使うショーを失敗したピエロのように見えた。
 笹崎がテーブルから爪楊枝の残骸を拾い上げて、一つ一つこぼした。僕たちは窃盗をしたのだ。
「……店長です」
 面白いはずなのにさ。
「……僕、笛吹です。二十二歳の笛吹。こっちは妹の咲」
 笑えるジョークのつもりなのにさ。
 彼は黙って僕の横を通り過ぎると、ぬるぬると椅子を前に引いた。帰れということなのだろう。彼なりの隠喩的表現だ。そのまま店長とおばさんはほとんど身動きをせずに僕達を見送った。
 残金に五万円が足された。僕はそれだけだと思う。しかし、僕たちは窃盗をしたのだ。このフレーズは、僕の中で何度も鳴り響いた。低俗で――低俗が故に一層――耳にしつこく残り続けるリフレインみたいに。
 僕たちは窃盗をしたのだ。

       

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