Neetel Inside 文芸新都
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 薄茶色のマンションは、何年間も煮込まれた厚揚げのような姿をしていた。それぞれの棟には三つの入り口があった。この世のものではないような形の灌木が生えている。精子みたいな形の干からびた雄しべが散らかっていた。一月の風が吹いた。
 車を停めた。笹崎は俯いていた。僕は彼女の側のウィンドウを少しだけ動かして、合図した。
 階段を上がる。部屋の番号は覚えている。紺色のペンキが塗られた手すりも、剥がれ落ちた白い塗装も、隅で死んでいる干からびたこおろぎも、全てが昔のままだった。それぞれの部屋のインターフォンは、黄色く焼けたクリーム色のカバーと、小さい黒い塊のような押ボタンだった。階段の滑り止めタイルはほとんどが朽ち果てていた。僕は階段を登った。
 灰色のドアを見据える。『笹崎』。この部屋だ。咲は僕の手を握った。咲は僕の手を握りこんだ。僕達は僕達の母親に会うんだろ? しかし――。
 自分がひどく小さくなってしまったような気がした。そっとインターフォンを押した。割れた電子音が流れた。嘆きの妖精バンシーの最後の叫びみたいに。
 間。
 長い時間が経った。部屋のなかで誰かが動くのが聞こえた。スリッパが虚ろに響いた。それが近づいてくる。頭の中がどんよりとかき混ぜられている。笹崎が一言「ごめんね」とだけ囁いた。結界のための石みたいな色をした扉が開こうとしている。そして――。
 後ろから手が伸びてきて、僕を扉から引き剥がした。
 誰が?
 笹崎は目を伏せている。紺色のニットを被っている。ベージュのトレンチコートが目に入った。僕はそいつを見据えた。こいつの名前を僕は知っている。
 しかし、こいつは。
「サカシタさん?」
 そいつは、昨日出会った男だった。手の生々しい感触が残っている。中肉中背の男だ。髪をオールバックに撫で付けて――どうしてこいつがここに? 彼は薄く笑って、手を差し出した。コートはなんだかひどく漂白されたように見える。
「握手をしませんかね? あなたのような人がいてくれて、私はとても嬉しいんですよ」
「あんた、でも、あんたは――」
「言ったじゃありませんか」
 と、サカシタは引っ込めた手でこめかみの辺りを掻いた。高慢そうな笑みが唇の端から広がった。
「私には奥さんと子供がいるんですよ。ちょうどここにね」
 咲の体をサカシタは抱き込んだ。少女の腕の柔らかさを堪能するみたいに。彼はそのまま咲の肘まで手を滑らせてから、脇の下に指を這わせた。
 咲の体が硬くこわばるのが分かる。こん、と何かが床に当たる音が響いた。笹崎は振りほどこうとした。
「やめ――」
 そのまま、発達の萌芽さえない彼女の胸に、サカシタの指が食い込んだ。僕の買った服を貫いて。彼女が顔を歪めた。それから、ひどくつらそうな顔をした。サカシタの指が、切り落とされたばかりのトカゲのしっぽみたいに、彼女の肺から脇腹にくねりながら動いた。それの一つ一つが記憶に。焦げたような臭い。
「咲、楽しいだろ? お母さんに会いに行くんだよ」
 長い沈黙が訪れた。それから、サカシタは慇懃にお辞儀をした。トレンチコートの内ポケットから名刺を取り出して、僕の方に差し出した。僕はろくに読まずにポケットに突っ込んだ。名前が英語で書かれていたのだけは分かった。冷たい風が階下から上がってきて、そのまま、遠くに消え去った。
「これも。種違いでもあなたは息子だ」
 封筒が手渡された。中にはひと目ではわからない枚数のカネが入っていた。
 さっきまで僕がいたところに、サカシタが立った。彼のコートはひどく白っぽく見えた。笹崎、僕は声を掛けた。代わりに男が答えた。
「私の娘は母親に会いたがっていて、それ以外のことを知らない。君は手がかりを知っているが、それ以外のことを知らない。祥子は君達のどちらかに会えればそれでいいが、怯えすぎている。私はただ混ぜあわせただけさ。欲しい者には欲しい物を」
 彼は薄笑いを崩さない。微笑み。最大幸福の原理を厳格に適応した幻。
 笹崎、僕はもう一度話しかけた。彼女は僕の後ろを――そのずっと向こうを――見据えた。彼女の唇が口の中に巻き込まれて、それから小さく、「楽しかったよ」と呟いた。
「ここで終わんだぜ」
「あそこ以外で終わるんだったら、ここでもいい」
 景色が遠ざかって、段々とろけていった。ドアの向こうで誰かが覗いている。母親が、違うぜ、そうなんだ。僕はそこを見つめた。覗き穴が巨大になって――僕を包み込めるくらい巨大になって――僕は――そこには何も見えない。サカシタは僕に背を向けたまま呟いた。
「あと、あなたの友人は将来を求めていた、と言っておきますよ。では」
 ドアが開いた。笹崎が中に押し込められて、そしてサカシタが入っていった。僅かに開いた隙間からは、白いシーツのようなものがきらりと見えた。誰かの包帯の切れ端なのだ。僕達が愛そうとした男の。崇められた男の。僕達が傷つけてしまう男の。
 笹崎、そこに行くんじゃない。君はそいつの隣で踊りたいんだろ。それでやめてくれ。そこでやめてくれよ。そいつに近寄っちゃいけないんだ。そいつは俺達よりずっと弱いんだ。俺達の体にこびりついた細菌が、そいつを殺すんだよ。俺達はあの窓ガラスのこっち側にいなきゃいけなかったんだよ。サカシタ――母さん、僕はさ。ロックが掛かった。カチャリ。鍵の音が遠くで響く。誰かの笑い声も。これが美徳ですよ。感動の再会のセッティングをして。僕の船が飲み込まれていった。二度と戻っては来ない場所に。
 何をしようとしているの? 僕はこの扉を開け損なったんだ。もう――。
 こん、と音がした。向く。
「ごめん」
 チュー子、と僕は呟いた。
 彼女は髪を暗く染めていた。髪をぺっとりと撫で付けている。彼女は床に視線を這わせた。僕の魂がそこで死んでいるみたいに。
 ゆっくりと彼女の方に歩いて、彼女の肩を思い切り掴んだ。
「痛――」
「チュー子、分かんだろ」
 ここにいるのが僕だってことがさ。床で死んでいるわけではないんだ。それが耐えられない。何で床で死ねないんだ? 何が損なわれている? これ以上何があるってんだ? 笹崎、そっから出てこいよ。僕はここに立ってんだ。
「分かんだろ?」
 うん、と彼女は呟いた。目の端には化粧の粉が溜まって、きらきらと光っていた。僕は小指でそれを拭った。彼女がやっと僕を見つめた。
「じゃあ教えてくれよ」
 間。彼女は僕の背中に腕を回した。僕は徹底的に、完全に、断固としてそれを受け入れなかった。僕達は階段を降りた。
「チュー子、教えてくれよ。僕はさ、ただ何かあると思ってたんだよ。ここを進んだ先にさ。あのばあさんも、あんたの政治友達も、笹崎にも、全部に、まるごと全部に、なんかがあると思ってたんだよ。ただ僕はそっから切り離されているだけでさ、咲と一緒に付いて行けばさ、あいつが僕を運んでくれるような気がしたんだよ。どこかは分かんねえよ。でもどっかだ。どっか――どっか特別な場所に。君だって思うだろ。僕達はどっか特別な場所を探してるんだ。どっか特別な感情を探してんだ。昨日までの世界にうんざりしなくても済むような感情を探してたんだよ」
 僕は車を出した。
 助手席には彼女が座った。僕はダッシュボードの上に、五万円が撒き散らされているのを認めた。その上に、僕は封筒から出した一万円札を重ねた。
 マンションの裏手はすっかり更地にされていた。誰かの家が建つのだろう。基礎が打ち込まれていた。シロツメクサの姿も、残り香も無かった。木のあった場所も分からなかった。チュー子と僕はそれを長い間見ていた。
 いつの間にか東京に戻っていた。
 僕はこの旅行で何を手に入れたんだろう? ひとつはっきりしていることがある。
 昨日までの世界は毎日そっと継ぎ足され、明日からの世界はこりこりと削り取られるのだ。手元に一掴みのパンくずを残して。

       

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