Neetel Inside 文芸新都
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 この世で最も不愉快な言葉――愚鈍。僕はそう思う。
 誰だって『愚鈍』と呼ばれて、そのまま乙に気取っていられるわけがない。ホモは今では中性的な用語になったし、ひょっとするとインポテンツだってただの『症状名』になるかもしれない。痴呆や肥満がそうであったように。
 しかし、愚鈍はおそらくいつまでたっても純然とした罵倒の言葉として不動の地位を占めるだろう。居抜き物件のハコみたいに。
 多くの狂信者がそうであるように、彼女も――驚くほどに――愚鈍だった。愚鈍界で愚鈍勝負をしたら、まず四回戦までは勝ち抜けるくらいの愚鈍さだった。
「じゃあ、笛吹くん、そういうのにはあんまり興味ないんだ。声を上げる、っていうかな」
「オスの三毛猫くらいはあるよ」
 彼女はすでに鶏肉を片付けて、乾いた血液を薄めたみたいな色の紅茶に手を付けている。あと二分で飲み終わるだろう。
 僕は突然、とても嫌な気分になってきた。俺はこのただ胸がでかいだけの女となんでくっちゃべってんだ? 渋谷だったら喜んで酒でも飲ませて『ご休憩』がある方のホテルにでも誘うところだが、このひどく幾何的な街である新宿でどうやったらそんなことが出来るんだ?(新宿にいるのは僕の意識だけで、肉体の方は電車の中にぐったりと倒れている、という妄想を僕はうまく否定出来ない。)
「じゃ、ちょっとはあるってこと?」
「ちょっとはね。みんななんでもちょっとは持っているもんさ。さっき僕がぶち殺しかけたホームレスにも道徳心や善の概念はあるだろ? きみたちが死ぬほど殺したい人が、死ぬほど殺したいと思ってる『なんとか人』にも優しさはある。もしあんたが、僕の三毛猫を大切に扱うんならね」
 彼女は黙って紅茶を飲み切った。僕は同じタイミングで席を立つと、伝票を抜き取った。レジに行って、モアイ像にそっくりな店員にカネを払った。それにしてもよく食いやがったな。何だってこんなに食いやがったんだ? いやあ、意味分からんね。僕はレシートを貰って、それをじっくりと眺め回した。店員の顔も眺めてみた。
 突然、発作的に笑いの衝動がやってきた。ニヤニヤしながら、お釣りの四円を、見せつけるように、アフリカの恵まれない子どもとユニセフ職員の持つグッチのバッグのために募金した。
 プラスチックのケースに貼り付けてある『エレナ』のイノセントな瞳が僕を見つめた。違うな。エレナの瞳はみんなを見るのだ。卵の殻のような白目と、不吉な印のような黒目でもって。
 彼女と外に出た。相変わらず死ぬほど寒かった。ホームレスはこういう日に限って死んでくれない。そこにうずくまっているホームレスに五万円と大五郎でも渡して「今すぐに凍死しろ」と言ったら、そいつは喜んで――ルーベンスの絵の前までいちいち三千里歩いて――死ぬんだろうか。僕は今すぐにでもやってみたい気分に駆られた。
 そして、突発的に、彼女の、くそみてえに柔らかい、十三度以下の水に一度も触ったことがないみてえな手を握りしめて、そのまま額に持って行って、「気が変わった」と呟いた。彼女は死ぬほど驚いた顔をした。死なねえかな。
 頭のなかで、僕は最近見た六つの映画の決め台詞をシャッフルした。それをうまい具合に組み立てた。ギリシア神話の化け物を創りだすみたいに。
「気が変わった。突然だ。やっぱり愛だよ。八代さん。ありがとう。本当にありがとう。週末どころか平日だって空いているよ。今すぐ国会議事堂前に集まれって言っても行くよ。実は自宅に爆薬が二キロあるんだ」
 彼女は戸惑っていたが、「恥ずかしいよ」と呟いて、手を乱暴に引っ込めた。そして僕の方をぶしつけにじろじろと眺め回してから(これにはたっぷり二十秒掛かった)、「じゃあ」と切り出した。
「今週の日曜日、朝の十時に集合だから。これ、アドレス。メッセやってるよね?」
「女子中学生の名前でやっているアカウントで友だち申請していいかな?」
 僕はおどけて言ったつもりだったが、彼女はぎこちなく、微笑んだだけだった。
「笛吹くんのこと、ちょっとでも分かってあげなきゃね」
 《このやろう》。僕は心のなかで毒づいて、彼女の鼻を凝視しながら「それで、インド人を殺すんだっけ、それともパキスタン人を殺すんだっけ?」と尋ねた。彼女はひどく後悔したような顔をした。ざまあ無いぜ。今更逃げられると思ってんじゃねえぞ。このアバズレ。死ぬまで追い続けてやるからな。文字通りあんたが死ぬまでだ。分かるよな。お前らのような奴が……。

       

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