Neetel Inside 文芸新都
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 白い船だ。ゆっくり海の上を滑っていく。なだらかに移り変わる、ぬらりと黒く光る海の上を切り開いていく。街灯の光が、海にとろとろと輝いている。
 ゆっくり船が近づいてくる。海の匂いを運んでくる。石油の匂いを運んでくる。たくさんのものを運んでくる。どんな匂いでも孤独にならないために。波が岸壁にあたる、かすかな音が続く。船の胴体が――紺色に見える胴体が――きらっと光る。小さな漁船だ。
 甲板には、足の踏み場もないほどに植木鉢が置いてある。そこにはシロツメクサが咲き乱れ、紫色のパンジーが間を埋め、黄色い月見草が申し訳無さそうに首を揺らし、その隣には真っ青なアネモネが母親のように咲き誇っていた。
 三毛猫が、フジツボの付いた手すりの上でみゃあと泣き、体をくねらせて、船体の後ろに置いてるピアノの上に降り立った。不思議な和音が鳴らされた。ピアノの蓋に街灯が乗り移って、暫く休みながら、穏やかな音色をいくつか鳴らし、そしてまた元の世界に戻っていった。ピアノの椅子には身なりのいい男が座っていた。白と黒の落ち着いたスーツを着ている。彼は優しくにこりと微笑んだ。額には三つの弾痕が残っている。彼が手元のスイッチを入れる。
 ピアノの一番上からは電線が張られていて、そこから、船の先頭まで、火の消えた白熱電球が並んでいた。それらが一斉に、オレンジ色の光を放ち始める。船体の白がゆっくりと黄色っぽく浮かび上がる。影が物悲しそうに、壁の隅に動き始めるが、やがて安心できる場所を見つけた猫のようにうずくまった。夏の風が穏やかに電球を揺らし、その度に、全ての色彩は少しづつ要素を交換し合った。金銭から切り離された古代のフリーマーケットみたいに。
 遠くから、何かの花びらが風に乗ってやって来た。白いひらひらが船を包み込んだ。それは花びらではなくて、どこかの店の食券なのだ。走馬灯のように、幻燈のように、光がまたたき、影を作り出し、この世の全ての形を順繰りにうつしていった。
 その一つは壁に投影されて、二人の人を作り出す。黒髪の、ふっくらした少女と、寂しそうな顔をした筋肉質の男を。初め、船の両端にいた彼らは、段々中心に歩を進めていく。なだらかな坂を転がり始めるみたいに。彼らはお互いを認め合って、オレンジ色の光のなかで微笑んだ。
 男が泣きそうな顔をして、乙女は短く首を振った。彼女は朱色のセーターを着て、そこから、黒いカラスや白いお腹のつぐみが次々と飛び立っていった。空間に浮かぶ線をなぞっていく。つぐみが別れを告げる度に朱色は濃くなり、カラスが産み落とされる度に朱色は薄くなった。
 彼女たちは笑い合っていた。額に三発の弾丸を埋め込まれた男が楽しげなピアノを奏でた。テンポが隣同士の音符で持ち寄られ、差し引きはちょうどゼロになるのだ。三連符と六連符は譲り合い分け与え、シンプルな階段状の音が、夜空をほうきで掃くように流れていった。花が咲き乱れている。男女は幸せそうに手を取って、電灯を見つめていた。
 船に付いている、まん丸い窓から、顔が覗いていた。白い男の顔だった。彼の瞳が潤んで、夜の光を反射して、橙色の世界を移して、まためまぐるしく変わって、そして、最後に、彼の口元に笑みが浮かんだ。
 船が進んでいく。黒い波間を突き進んでいく。うごめく同じパターンの波の間を揺られていく。段々と光は弱まっていく。遠くでサイレンの音が鳴り響く。冷えた陸の風が船体に吹きつけた。空中に儚げに浮かんだ凧みたいに、吊るされた電球が揺れた。
 丸い窓が寂しそうに閉じられた。誰かが――あの小部屋にいる誰かが――窓を閉じたのだ。その音はぎょっとするほど大きく、手をつないでいた男女はなんだか申し訳無さそうに手を離した。電灯の光が段々弱まっていく。
 船は遠ざかっていく。カラスとつぐみが出会い、その度に、二つの鳥は一つに混ざり合い、夜の闇に溶け込んでいく。猫が諦めたように、にいぉ、と一つ鳴いて、誰の手も届かない場所にすうっと消えていった。ピアニストは額を触って、血が流れ出ていることを確認してから、やれやれと肩をすくめて、そして海に飛び込んだ。水音も波紋も立たなかった。ただ音が止んだ。電灯の光が消えて、明るさの残滓だけが残った。動きのある残像のように、しつこく残り続けていた橙色も、やがて紺色に溶けていった。
 船が段々沈んでいく。気がつけば男と女はまた別々の方向に向かって歩き始めて、月の光が、船の胴体に痩せた男のような影を落とし、それを太らせながら進ませている間に、彼らはどこかに溶け込んでしまった。白い花びらは全部が水の底に沈んでいった。
 水は船の手すりまで迫っている。ピアノの蓋が何かの拍子にばたんと閉じられた。船の上から音が無くなった。船の上を風が通りすぎた。今や全てが暗くなった。最後の時のために光を取っておくみたいに。電球を吊っていた電線は甲板に叩きつけられ、全てのランプが無音のまま粉々になった。それを拾ってやる人間はもう船にはいなかった。
 海水が船に流れ込んでいく。船は止めようがなく沈んでいく。ぬるぬるとした海が飲み込もうとしている。全ては抗えない宿命みたいに進んでいく。月見草が潮に飲まれ、それを見届けてから青いアネモネも、ぐっと青を濃くして消えていった。パンジーの花が、何かの印みたいに花びらを散らしたが、それも海の底に行く。
 水位が上がっていく。船の先頭が消えていく。やがて船の先が――ゆっくりと――波を立てずに――消えていった。
 一輪のシロツメクサが浮いている。子供の小指の爪ほどしか無い花びらをぎっしり抱え込んで、海に飲み込まれず、シロツメクサが漂っている。海面に、巨大なゾウリムシみたいな波が立った。花が遠ざかっていく。黒いキャンバスに、ぽつんと白い花が残された。
 いつか僕はこの光景を思い出すのだ。どこかの薄暗い、蜘蛛の巣が張った部屋で、タンスの物陰に隠れた、ナイフを持つ男の狂気じみた視線を感じながら。

       

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