Neetel Inside 文芸新都
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 家に帰った。象の死体のような色をした階段を登って、僕は自分の部屋までたどり着いた。築三十年。エレベーターはない。陰気そうな老婆と老爺が経営しているグロッサリーの裏手にある階段を登った四階、鈍角に折れ曲がった通路の突き当りに、僕の部屋はある。(この場所を一度で覚えてくれる人を僕はまだ知らない。)
 狭い通路には、他人の洗濯機が置いてあり、僕は体を横にしてなんとか通り抜けた。毎日やっていると、不思議と癖になってくる。
 手を伸ばせば届きそうな隣のアパートに、カラスが一羽降り立って、僕を見つめた。それから、またどこかに消え失せた。僕はひとつため息を吐いた。
 部屋のドアに挟まれていた封筒は、大学生協からのものだった。『自動車免許を取るなら春!』という馬鹿げた宣伝文句が茶封筒に印刷してあった。海に行くなら夏! 彼女と別れるなら秋! 大学から除籍になるなら冬! 僕は部屋に入ると、封を切らずに、古紙をまとめているカゴに放り込んだ。
 リュックをおろして、コートをハンガーにかけて、スプレーを吹いて、その他、大学生がやりそうな二百種類もある作業をこなしていった。うがいをした。手を洗った。髪にくしを通して、リップクリームを塗り直した。
 ねえ、やんなるよな。こんなことしたって、なんの意味もないじゃないか。僕が馬鹿みたいにキレイキレイを使って手首まで洗ったって、僕がどこぞのサイトにくそみてえな小説を一本上げりゃ、それまでの友達――とか言った――奴らはみんな消えちまったじゃないか。やってらんねえよ。
 昨日作っておいた煮物に、小分けに冷凍してあるご飯を叩き込んで、電子レンジに突っ込み、六百ワットで三分回した。
 電子レンジが小さな音を立てるとほとんど同時に、部屋のベルが五回連続で鳴らされて(ドアの向こうにいる奴はまともじゃない)、ドンドンドンドンとドアがアホみたいに叩かれた。うるせえよ、と僕は思いながらドアを開けた。
「笛吹さん! 電子レンジ使わないって言ったじゃないですか? なんで使うんですか? なんでですか?」
 ドアの向こうにいたのは、端的に言えば太ったばあさんだった。上下スウェットで、年中マスクをつけている。髪はつやがなくぱさぱさしていて、白髪が目立つ。何より、完全に病気だった。それも、何か宿命的なふうに病気だった。彼女がマスク越しに喋るのを見るたびに、喉の奥に、硬球の芯を押しこまれたような気分に僕はなる。
「すいません」と僕は謝った。「でも、僕は電子レンジなんて使っちゃいませんよ」
 彼女は一瞬息をつまらせたが、すぐに好戦的な目つきに戻った。僕は彼女の人生を考え始めた。彼女はどんな子供だったのだろう? 彼女はどんな中学生だったのだろう?(三〇歳以上の女性のほとんど全員が、かつては女子中学生だった、という事実はいつも僕を驚かせる。)
「嘘を言わないでください、笛吹さん、私にはわかりますからね。だって私の部屋には地底流の気が流れていて、それは電子レンジから出るマグネティックな気によって捻じ曲げられて、私の精神の紐に触れるんですからね。これはセバ・ミスチンというフランス人科学者がきっちりと証明しているんですからね。嘘を言わないでくださいよ、笛吹さん、あなたが嘘をいうのはこれで引っ越してきてから二十三回目ですからね!」
「でも、本当に僕は電子レンジなんか使っていないんですよ、信じてください」
「何言っているんですか、非常識ですよ。科学的にこれは証明された事実なんですからね! 科学的な根拠があるから正しいんですよ、笛吹さん、あなたも一度勉強してみたらどうですか? 大学生なのにいつも電子レンジばかり使って地底流の気をマグネティックな気によって捻じ曲げていて、両親は何をしているんですか? ちょっと、笛吹さん、聞いているんですか?」
「はい、でも、使っていないものをどうこう出来るわけないじゃないですか、だって――」
 扉を開けておかなかった電子レンジが、ぴー、と、場違いな音を立てた。彼女と僕の間にひどく気まずい空気が広がった。僕はチェーンロックをちらっと見た。これは彼女を激昂させた。
「笛吹さん、あなたは何もわかっていませんね! セバ・ミスチンの本を読んでください! 笛吹さん、今すぐ私が持ってきましょうか? あなたはどうして私の精神の紐をいじるんですか? あなたは狂信者ですか? あなたはキチガイですか? あなたは外国人ですか? あなたは日本人ですか? あなたは電子レンジを使いますか? 笛吹さん、答えてくださいよ、あなたは磁場で私の頭をおかしくさせようとしているんでしょう! 今すぐ磁場を取り除いてください! ミラーイル相互作用があるんですよ! 早く土下座してください! 笛吹さん!」
 僕は彼女の顔をじっと見た。黄色く汚れた白目だった。瞳は左目が斜視になっている。僕は自分の手が止めようがないほど震えるのが分かった。そして、一歩後ずさると、ゆっくりと廊下に膝をついて、深々と土下座をした。頭上に彼女の罵声が響き渡って、やがてそれも過ぎ去った。後には薄暗い部屋が残された。冷たいフローリングが残された。僕以外誰もいない部屋が残された。僕は一人で呟いた。
「僕はあんたに土下座したんじゃないからな。僕は……」
 すっかり冷たくなってしまった煮物を食べた。歯磨きをして、夜十一時には布団に潜り込んだ。僕には何もやることがなかった。僕には何もなかった。何かが僕の部屋にいた。何かが僕の中で死んでいた。何かが僕を急き立てて、何かが僕を縛り付けていた。何かが僕の奥で冷たく乾いていた。何かが僕の壁紙をべったりと汚していた。何かが……。何かが僕の……。
 僕は一時間ばかり、ずっとそんなことを考えていた。僕は自分のしたことを反省した。自分が今日もたらした物事を考えた。僕は得体のしれない罪悪感を覚えた。僕はなんでしゃべりすぎてしまうのだろう? 僕はなんで嘘を吐いてしまうのだろう? 僕はなんで彼女を馬鹿にしてしまったのだろう? 僕はなんで電子レンジを使ってしまったのだろう? 僕はなんで寝たりなんかするんだろう? 僕はなんでずっと起きていられないんだろう? しらねえよ、しらねえよ、眠らせてくれよ……いや……決して眠らせないでくれよ……僕を……。

       

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