崇められた男について

 築ウン十年の、だいぶ古いホテルに着いた。可もなく不可もなく利益もないタイプの宿泊施設だ。経営者ごと丸呑みにしてしまう。王は城を作り、城は王をしろしめす統治なさる。昔から言われてきたことだ。僕たちは中に入った。初老の男性が「笛吹さんですね」と声をかけた。僕は彼女の肩をちょっと叩いた。
「あ?」
「書く練習したらどうだ?」
 彼女は僕のことを嫌そうに見つめて、「分かったよ、くそあにき」と、わざと大きな声を出した。よく気が回るじゃないか。将来は女スパイか? ぴりっと毒のあるのを頼むぜ。
 チェックインは笹崎にやらせた。彼女は紙を二枚取って、向こうのテーブルに陣取って書き始めた。
「妹さんですか? しっかりしていますね」
「ありがとうございます。両親に似なくてよかったですよ」
 フロントの男性は、上品な顔を少し曇らせた。フロントマンというのはある一定の年齢を超えると、どんな職業よりうまく顔が曇らせるようになる。
「いえ、すいません。ちょっと、両親がひどく喧嘩しちゃいましねて。このままじゃちょっとまずいと思いまして」
 ああ、それは、と、彼は眼鏡を外して、手元においた。すべすべした手で、白髪交じりの髪をなでつけた。
「僕は別にいいんですが、妹が心配なんですよ――」
「――書けた――書けました」
 彼女が用紙を持って帰ってきた。
「字は間違えなかった? 妹さん?」
「あにき――お兄ちゃんの名前以外は、多分大丈夫」
 軽い冗談。三人ともちょっと笑った。じゃ、本人様がサインを。はいはい。これって誰が必要なのさ。まあいいよ。
 ところで、僕の名前は『笛吹 遥』だということになった。なかなかいい名前だ。ハルカ。囁くように呟くのがいい。『ル』のところで舌をうまく使って。
 鍵を受け取って、僕たちはエレベーターに乗った。がたん、と音を立ててドアが閉まる。何だか乱暴なエレベーターだ。外国のみすぼらしいおもちゃ箱を拡大してきたような乗り物だ。彼女はピーコートに手を突っ込んで、壁に背を預けた。
「おい」
「あ?」
「二度と、僕のことを、くそあにきとかなんとか言うな」
「はい」
「あと、僕の名前を勝手に作るな」
「はい」
「あと、書くなら学校の嫌いな子の名前にしろ」
「はい」
「『はい』はやめろ!」
 エレベーターが遅くなる。三階にたどり着いた。
 彼女は僕の方をちらっと見て、「あんがと……ありがとう……ありがとうございます」と言った。僕は肩をすくめて、自分の部屋に入った。『あんがと』で十分だ。
 シングル。狭い部屋だ。カーペットが敷かれた薄暗い部屋。まるで棺桶コフィン。油を入れたらコンフィ。地熱で調理。二百度に温めた油を棺に入れて、墓地でゆっくり煮込みましょう。中にしっかり火を通して。ペストの予防法。クリスピーに焼いてね。中に入った人が生きていた時のための電話線も用意して。
 簡単にシャワーを浴びて、備え付けのケトルでお茶を淹れた。こめかみがずきずきと痛んだ。誰かの膿を薄めたみたいな色のお茶を飲んだ。僕はひどい吐き気を感じてきた。
 一日でいろんなことが起きすぎた。
 何より、あの笹崎咲が結局何なのか分かっていないのは致命的だった。僕は小さな書き物机に腰掛けて、明日やるべきことをリストアップし始めた。もちろん全部が出来るわけじゃない。『机上の』だから仕方ない。社会主義が反例だ。机上の紙はざらざらしていたし、ボールペンは詰まり気味だった。
 二十二歳、絵空事を描くには歳を取り過ぎている。夢を見るのに遅すぎるなんてことはないさ。これを言った奴は、最後はどんなふうに死んだんだろう? 眠るように? 夢見るように?
 痴呆だろうな。虚ろな目で夢を見て。ゆっくりおやすみなさい、おじいちゃん。腕にはモルヒネの跡がくっきり。夢の夢を見て。動物園が嫌いなんだろう。あの動物を遠ざけてくれ。悪い夢を食べてくれる動物のことだ。茫漠なベッドに横たわって。幾ばくもないカネも使い果たして。昔のようにばくばくとメシも食えなくなって。バックれた借金取りが看取る。みんな黒と白の服を着ている。手を叩いたらベッドを回転させてくれ。蝋燭を交換する。全部枕の中での出来事。
 部屋はひどくひっそりとしている。幽霊が二人出てくるだろう。双子の女の子。赤いラム酒レッドラムを携えて。
・どうして逃げているのか?
・どうしてここに来たのか?
・学校は?
・生活は?
・八代さん?

 八代さん、と書いた時点で、僕は何もかも面倒になった。ホームシック。帰巣本能とも。
 十一時半頃(思考に時間がかかる限り、正確な時間というものは存在しない)、部屋のドアが叩かれた。フロントか? ついにバレたのかもしれない。僕は頭のなかでテロップを思い浮かべた。
『昨夜未明、都内で行方不明となっていた女児が発見されました。誘拐した都内に住む二一歳の大学生は「自分がやった」と容疑を認めています。大学生は反ユダヤ過激派で、頭の足りない、くずやろうで、インポテンツ、死んだほうがマシな男です。警察は極刑の方向で、司法、立法、行政と連携を取りながら……』
 くだらない。僕はドアを開けた。笹崎が立っていた。バスタオルと鍵を握りしめている。何も言わずに部屋に入った。ドアを締めた。彼女は僕のつま先を見た。
「どうした?」
「お風呂使っていい?」
「はあ?」
「それって『はい』って意味?」
「頭おかしいのか?」
「なんで駄目なの?」
「なんで僕は二部屋取ったと思う?」
 咲はぎゅっと眉間にしわを寄せて、壁にもたれかかった。僕は籐椅子を引きずってきて、彼女の前に陣取った。
「いいか、普通な、その日あったばかりの男とビジネスホテルに泊まるもんじゃないし、ましてやそいつの部屋に入ってきて風呂を使うもんでもない。あとバスタブに死体が入っているから使ってほしくない」
「……それ、マジ?」
「『関心・意欲・態度』は丸。『思考・処理』が三角だな」
 彼女は半分くらいキレたように(一部の女の子はこれが凄くうまい)、「ホントさぁ」と壁をコツコツ叩いた。
「別に使ってもいい。ただし理由を教えろ。僕だって、自分の部屋に十三歳の裸があるって状況を、もうちょっと理性的に判断したいんだ」
 彼女はぼんやりと壁を見つめた。そして、言いにくそうに首を何度かかしげた。
「――その壁、さっき、赤ちゃんの顔が浮かび上がってきて面白かったぞ」
 突然、彼女がぎょっとしたように壁から飛び退いて、反対側の壁に張り付いた。
 ん? これってアレか? まじかよ。へ、へ、へ! 僕は何だか楽しくなってきた。思いだせよ、とびっきりのだ。マジになってきた。なめんなよ。一発やってやるぜ!
「ネットでも結構有名なんだよ。ここ。『いないはずの従業員がいるホテル』って」
「はあ!?」
 笹崎が食いつくように吠えた。薄い下唇が震えた。それを抑えこむように、彼女は唇をかんだ。
「マジで。お前に言ってなかったけど、ここってホントは九時になるとフロントの人って帰るんだよ」
「……え?」
「だからさ、ホントは、夜九時過ぎにチェックインなんてできっこないんだよ」
 間。
 僕はそのまま十秒待った。彼女の腕からバスタオルと鍵が落ちた。あとちょっとからかってやろう。
「さっきのフロントマン、ホントは、いないはずなんだよ。
 噂では、昔、ここに仕事熱心な従業員がいたらしいんだ。真冬でも、誰よりも早く出勤して、どんなに遅いチェックインでも受け入れてた。部屋で変なことがあれば必ず駆けつけて、解決した。でも、ある日、ホテルの部屋で起こったヤクザの抗争を止めようとしちまったんだ。馬鹿だよな。拳銃で撃たれて死んだんだってよ。脳天に三発。即死だったらしい。自分が死んだかも分かんないくらい。それで、出るらしいんだよ――」
 ここでちょっと切る。僕は無表情で彼女を見つめた。彼女は何かにつかまろうとしていたが、手は空を切った。
「――その男が。とびきり寒い夜になると、ホテルのフロントで働くんだよ。辺りがひっそりと静まり返って、自分の死体がどの部屋にあるか探せるようになるまでね……」
「う、嘘でしょ、馬鹿、嘘に決まってる……」
 僕は首を横に振った。そして――照明を確認――この薄暗さなら多少、無茶できるな――顔を伏せた。笹崎が「ねえ、ちょっと、あほ、ちょっと……」と囁いた。まあ見てろよ。
「嘘じゃないよ、だって……さっき……(僕は低く咳をして、わざと声を汚く涸らした)あったんだよ……バスタブに……」
 ひっ、と彼女が息を呑んだ。彼女の背中がドアにぶつかる小さな音。ヘイ・カモン! 伏線を回収するぜ!
「――僕の死体が!」
 さあどうだ! 僕の渾身の作だ!
 笹崎が小さく「きゃあ!」と叫んで、小さくうずくまった。顔を伏せて、両手で耳を覆っている。よし! やったぞ! 見たか! なめんじゃねえよ!
 二分くらい経った。小さく震えながら、彼女が臆病そうに顔を上げた。
 僕はにっこりと笑った。
「風呂使っていいよ、おばけは怖いもんな。僕の初めてビジホに泊まった時、ちょっと怖かった」
 諸兄に注意。子供にあんまりガチな怖い話するもんじゃねえ。マジで。本気で。
 笹崎はちょっと引くくらい怖がっていて、「そこにいないと許さない」と一方的に宣言し、風呂のドアを全開にしてシャワーを浴びた。僕にドアの前で周りを見張れとまで言った。風呂から上がっても、まだ怖いらしく、僕のベッドを使うと勝手に宣言をした。
「あんたはこの部屋から出ないで」
「僕はどこで寝りゃいい?」
「床にでも寝りゃいいじゃん! あんまり馬鹿にすんな! 殺すぞ!」
「化けて出るぞ!」
 これは彼女をだまらせるのに効果があった。彼女は黙ったまま布団の中に入った。僕は椅子をベッドサイドに持ってきた。
「電気――」
「あたしが寝たら消して」
 自業自得っていうんだっけな。こういうの。カルマ。彼女が寝るまで。「分かったよ」と小さく言った。僕の声は他人を安心させるのに向いていない。昔、付き合っていた彼女にフラれるときに言われた。「笛吹くんの声は安心できない」。ごめんな。黙って、部屋から持ちだした本を読んでいた。何だか僕は疲れてしまった。ひどく疲れた。
 彼女は枕を掻き抱いて、冬眠中のヤマネみたいな体勢で黙っていたが、突然、くるりと寝返りを打った。僕の顔を覗き込んだ。
 咲が羽布団の中から手を差し出した。僕は黙って握ってやった。僕の手はアホみてえに冷たかったらしく、彼女は一言文句を言った。じゃあ触んなよ。ごめんな。手が冷たくて。本を読むと手が冷えるんだ。僕は混乱していた。
 僕の手を握りしめて、彼女は目を閉じた。僕はそのまま椅子に座っていた。彼女が寝入った。電気を消した。椅子から立ち上がった。怖い思いをさせてすまんね。でも怖がりなのも考えもんだぜ。僕が悪いんだよ。もっと怪談に慣れときなよ。ジョークってのがわかんないのかね。出来心だったんだよ。
 ドアを開けようとした時、突然、笹崎が叫んだ。
「――いやだ!」
 体がびくっと緊張した。怪しい発音だ。寝言だと分かった。僕はため息を吐いた。再び彼女が呟く。言葉にならない言葉。無意識から上がってきた言葉。記憶の整理――夢の国の言葉。枕の中の世界の言葉。
「――サカシタさん……」
 サカシタさん? 僕は繰り返した。彼女は答えなかった。あの男のことを知っているのか? 別のサカシタさんか? 僕は混乱した頭のまま――本来は――彼女の部屋に入り、ベッドに潜り込んだ。僕も寝言がひどいと言われたことがあった。明日言ってやってもいいかもしれない。くだらない話。中世の貴族にも、自分の寝言をひどく恐れたやつがいたらしい。僕は何を考えているんだ? まぶたを閉じた。
 結局、なんで笹崎がここにいるのかは聞けなかった。
 夢も見ずに起きた。
 簡単にシャワーを浴びて、笹崎の部屋――正確には笹崎が寝ている部屋、面倒くさい、すべては誰かさんの持ち物なんだ、僕のものは存在しない――に行った。
 彼女はベッドの上で三角座りをしていた。僕はざっと自分のバッグをチェックした。財布の中身は生きている。あきれた。
「お前、あほだよな」
「あ?」
 笹崎が弱々しい返事をした。彼女の足が、死にかけた幼虫みたいにシーツの下で動いた。栄養をやらなきゃ。でも、何を食うんだっけ? 自分が何かを育てている場面を僕はうまく想像できない。コインロッカーで子供を育てようとして、おひさまの下でもやしを育てようとする。切り株を守る。とうもろこしの切り株を……。
「――僕が起きる前に起きて、財布の中身を全部ぶんどって、とっとと逃げてりゃよかったのにな。六万入ってる。ガキが一人で旅行するには十分だ。誰にも迷惑をかけない。八代さんと連絡を取り合っておけよ」
 あんたはさ、と、彼女は寝癖のついた髪をくしゃくしゃと掻いた。気のないショートカット。美容師が、途中で記憶を完全に失ってしまったとでも言うような髪型だった。
「……なんであたしをほっといて帰んなかったのさ。お金を払って」
 僕は肩をすくめた。
 お湯を沸かして、蒸しタオルを作ると、笹崎の髪を――僕基準で――『まとも』な状態にした。彼女は不機嫌そうに黙り込んでいる。彼女はシーツの上にあぐらをかいた。僕は椅子に座っている。
「朝飯は出ない。とっとと話を説明しろ」
「あ?」
「なんでこんなことになっているんだ? 八代さんはなんの関係がある?」
 彼女は黙ってシーツを爪で擦った。行きと帰りで音が違う。僕は口を開いた。カードを全部切る。
「……サカシタって誰のことだ?」
 彼女は突発的に立ち上がった。頭の上に載っていたタオルを僕に投げつける。僕は片手で受け止めた。笑いそうになった。違うぞ。僕は笑いそうになんかなっていない。違うな。僕は本当に笑いそうになったんだ。
「なんで知ってんの!?」
「なんでだろうな」
 彼女は僕を威嚇した。フーッ。猫を飼ったことは? 被ったことは? どうでもいいさ。くだらない話。僕は彼女の方を見た。怯えたような瞳。僕のせいじゃなくても。嫌な気分になる。何でだ? さあね。理由はないさ。全てのことに理由なんて無いんだ。理由の理由を探して。どこまでも素粒子を分解していって。小学校の生徒達。
 彼女はベッドの上でぐらぐらしながら僕を睨んでいたが、やがて座り込んだ。そして、諦めたように、一つだけため息を吐いた。
 僕はだんだんいらいらしてきた。駄目なんだ。やっぱりな。僕はシリアスに向いていない。なんでだろう。他人のシリアスを受け入れられないんだ。気まぐれなんだよ。制御出来ない部分。伸び縮みする男の下半身から、別のところに移ったんだ。このど頭にさ。
「あたしはさ……」
 彼女はささやき始めた。暖かい吐息でもって。僕の胸に頭をあずけてこようとした。僕は彼女の肩を掴んだ。彼女の体が途中で止まる。瞳が合った。熱病的な瞳だ。風邪と熱狂フィーヴァーは区別がつかない。彼女の瞳。狂人レイヴァーのような。何を彼女にやるギヴ・ハー? なにもないさ。それが救いだ。
「……あの人がさ、あたしにさ、何したと思う?」
「聞きたくないよ」
 彼女は黙って僕の手を触った。嫌な触り方だった。分かるだろうか?
 子供がしていい触り方じゃなかった。まず中指が手の甲に触れた。探針プローブのように。それから人差し指が手の方向を決めた。薬指と親指がそっと介助して、小指が大儀そうにやってきた。
 小さく手首がひねられて、僕の手が握りこまれた。独特の握り方。柔らかく握りこむ。ところどころ強くして。筋肉の蠢きが感ぜられる。
 嫌になっちまう。僕の手の中には何もないぜ。嫌なんだ。笛吹くんの声は安心できない。彼女が安心できなかったのは、僕の声だけじゃない。何も救わないのさ。それは。いくら巷の奴らが歌い上げたとしてもね。
「聞きたくないの?」
 僕はゆっくりと首を振った。そして「とっとと準備しろ」と呟いた。三白眼。ゆっくりと体を引き離した。甘い罠。違うことはわかっているさ。子供は助けを求める。どんな形の救いだとしても。罠じゃないことはわかっている。笹崎が嘘つきじゃないってことはわかっている。わかっていることと信じることの間には隔たりがある。大きな隔たりだ。世界中のすべての人々が埋めようとしている隔たりだ。僕もすべての人々のうちの一人にすぎない。
「……なんで?」
「チェックアウトが十時だからだ。時間がないんだ。僕は時間をかけるタイプでね」
 彼女は目を細めて、曖昧な表情を浮かべた。惚れている男なら恋慕だと思い込み、恨んでいる男なら軽蔑だと思い込む種類の笑顔だった。胃の底に、おがくずの塊が小さく固まって、こびりついているような気分になった。こんなタイプの笑顔が出来たからって何だよ。
 僕は書き物机に歩いて行って、昨日書いたメモをぐりぐりと塗りつぶした。手がひどく震えた。大きなため息を吐いた。
「ねえ、ごめん。でもマジもんの――」
「知ってるよ。てめえがいつでも本気で言ってんのなんて知ってんだよ」
 僕はそれだけ吐き捨てて、荷物のパッキングを始めた。彼女はそれを黙って見ている。彼女には替えの服がない。僕は考えた。
 ひどく汚れたシャツの女の子と出会った時、僕はどうしてやればいいんだろう。彼女のために、新しい服を買ってやればいいんだろうか? それを彼女に着せてやればいいんだろうか。新しい服ですよ。清潔で、美しくて、機能的で。見違えるようになったね。王子様がそのうち見つけてくれるよ。目尻の涙を拭えばね。
 でもさ、僕はこうも考えるんだ。
 その女の子が、僕の買ってやった服に着替える時、何を思うんだろう。彼女に残った、最後の一片の誇りが消えちまうってことは無いんだろうか。僕が、その薄汚い服を捨てろと言う。僕の目の前で早く着替えろと言う。裸になった時、彼女は何を考えるんだろう。自分の尊厳が傷つくことを黙って見ているんだろうか。綺麗な服と引き替えにして。
 僕は誰の許可を求めているんだろう。何が僕たちの進む道を決める? ソーシャル・ネットワーキング・サーヴィス。僕の指導者になるはずだった存在。この手の中には何もないのさ。六万円と銀行のキャッシュカード以外には。
 フロントマンは昨夜と同じだった。彼女と僕は顔を見合わせて、どちらともなく微笑んだ。
 会計を手早く済ませた。深夜のチェックイン、朝食なし、早めのチェックアウト。値段もそれ相応。彼は丁寧にお辞儀をした。しなくていいさ。咲の方をちらっと見やって、僕に「うまくいくといいですね」と囁いた。僕は目線で礼をした。
「あの」
 笹崎が、低い声で口を挟んだ。フロントマンは小綺麗な笑みを浮かべて、彼女の顔を見た。あまり綺麗とはいえない床を、彼女のスニーカーがコツコツと叩いた。
「どうかなさいましたか?」
「失礼じゃなければ聞きたいんですけど、あの、あんた――あなたって、いつ家に帰ってんですか?」
 僕は笑わずに彼女を見守った。
 彼はカウンターに指を組んで、薬指に嵌った銀の指輪をいじった。それから、ペン立てに刺さっていたボールペンをくるくるといじりながら答えた。
「私は帰らないんですよ。住み込みです。支配人がフロントに出るホテルは珍しいでしょう?」
 曖昧な沈黙。彼女はカウンターに置かれた領収書を見る。それからもう一度、初老の男の顔を眺めた。それからロビーの隅の方を見た。
 彼女は左眉にくっきりとしたしわを浮かべて、それから尻のポケットを探った。畳まれた二千円札を取り出して、カウンターにそっと置いた。支配人は彼女の顔をじっと見て、「受け取れません」と言った。僕は黙って二人を見ている。彼女が、裂けそうに薄い唇を舌で舐めた。それから、ゆっくりと言葉を準備した。
「……受け取れなんて言ってません」
 間。
「マッチが買いたいんだけど、足りますか」
 初老の男は目をつぶって、遠い昔を思い出すように、少し動きを止めた。それから首をやれやれと振って、手元から小さなマッチ箱をひとつ取り出した。
 近くにあったドトールに入る。女子大学生くらいの女の子がメニューを取っている。僕は何だか嫌な気分になりながら注文した。
「暖かい紅茶とハムタマゴサラダ。ここで」
「同じの」
 僕は何も言わなかった。彼女は窓から遠い席を選んだ。彼女はサンドイッチの耳の部分だけぐるりと齧った。パンくずが皿にこぼれて、そのうちの幾つかは紅茶に混ざった。僕は黙って紙ナプキンを広げて、カップを覆ってやった。夜と夕焼けの中間のような色になった。
「あんがと」
「どういたしまして」
 そのまま黙って、僕たちは朝食をとった。彼女は首筋をがりがりと引っ掻いて、「あんたさ、食うのうまいよね」と呟いた。
「練習したんだ」
「あ?」
「練習したんだよ。なんでしたのかはよく分からん。でもただしなきゃいけなかったんだ。子供の時の僕は少なくともそう思っていた。綺麗にメシを食え、手は爪まで洗え」
「綺麗にメシを食え、手は爪まで洗え」
 彼女は繰り返した。僕は頷く。これは誰が言っていたんだっけ。何の役にも立たない技術だった。誰の印象にも残らない食い方が出来るようになっただけだ。徴兵の時に『パンが綺麗に食えない奴は前線に行け』という司令がくだされるものと僕が信じていた時の話さ。貧乏人のプライドだ。
 笹崎はしばらく黙っていた。薄くて短い髪の毛を手櫛でいじっている。それから、ひとつため息を吐いて、「どうすんの、これから」と言った。僕はスマートフォンを取り出した。
「こいつがなんとかしてくれるさ。文明だね。市民には文明を与えよ。こっちを覚えとけ。飯を綺麗になんとか、じゃなくて」
「市民には……?」
「『市民には文明を与えよ』」
 彼女は首をひねった。つまらん冗談さ。全然だめだな。誰も喜ばねえ。でも僕は言っちまうんだよね。仕方ねえのさ。笹崎はそのくだらない文句を一回呟いた。朝だというのに、僕はすでに一日分の気力を使い果たしたような気がしていた。
 間。曖昧な店内音楽がかかっている。彼女は紅茶のカップにスプーンを突っ込んで、カチカチといじっていたが、やがて飽きたらしく、机に身を乗り出した。 
「結局さ、何であんたはあの人の事、知ってたの?」
「結局よ、何でてめえはチュー子の事、知ってたんだ?」
「チュー子?」
「八代仲子ナカコのことだ」
 僕はスマートフォンでタイムズのレンタカーを借りる手続きをしながら聞き返した。彼女は言いにくいそうに首をひねったが、んとさあ、と切り出した。
「つまんない話だよ。マジもんの。麻里さんは助けてくんなかったけど、麻里さんの知り合いの仲子ちゃんは助けてくれたってだけ」
「麻里さん?」
「あんたが牛丼の半券、あげた人だよ」
 笹崎夫人の事を思い出した。何だかひどく懐かしく感ぜられた。牛丼の半券。大戸屋のことを思い出した。自分の娘が傷つけられて、それで黙っている。最低の母親だな。僕は心のなかで舌打ちをした。マジでやってらんねえ。しかもあんなジジイと来た。『忍耐は一種の正義』だってよ。んなわけねーだろ。
「なるほどね。ちなみに、僕があのサカシタの事を知ってんのは君が言ったからだ。寝ながらな。こういうのは禁じ手だが、しょうがねえのさ。いつかてめえだって言っただろうからな」
 彼女は黙りこくった。そして「時間の問題ってやつだね」と小さく呟いた。彼女は紙ナプキンを小さく折りたたみ始めた。
「そうだな。時間の問題だ。すべての問題は時間とエネルギーと処理できない欲望の問題なんだ。知っての通り」
 間。僕は予約を途中でやめて、スマートフォンを伏せた。彼女と僕はやっと目を合わせた。新鮮な鶏肉みたいな色の唇がゆっくり動いた。
「あんたさ、おんなじ夢って見たことある?」
「ある」
 彼女はちょっと笑った。それから続けた。はよ言え。
「あたしも見んのよ。ヘンな夢だよ。でもマジもんなんだよ」
 あたしはさ、大きな部屋に連れて行かれるんだ。同級生と一緒に。みんな浮かれた顔してる。校外学習なんだよね。そこは真っ白な壁の部屋なんだ。高校の体育館くらい広くって、ずっと向こうに出口が見える。それ以外には何にも物がないんだ。どっちが上かも分かんないくらい真っ白な部屋なんだ。いや、ホントにそうかは分かんないけど。夢ってそんなもんじゃない? よく分かんないけど、とにかくそこは真っ白ってことだけは分かるんだよね。
 そんで、壁と同じように真っ白な服を着た人が出てくる。みんなギョロッとした目してて、でかいマスクをつけてる。紙が二、三枚挟まったボードを抱えてる。だぼっとした、ええっと、そう、それ、白衣を着てんの。
 その人達が私達に向かって「あちらに行きなさい」って教えてくれる。それで、みんなぞろぞろ出口の方に向かっていくんだ。別に、全然変なことじゃないんだ。とにかく変なことじゃないんだよね。分かるよね。
 でも、あたしは気がつくんだ。その広い部屋の――あたしから見て右側の――壁は、ガラス張りになっていて、隣の部屋が見えるようになっているんだってことに。あたしはそこに駆け寄って、中を見るんだ。
 そこには、ひとつ、小さいベッドが置いてあって、そこに、芋虫みたいな人がいる。真っ白な包帯を巻かれて、真っ白な部屋の真っ白なベッドに寝かされている。足も手ももげちゃってて、目も耳もダメになっちゃってる。でも、あたしには分かるんだ。その人は生きているんだよ。体中にチューブをめちゃくちゃに突き刺されてさ。もう、マジもんの事実としてね。
 二つの部屋を仕切るガラスはすっごく厚くって、声なんか絶対に通らなくって――まあ、通ったとしても、その芋虫さんは耳が聴こえないんだけど――あたしはなんだか不安な気持ちになるんだ。あたしはこの部屋を出ていいのかなって気分になるんだ。周りの人の中には、その芋虫人間に気がつく人もいるけど、みんな諦めて出口に向かっていくんだ。
 大人がやってきて、あたしの肩を掴むんだ。
「笹崎さん、その人に声は届かないんだ。その人はこれからゆっくり死ぬんだよ。私達が看取るから、君たちはあの出口に向かいなさい」
「でも、あたしは――」
「笹崎さん、早く行きなさい」
 でもね、その人に、目も口も耳も腕も足も全部まるきりダメになっちゃって、ただ生かされているだけの人の前で、あたしは精一杯面白い話をしてあげたいの。あたしはその人のそばで踊って、その人のそばで歌って、その人のそばで勉強して、その人のそばでおばあちゃんになって、その人のそばで死にたいのよ。
 でも、あたしはわかっているんだ。そんなことは出来ないってね。ガラスがすっごく厚くて、向こうに行ける入り口は、とっくのとうに塞がれちゃってるってね。
 ねえ、こんな夢を見るのってさ、ヘンかなぁ。
「変じゃない」
 僕はなんとか声を絞り出した。シュルレアリスム。破滅的な夢だ。きっと変な夢なんだろう。誰からも理解されない夢だ。タラララッ、タラララッと笹崎はテーブルを四本の指で叩いた。
「どんな夢だって理由があんのさ。見るに足る理由がね。誰もそれを信じちゃいないが、信じちゃいないものがこの世に存在しないわけじゃない」
「難しいこと知ってんだね」
 僕は黙った。それから、スマートフォンに向き直って、予約を進めた。なんて返せばいいんだろう。こんなことを言われたことはなかった。
「どうすんのよ。これから」
 彼女は、トレーやら皿やらを僕のに重ねた。僕は肩をすくめた。
「僕らはその『愛すべき芋虫さん』を解放してやろうじゃないか。どこにいるか分からんけどね。貯金は三十万あるんだ。さて、笹崎さん、どこに行こうか?」
 彼女はじっくり考えてから、おもむろに切り出した。
「……あんたが育ったところ。そこにいそうな気がする」
 間。
 あの場所にいるのだろうか。僕は考えた。あの場所に、笹崎の言う、芋虫男が住んでいるのだろうか。そんなことはないのだ。結局、夢は夢でしか無い。キング牧師は死んじまった。シャヘラザードはうまくやったよな。でも、死なないためだけに生きるってのも嫌なもんだよな。包帯。ぐるぐる巻きにされてさ。ジョニーはどこに行ったんだっけ。
 僕は考えた。そして、タイムズのレンタカーを乗り捨てワンウェイで予約した。受け取り時刻までまだ時間があった。僕は笹崎を促した。
「立てよ、服、買いに行くぞ。山梨まで、そんなにかからんさ」
 僕は考えた。笹崎がそばに座っていたい男について。崇められた男について。
 僕たちは何を喋るのだろう。囁くのだろう。囁き。どこか懐かしい響き。笹崎と似ているのだ。
 音だけが。
sage