Neetel Inside 文芸新都
表紙

彼女の靴を履かせてくれ
この青い花に名前をつけてさ

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 ファストファッションの店で、つまらねえ服を買った。タートルネックが何枚か。下着が何着か。ウォッシュされたジーンズとカーキのズボン。彼女がニットをご所望だったので、それもカゴに入れた。会計は当然だが僕持ちだった。
 全くやんなるぜ。彼女はそれでも楽しそうにしていた。そりゃ楽しいだろ。僕だって誰かのどえらい財布から勝手にカネをぽいぽい使えりゃ最高にハイになるってもんだ。塵は塵に。灰は灰に。服は福と同じ音だ。福は内――肉体へと。内側に人がいるから。混乱してんな。やってられねえ。しめて一万五千円なり。残金はだいたい三十万円だ。
 タイムズの黄色い店で、冬の夜空みたいな紺色の車を借りた。彼女は気に入ったように見回して、タイヤを小さく一回蹴った。
「行くぞ」
「オーケー」
 店員は怪しげな視線を向けたが――僕と笹崎を順番に二回ずつ見て――一回左頬をぴくりと痙攣させただけだった。仲の良い兄妹ともいかんが、十何歳児を無理やり引きずり回しているようにも見えないってわけだ。まだ可能性はあるが、無視できる。例えば、笹崎がとんでもねえサディストで、僕はイカれた性的倒錯者で、どんな馬鹿げたことでもしてしまう、とかなんとか。まあいい。
 ドアを閉めて、僕たちは東京の街を進み始めた。天気は晴れ。冬は晴れが似合う。彼女はカーステレオをいじっていたが、やがて戻せなくなって、諦めたようにほっぽり出した。
「何、ニヤついてんだ。ちゃんと戻しとけよ」
「いや、あんた、運転出来んだなって」
「僕もそう思う。びっくりだね。ル・マンに出る予定ができた。優勝したら呼んでやるよ」
 間。しばらく時間が経った。信号機のルビーが何回かエメラルドに変わり、逆にエメラルドがシトリンを経てルビーに変わった。彼女は通りすぎる車種を訊いて、僕はそれの幾つかを答えた。楔が二つ並んだやつは分からなかった。ごめんな。
「前、青だよ」
「おう、すまん」
 間。彼女は助手席に深く腰掛けていたが、「あのさ」と切り出した。
「何だ」
「カーナビ出して。ちょっと横でとまって」
 僕は言われたとおりに小道に入って、路肩に車を止めた。一方通行じゃないといいが。僕はコンソールをこきゃこきゃと操作して、地名入力まで出してやった。それでも笹崎は深く座ったまま、手短に住所を告げた。
「とにかく行って」
「理由がなきゃ動かねえんだ。とにかくってのも理由のひとつだがね」
 彼女は黙って、ずるずると背もたれから崩れ落ちた。それから、「お世話になってんだ」と言った。僕は住所を打ち込んで、パーキングからドライブにギアを入れた。お世話になってんだな。
「ひとつ言う。ひとつだけだ」
「何?」
「今日、月曜だ」
「仲子ちゃんがうまくしてくれてる。学校の先生だってあたしのことくらい知ってる。事情って意味。いくら馬鹿でもそんくらいは知ってるよ」
「いくら馬鹿でも」
「そ。で、今からその馬鹿のいるところに行く、つーか行きたい、だから行って」
 だから行って。全く困ったもんだ。
 僕はウィンカーを入れた。リズムは心拍数と同じ。ちょっと緊張した時の。鼓動のリズムは車ごとに違う。リズムの奔流。支流など無く。チカッチッチチカッ。緊張した拍。三連符。近づいて遠ざかる。組み合わさった数列。車の流れ。原初の音楽。
 笹崎の方を見ると、ウィンドウに頬を貼り付けて、目を細めていた。

     

 驚いたことに、中学校には来客用の駐車場があった。と言っても、すでにそこは二十三区から離れた西東京だったのだからそうなのかもしれない。僕には分からん。この世は分かんねえことだらけさ。『この世』という概念を考えだしたのも人間だし、それをちゃんと理解できなかったのもまた別の人間だ。
 守衛の爺さんは不思議なニヤつきをして僕たちの車を通した。多分、このニヤつきに動揺するやつを弾いているんだろう。ロリコンの心ってのは随分弱くできているらしい。嘘がつけないともいう。僕は自分の性的嗜好がまっすぐに育った事を嬉しく思った。今のところ僕のそれは雌伏の時を迎えているが。いや、男のそれが『雌伏』と言うのは健全な状態にあるという意味か? まあいいさ。
 僕達は特に何事も無く、校舎の中に入った。小さい学校だ。来客用スリッパは履かなかった。床の冷気が靴下を通して伝わってくる。廊下の隅には影がうずくまっている。子供の声は聞こえるが、子供の姿は見えなかった。亡霊の住む学校にでも来たような気分になった。
 彼女は僕の方を振り向いて、「あのさ、と口を開いた」
「十分、ここで、待ってて。あたしはあそこにいるから」
「オーケー。何するつもりだ?」
 彼女は答えなかった。その代わりに「時計ある?」と尋ねた。僕は腕時計を渡してやった。彼女は何だかおぼつかない足取りで、廊下の隅まで歩いて行った。ママにお別れを済ませな。僕が他人の墓から花でも取ってきてやるからさ。
 彼女は、薄暗い廊下にぽつんと立った。何分かが経った。朝の会が終わり、生徒たちががやがやと出てきた。何となく不釣り合いに感ぜられた。彼らはどことなく、深海に住むイソギンチャクのように、その細くて白い手足を動かしながら廊下を通り過ぎた。僕の方に注意を向けるものもいたが、ほとんどは無視した。中年の教師が通り過ぎる。彼は首からネームプレートを下げていて、僕は役畜を思い出した。ヒゲをうまくそれていないのも、どこかで見た牛と似ている。
 彼女は廊下の隅につったっている。誰も彼女のことを見ていなかった。彼女の横を通り過ぎ、彼女のそばで定規を落とし、彼女の隣でどつきあい、彼女の目の前で話し合っている。それでも彼らは彼女に話しかけなかった。気がついてさえいないのかもしれない。教師も同じだった。 
 それでも彼女は待ち続けて、やっと(多分)十分経ったところで、僕の方に歩いてきた。
 僕はなんとも言わずに腕時計を受け取って、彼女を促した。彼女は別段悲しそうな顔もしていなかった。僕たちの車のボンネットがきらきらと光った。それだけだ。僕たちは車に乗り込んだ。
 守衛は、やはり同じような顔で僕たちを送り出した。彼はきっと悪意など無いのだろう。もし、あの爺さんがさ、『目つきが気狂いじみている』とかなんとかいう理由で首を切られたら、僕はどんなことを思うんだろう。いつものように嫌な気分になるんだろうか。その、深い紺色の後悔はどこに向かうのだろう。彼に会わなけりゃよかった。僕はきっとそんなことを言うんだろう。
 車の中はひどく静かだった。カーステレオを入れるのは僕の仕事じゃない。沈黙に満たされた隔離病棟。患者は二人になった。

     

  車に乗らない奴はETCカードを持っていない。僕は車に乗らない。よって、僕はETCカードを持っていない。
 三段論法。前提の真偽は問わない。形式的な綴り方だ。室町の禅宗のような論理。肉は食べません。規則は守ります。祝詞と私とばちと。みんな違って、みんな論理の奴隷なのだ。滝に打たれて、独創性を洗い流して。
 くだらない話はどうでもいい。僕はETCカードを持っていない。だから、有人のゲートウェイをくぐって高速に乗らなきゃいけなかった。笹崎は物珍しそうに見ている。勝手に見とけよ。
 バーの前で止まる。受付のブザーを押した。去年かそこらに、ブザーが付いたとニュースになった。新しいだけのニュースだった。シルバー人材センターから発送されてきた老人が、険しい目つきを僕に注いだ。こう言っている。てめえ、よくもこんなところに来やがったな。てめえのせいで俺は起きなきゃいけなかったんだぞ。すまんね。許してくれよ。あんただってちょっとはそのどえらい尻を浮かせろ。
「どうも。入ります」
 僕に返事をせず、彼は無愛想にチケットを差し出して――助手席に座った笹崎を見つけて――バーが閉まっていることを確認して――カレンダーを確認した。
「おたく、何歳?」
「二十二」
 何でマジな方の年齢を言っちまった!? 馬鹿か僕は? まあ馬鹿なんだな。でも何でこんなに知恵がないんだ?
 いや、しらねえ。車内には二人だけ。文殊には後一人足りない。高速に増殖させるには。救命用具のようなベストを来た老人は、より眉間の皺を深くした。
「何の用で?」
 彼の腕が机の下に伸びた。ブザーでもあんだろう。僕がブザーを押してこいつ呼び出して、こいつもブザーを押して警察を呼び出す。警察が精神科医を呼び出し、精神科医が心理学者を呼び出す。心理学者が哲学者を呼び出し、哲学者は話を聞いてねえ。そういうからくりになっている。そんな峠があったな。源義経の計略。赤い牛の角に松明をつけて崖から突き落とす。カフェインがたっぷり。翼もありますよ。
「山梨です」
 これは答えじゃないな。
 開けっ放しの窓から、冷たい風が吹き込んできた。僕はごまかすように両手をこすりあわせた。彼は、机の上に置いてあったらしいペンを取り上げて、コツコツと受付窓のガラスを叩いた。
「何の用で行くんだ?」
 間。僕はちょっと目をそらした。不味いな。何か考えなきゃいけねえ。馬鹿げた話なら死ぬほど出てきた。この女の子をレイプして殺した後、森に捨てに行くんです、とか、身代金をどこまで吊り上げられるか確かめに行くんです、とかだ。何よりもひどい選択は、間違いなく、『包帯でぐるぐる巻きにされた芋虫みたいな男を探しに行くんです』だった。とにかく、僕は口をつぐんだ。沈黙は金。最低でも金。
「ちょっと時間いいかな。一応さ、確認だけはしとけって言われてんだよ……」
 状況を整理。
 平日の十一時半。ETCの無い車。若い男。明らかに中学生と思われる女。どこか急いでいるように見える。受け答えがはっきりしない。目つきも怪しいし、男は性的不能――ビンゴ! どんな無能だって疑ってかかる。怪しさが爆発する。首に麻縄がソッコーで巻かれる。床板がガコン。遺恨と禍根。
 僕は「ご自由に」という顔をしたが、実際のところ、僕の社会的地位が――いくら不要なものとはいえ――多少攻められるのは間違いなかった。
 彼はブースから外に出て、僕たちの車を覗き込んだ。正確に言えば笹崎の方を覗き込んだ。彼女は紺色のニットを何だか不安定にかぶっていた。老人の顔をじっくりと眺めて、「あの」と出し抜けに切り出した。
「あたし、だいたい何言いたいか分かりますよ」
「は?」
 と老人。
「あたし、あなたの考えていることが分かるって言ったんです。聞きたいですか。聞きたいでしょ」
「いや、おれは、別に、聞きたくもねえし、あんたたちのことを疑っている――」
「うそ、聞きたいくせに。聞きたいんでしょ。うずうずでしょ」
「いや、うずうずというわけじゃ」
 彼女はニットを取って、人差し指に引っ掛けて、ふいんふいんと回した。それからにやっと笑って、フロントガラスに帽子を投げつけた。
「あたしたちのこと、と言うか、特にこのお兄ちゃんのこと、変態だと思ってるでしょ」
「はあ? いや、馬鹿なことを言わんほうが――」
「嘘つき。そう思ってるでしょ。あたしが、この人にさらわれて、誘拐されてると思ってるでしょ」
 老人は首を振ったが、何だか、ひどく硬いジャムの瓶の蓋が開いたり閉まったりするみたいな振り方だった。
「あたしだったら思うな。だって、いかにもじゃない。若い男。ちょっと根暗っぽくて、部屋にはヘンテコな絵がいっぱいかかってる、マジもんのヘンタイって感じじゃん。そう思ったでしょ。ねえ、おじさん、何想像したの。教えてよ。あたしたちのこと疑ったんでしょ」
 言いたい放題言いやがって。悪口のビュッフェだな(ひどい隠喩だ。ゼロ点)。僕は老人から顔を背けた。
「ねえ、どんな感じだと思う? すっごい関係って思ったんでしょ。マジもんの、ヤバい関係だって想像してんでしょ。今日それでするつもりでしょ。あたし知ってんだからね。ね、どうなのさ」
「そ、そんなことし、しっこないだろ、この――」
「じゃ、開けてよ。とっとと。早いとこ。そうじゃなきゃ、あたし、マジで思うから。あんた、ヘンタイだって」
 老人はしばらく怯えたように辺りをキョロキョロと見回していた。彼女は「ねえ!」と軽い叫び声を上げた。それをきっかけにして、彼は慌ててブースに引っ込むと、バーを上げた。取ってつけたような笑みを浮かべた。僕も愛想笑いを返した。
 十分加速してから、僕は一言「二度とすんな」と言った。
「結果オーライじゃん?」
「結果はな」
 僕は何だか悲しくなった。運転しながら彼女のことを考えた。県境の標識は誰かの手によって破壊されていた。

     

  なんとかとかいうミュージシャンのなんとかとかいうアルバムを二周半したところで、僕たちは高速を降りた。三千円ちょっと。まあそんなもんだ。勝沼のインターチェンジ。慣性力がぐーっと掛かって、またすっと抜けた。カーブの中心には、雨か何かでしっとりと濡れた松が、冬の光を浴びてくすくすとけぶっていた。
 僕は何だか腹が減ってきた。彼女に訊いた。
「腹がぶったまげて減ってんだよ」
「二時間」
「は?」
「あんた、二時間、ずっと一言もしゃべんなかった」
 そうかもしれない。でも、これでも結構楽しくやってたんだぜ。僕は話の種がないし、才能には芽が出ない。そんなこと無いって否定してディナイくんねえかな。これは冗談でない。
「だから? 女の子って、しゃべんないと腹が減らねえのか。じゃあ喋ってろよ」
「そういう意味じゃない」
 あっそ、と僕は言って、適当に車を流し始めた。彼女はそこら辺にぽつんと立っていたラーメン屋に行こうといった。よって僕はそこに車を止めた。
 人が住み着く前から存在したみたいな、小さなラーメン屋だった。のぼりはすっかり色あせていたし、看板には『ラーメン』としか書いていなかった。何より、入り口のガラス戸はひどく砂が詰まっていた。
 僕たちは店内に入った。
 カウンター席が少し。テーブルが四つ。先客は二人しかいない。金髪の若い男と、何だか怪しげな老婆だった。若い男の方はわかりやすく荒れていた。こういうのは好感が持てる。どこに交換に出しても恥ずかしくない。彼はスマートフォンをいじりながら、カウンター席を三つ分使って、寝そべるようにして何か(少なくとも食い物)を待っていた。老婆の方は、黒尽くめの服を着込んでいた。フェイクファーと思しきもこもこをテーブルの椅子の背にかけて、神経質そうに煙草の灰を落としている。
「二人で」
 化粧もしていない、中年の女性が、投げやりに「テーブル」とだけ言って、それから店主が「らっしゃあ」と呟いた。テーブル。らっしゃあ。ひとつの詩だ。改行を多めにとって。タイトルはできるだけすっきりさせたほうがいい。いっそないほうがいいな。こうだ。

     

 詩





テーブル





らっしゃあ



     

 僕と彼女はどちらも醤油ラーメンを頼んだ。ラーメンと名前のつく料理が『醤油ラーメン』と『味噌ラーメン』しかなかったからだ(味噌ラーメンを頼むのはどう考えても人間のやることではない)。
 備え付けの割り箸を二膳、笹崎は勝手に割った。どちらもひどくアンバランスに割れた。彼女はひどく面白そうな顔をして僕の方を見てきた。
「短いの二本で食え」
「どういう意味?」
「子供用の箸」
 会話が終わった。僕と彼女はお互いのコップの中に箸を突っ込みあって遊んでいた。何が楽しいのかはよくわからなかった。ただ、楽しさを感じるためには、少なくとも何かする必要はあった。
 店内には一台だけテレビがあって、延々と、どこかのアホみたいな政治家を映していた。なんとかかんとかクンが席を立ち、エリートが用意した台本をなぞる。もう一方のうんぬんかんぬんクンが、また別のエリートが用意したセリフを音読する。よく出来ました。ポカポカ、んもう、ゆるさないんだからね。よしてくれよ。
 店内はかん水とメンマの匂いが充満していた。中華鍋とお玉がぶつかり合う音だけが、精神病を患った音楽家が叩くうろんなカウベルのように響いた。しばらくして、若者のところに何かを炒めあわせたものが運ばれた。彼は舌打ちを一つしてから食べ始めた。
 そのうち、僕と彼女のところにもラーメンがやってきた。奇妙に緑色の強いノリとぺらぺらのチャーシューが浮いていた。彼女は黙ってめんまを僕の丼に植樹した。
「ナスの時の前金だ」
「ナス嫌いなの?」
「ああ」
 麺はひどく柔らかかったし、スープは何だか色も味も薄かった。亡霊みたいなラーメンだった。僕たちはそれでも美味しそうにそれを食べたし、僕に限って言えば、美味しいとさえ思った。若者はさっさと代金を払って帰っていた。
 突然、後ろのテーブルに座っていた女性が、コップをコトンと倒した。水がテーブルにつーっと走って、ぱたぱたぱたとこぼれた。笹崎は後ろを振り返ろうとしたが、僕は小さく「やめとけ」と言った。笹崎はいつもよりさらに低い声で、「あっそ」と言った。
「どうかしまし――」
 化粧をしていないほうの女性が、バンダナの上からこめかみを掻きながら尋ねた。黒尽くめの女が途中で遮る。
「私、何頼んだかしら」
「ええと、味噌ラーメン……」
「はあ?」
「ですから、味噌……」
「の、何?」
 バンダナの女性は哀れになるくらいメモ帳をめくっていたが、回答はどこにも見つからなかった。
「コーンを抜いて欲しいって言ったのよ。私。何でコーンが入っているのかしら」
 コーンね! 僕は笑いそうになって、突然ひどく気分が悪くなってきた。黒い服の女はどう見たって愉しんでやっていた。何のために? 暇だから? 許されることなのか? 僕は何だか非常に嫌になってきた。帰りたくなってきた。
 笹崎は黙って僕の瞳を見た。見てんじゃねえよ! はあ? ふざけんなよ。
「それは、その、ごめ、すいません、すぐに、作り――」
「いいわ、別に。食べないから。別に作りなおさなくてもいいわ」
 店長は所在なさ気につったっている。僕はテーブルにおいてあった爪楊枝を一本取り出して、端からぽきぽきと折り始めた。
「申し訳ないです。お勘定はその」
「払うわ、払えっていうんでしょ。ええ。頼んだのは私ですから。払いますよ払います」
「いえ、別に、払わなくても……」
 黒の女が自分の財布を、テーブルに叩きつけた。ひどく大きい音が響いた。叩きつけるのに慣れすぎている。
「払うわよ、そんな目をして、お代を出さなかったら恨むくせに、払う払う払う! ああ、払いますよ!」
 彼女はこれみよがしに千円札を財布から引っ張りだして、忌々しげに押し付けた。
 笹崎が、僕の手の甲を箸でつついた。それから、「何とかしてよ」と低い声で言った。
「あたしさ、こういうの、マジで我慢できないんだ」
 僕は大急ぎで計画を練って、それから二秒でこう囁いた。
「うまいことカネを盗め」

     

 黒の女は財布をテーブルに置いて、千円札を両手でつまんで持つと、バンダナの中年女性に渡した。僕は静かに素早く立ち上がると、黒の女の方に歩いて行った。
「あら、あなた、何かし――」
「いえ、テーブルが濡れてますから、拭かないと」
 僕は黒の女とデーブルの間に割り込んで、バンダナの女に目配せをした。僕はテーブルに腰掛けて「いや、何となく。気まぐれですよ」と愛想よく言った。
「はあ、それは結構ね。それにしても、いきなり、失礼じゃないかしら」
「そうですかね。僕にとってはさほど失礼じゃないですよ。お金をお持ちの方が、床で滑っちゃいけないですし、何より、見栄えも悪いでしょう」
 黒の女は、見れば見るほど、中学校の時の美術の教科書に載っていた『だまし絵』の女そっくりだった。もちろん、顔を埋めた、異常に顔のでかい婆さんの方だ。向こう側を向いた女性の方ではなく。
「え? 冗談よしていただけない? こんな店に見栄えがあると思っているの?」
「ええ。この世に存在しているすべての物体に見栄えはありますよ。あなたの何兆円かするファーにも。シャネルの八番にも。もちろん味噌ラーメンにも。抜かれたコーンにも、あ、正確には抜かれていないんですが、とにかく、コーンにも――」
「何がいいたいのかしら」
 ちょっと時間を稼ぎたいっていいたいんだよ。僕はそのまま半ば精神病めいた会話を一分続けて(これが限界だ)、バンダナのばあさんから台布巾をもらった。黒い服の女に背を向けると、笹崎が一瞬だけにやっと笑った。僕も一瞬だけ、にやっと笑って、さっと台を拭いた。水が追い立てられて、数秒掛けて布巾に染みこんだ。
「本当、お代はいいので。勘弁して下さい……」
「はいはいはいはい、いいわ。ありがとう。ありがとう。どうもありがとう」
 黒の女はなんだか興が削がれたように肩をすくめて、フェイクファーを首と肩にぐるりとかけた。テーブルの上から(さっきとはなんだか向きが変えられて置いてあった)財布を取り上げると、彼女は店を出て行った。
 間。
 笹崎がにやっと笑って、「へへ」と声を漏らした。僕も「へへ」と声を漏らした。遥か彼方から光がさっとさして、テーブルを味見するように舐めた。テレビの音がなぜだか小さくなった。ありとあらゆるものが、たくさんの法則を無視して、好き好きに――多くは、いつもよりゆっくりと――時を刻んだ。氷水のピッチャーにへばりついた、透明なてんとう虫のような水滴は、くにくにと周りのてんとう虫をリレーしながら落ちた。カウンターにはもやしが一本、なんだか気品を湛えた象牙細工のようにこぼれていた。
「いくらだ?」
「五万」
 ピンとたった慶応義塾大学が五枚、彼女の手元に置いてる。店長が中華鍋をコンロに叩きつける澄んだ音がした。一回打つたびに一つの時が刻まれる。逆の年輪。そちらの方がいい。ぶくぶく肥る木よりも、少しずつ衰えながらも僕達に鉄分をくれる中華鍋のほうが。年代の測定には向かない。
「ちょっとあんたら、何やったんですか?」
 ばあさんの疑問符。僕達は顔を見合わせた。勝手にすればいいよ。お馴染みの肩すくめ。彼女はバンダナ女に話しかけた。落ち着いた声だ。君ならもしかしたら、僕の元彼女を救ってやれたんだろうか。反語的表現。なんだかごめんな。
「おばさん、お勘定、お願いします。五万円で足りますよね」
 二人の顔を見比べた。そして――今度は上手くいかなかった。バンダナの女性はなんだかひどく疲れたような顔をして、首を振った。
「いいえ、結構です」
「そんな、おばさん、会計させてください」
 その『おばさん』は首をしつこく振った。
 変な沈黙があった。さっきのとは全く違う種類の沈黙だった。
 ローマ法王を決めるときは、ちょうどこんなふうな空気が流れるんだろうか。次の将軍は誰にしますか。犬公方の誕生。いや、もっと悲劇的なのがいたな。暗殺に次ぐ暗殺と、それに対する回答が繰り返される。もやしはすっかり萎えて閉まっていたし、ピッチャーはびたびたしたプラスチックに成り果てている。急流の岸辺にできたよどみに、水が長くはとどまれないように、僕達の世界はやはり元の早さに戻ろうとしている。かつ消えかつ結びて。転生なんてしたくないよ。よどみがちぎれていく。綿の塊から糸が紡がれていく。こっちとこっちがより合わさって、そっちとあっちは遠く離れて。インド人もひどいことするよな。暴力は振るわないって言っていたのに。聖者の行進。列車の記号はA。
 店長が前掛けで手を拭きながら僕達の前に立った。薄汚い男だった。何よりももみあげが変な天然パーマになっていて、どことなく、爆薬を使うショーを失敗したピエロのように見えた。
 笹崎がテーブルから爪楊枝の残骸を拾い上げて、一つ一つこぼした。僕たちは窃盗をしたのだ。
「……店長です」
 面白いはずなのにさ。
「……僕、笛吹です。二十二歳の笛吹。こっちは妹の咲」
 笑えるジョークのつもりなのにさ。
 彼は黙って僕の横を通り過ぎると、ぬるぬると椅子を前に引いた。帰れということなのだろう。彼なりの隠喩的表現だ。そのまま店長とおばさんはほとんど身動きをせずに僕達を見送った。
 残金に五万円が足された。僕はそれだけだと思う。しかし、僕たちは窃盗をしたのだ。このフレーズは、僕の中で何度も鳴り響いた。低俗で――低俗が故に一層――耳にしつこく残り続けるリフレインみたいに。
 僕たちは窃盗をしたのだ。

     

 気詰まりのまま車は走りだした。エンジンは円滑に。ブレーキはぶれずに踏まれる。アクセルはあくせくと働く。頭でっかちな韻を並べて、僕は結局飴玉でも舐めるのさ。柄がプラスチックの。紙ナプキンをご用意。
 僕たちは赤信号で停まった。皆、せき止められるんだ、今また。倒置法が創りだすのは韻の化け物だ。
 ダッシュボードの上に、五万円が散らかっている。路上には落ち葉が散らかっている。どこにも何かが散らかっている。掃除屋がいねえんだ。昔はいたはずなのに。
「片付けろよ」
「やだね」
 沈黙。サイドブレーキをカチカチカチカチを引き上げた。ゆっくりと。これ以上、沈黙なんてやだね。彼女は喋り出した。
「あのさ、はっきり言って、あたしは、さっきの、後悔なんてしてないし、するつもりもないし。誰の前でもさ、五万円じゃなくって、これが欲しかったんだって言ってやるつもり。このすっごく嫌な空気がね」
 彼女の、小さいがはっきりした形の手が五万円をかき集めた。対向車線の車のナンバーは1532。1×5+3+2=10。
「あたしはさ、うんざりしてんだ。マジのマジに。あんたさ、ジョーモン時代って知ってる?」
「エス・エム・クラブのことじゃないんだよな」
 歩行者用の信号が赤になる。時間はないぜ。人生は八十。六十にして耳順う。奴隷にお誂え向きになる。冷水を飲んだお年寄りに杖を授けたもう。ペルセウスにも靴を貸したじゃないか。蛇を一匹外してくれ。
 彼女はサイドブレーキのボタンをカチカチと押した。
「ジョーモン時代はさ、きっと皆、ちゃんと払ってたんだと思う。毎日がドキドキしてたはず。フジワラくんがイノシシに追いかけられて、腕を三本でも折って仕留めてきてさ。汗を流して土器をこねて。あたしはそういうのが好きなんだよ。どっかで誰かさんが死にそうになりながら育てた鶏を、五百円で買うのより」
 信号は青になった。僕は黙ってサイドブレーキを戻して、アクセルを入れた。
 実家はもうすぐだ。彼女は手近な本を拾い上げて、パラパラとめくった。

     

 死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
(『葉』/太宰 治)

     

「ねえ、このおじさんって結局自殺したんでしょ」
 と彼女は口を開いた。僕は相槌を打った。
「馬鹿げてる――そんなんだから川に落ちて死ぬのよ」
 曖昧に笑った。
「そう思わない?」
「津島くんが言った言葉で、少なくとも一つだけ正しいことがある」
 は? と彼女は尋ねた。僕は街路樹を見た。下に置かれたポットを見た。干からびた草が、なんとも無く突っ立っている。処刑が終わった後の死刑囚みたいに。銃弾が胸に五発。その後、処刑場が閉鎖されたのだ。死体はどんどん干からびていく。毎朝、ハゲワシが来て肝臓の辺りを突く。突く。突く。突く。
 僕はなんとか嫌な幻想を振り切った。
「『富士には月見草がよく似合う』だ。富士山を右手に、月見草を左に置いて眺めるんだよ。交互にな。キミの言葉を借りれば、そういうのが好きなんだよ」
 石和のひなびた駅前を通りすぎて、甲府駅に続くバイパスに入った。パチンコ屋、馬鹿でかい靴屋、焼肉屋、ネットカフェ。どれも色あせて、死んでゆく。古代日本の即身仏みたいに。だんだん水分が抜かれて。
「月見草ってどんなの?」
「黄色くて、小さい花で――」
「あのさあ」
 シャコタンの馬鹿げたワゴン車が僕たちを追い抜いて、前に割り込んだ。遮光シールのせいで中は見えなかった。彼女は続けた。彼女は両手を前に突き出して、何だかぎこちなく、想像上の細い物体を包むようなしぐさをした。花だと分かった。細い茎に生えた、小さい花だ。
「何でそれを別の名前で呼べないの? 月見草って名前つけてさ。あたしはあんたのことを『人間』なんて呼ばないし、あんただってあたしのことをそう呼ばない。なのに何であんたは、その小さくて可愛い黄色い花に、そんな名前をつけんのさ。あたしは、うんざりなんだよ。そういう事をしてって、あたしの頭がどんどんちっちゃくなるのが。図鑑でも読んで、ちょっとずつ、あたしの世界があんたちに奪われてくんだ――あんたたちが、この青い花に名前をつけてさ」

       

表紙

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