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斉藤武雄の忘備録
後書き(2016/09/20更新)

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 後書き

 思い起こせば2016年の二月頃、日頃の溜まりに溜まった色々な感情を吐き出すために、テキストファイルに思いのままに書き殴ってみたのが全ての始まりで、その書き殴ってみた文章を誰かに見てもらいたくて、ニートノベルに投稿したことが本作『斉藤武雄の忘備録』の始まりでした。

 後書きは、訳あって大変長くなってしまいました。なので、簡便のために、後書きには<目次>を付けておこうと思います。


<目次>


●『忘備録』なのか『備忘録』なのか

●結局の所、武雄本人にあまり進展はみられなかった『斉藤武雄の忘備録』

●「青春」にどう対抗していくか

●「青春」を直視するということ

●楽しいって、どういうこと?

●否定することもできなければ、肯定することもできないような過去があった

●色々書きたいことはあったのですが……。

●『誰かの悩みが、誰かを救うことになる』

●ひきこもりに明日はないのか

●「ひきこもり」と「孤独」

●ネットでは、ひきこもりに対して悲観的でネガティブな意見があまりに多すぎる!

●『斉藤武雄の忘備録』が生まれたきっかけ

●誰かの悩みが、どこかの誰かを救ってくれることを信じて

●終わりに


     




●『忘備録』なのか『備忘録』なのか
 まずタイトルについてのツッコミから。『忘備録』なのか『備忘録』なのかについて。
 ネットで検索をかけたところによると、『備忘録』の方が正しい言葉で、その誤用が『忘備録』だそうです。今では『忘備録』という言葉も一般的に使用されるようになってきている、とのこと。
 ただ、『忘備録』という言葉自体は「忘れ(目的語)に備える(動詞)ための録」という「目的語+動詞」の形態をとっているので、きちんと和製漢語の生成法に則っているようなのです。
 なので『備忘録』のことを『忘備録』と言っても、殆ど違和感がないのだそうです。和製漢語の生成法なんて調べてみて初めて知ったのですが……、日本語って結構奥が深いんですね。というかネイティブの日本語話者が無意識のうちに身に着けていた言語感覚って、こんなにも複雑なものだったんですね。和製漢語の生成法だけを教えられたところで、僕には到底理解できないと思います。外国の方が日本語の単語を覚えようとする際に一番苦労するのは、実は和製漢語なのではないでしょうか。
 前置きはさておきまして。
 『斉藤武雄の忘備録』は楽しんでいただけましたでしょうか? 面白い、面白くない、ここは好きだった、そうでもなかった、もっとこうして欲しい、ああして欲しい、etcetc……。
 きっと様々な意見があると思います。できれば肯定的な意見を聞きたいところではあるのですが、そうでもないのが世の創作物の評価の常。
 意見等があればコメント欄にて受け付けていますので、できればコメントしていってください。
 という前置きはさておいて。
 ……ちょっとさっきから、前置きをさておき過ぎですよね、というつっこみはさておいて。

●結局の所、武雄本人にあまり進展はみられなかった『斉藤武雄の忘備録』
 本作『斉藤武雄の忘備録』では、斉藤武雄自身についての内面的ないし社会的な進歩は殆どみられなかったと思います。『斉藤武雄の忘備録』という物語を経ても、斉藤武雄はひきこもりから脱出したわけでもなし、ニートから脱出できたわけでもなし……。
 そういう風に考えてみると、確かに『斉藤武雄の忘備録』という物語を経ても、斉藤武雄は内面的にも社会的にも殆ど成長しなかったように思えると思います。
 だけど、斉藤武雄は、この物語を通じて一つだけ自身に変化を及ぼしました。それはpちゃんというかけがえのない「友達」ができたことです。
 もちろん、pちゃんが斉藤武雄の人生史上初めての「友達」であれば、斉藤武雄の内面的な成長を見出すことができるのでしょうが、あいにくpちゃんは斉藤武雄の人生史上初めての友達ではありませんでした。
 物語を通して得たpちゃんという「友達」の存在が、斉藤武雄の今後の動向にどのような影響を及ぼしていくのでしょうか。少しは良い方向に影響を及ぼすのか、それとも……。しかしこの段階で、『斉藤武雄の忘備録』は終わりを告げています。なので、読者そして作者である僕自身も、彼の今後の動向についてうかがい知ることはできません。(もちろん、『次回作』なるものがあれば、斉藤武雄の今後の動向について知ることはできるのですが……。)

●「青春」にどう対抗していくか
 青春群像劇にどう対抗(カウンター)するか。
 これは本作のサブテーマの一つというか、ここ数年の僕自身のテーマでもありまして。
 世に出回る数多の青春ラブストーリー、青春群像劇。最近でいうと、新海誠監督の「君の名は。」が青春群像劇の典型ですよね。
 青春群像劇自体は、僕もとっても好きではあるのですが、だけどティーンエイジャー達の紡ぐ群像劇だけを「青春」だと思い込んで、そういう思春期男女が織りなす「青春」への憧れを胸に抱いて、「自分はあんな青春できなかったんだ……」と嘆き、憂鬱な気分に苛まれている人がいるということが、僕にとっては辛抱たまらないことでありまして。
 もちろん、「自分もあんな青春を送りたかったな……」と嘆いて、青春に対してノスタルジックに憧れを募らせる時の心情というのは、僕自身もすごく理解できるところではあります。
 というか、以前の僕がそうでしたから。以前の僕は、青春群像劇に対して強い憧れを抱いていましたから。そして憧れと同時に、青春を送っている人達に対して、「あんな青春を送りたかったな…」という呪詛ともいえるような嫉妬を抱いていたことも事実です。
 だから一時期の僕は、甘酸っぱい青春を送っている人はおろか、甘酸っぱい青春が描かれている創作作品ですら嫉妬のせいで直視することができなかったのです。

●「青春」を直視するということ
 だけど、今の僕には「青春」が直視することができるのです。
 歳を重ね、ティーンエイジャーからは年々遠ざかっていき、かといって私生活が充実しているとも言えず、コンプレックスは歳を重ねるごとに強まっていくような気がしてならず。
 そんな僕が、どうして「青春」を直視することができるようになったのか。
 それは自分でもよくわかりません。いつの間にか、「青春」を直視できるようになっていました。
 「青春」ものとうたわれている漫画やアニメを、嫉妬にさいなまれず、いつの間にか直視できるようになっていました。
 それは、あの日見たインディーズアーティストの、ライブからの帰り道の電車の窓から見た夜景のせいかもしれません。もしかしたら、自宅から見える夕暮れを幾度かぼんやりと眺めていく内に、「青春」を直視できるようになったのかもしれません。
 自分なりに色んなものを見て、悔しいやら虚しいやら、そういう様々な負の感情を一旦は受け入れて、そして噛み砕いていく内に、いつの間にか「青春」を直視できるようになったのでしょう。
 そういう地味で地道な営みのおかげで、僕は「青春」を直視できるようになったのでしょう、多分。
 暗くて地味な青春しか送れなかった自分、かといって今の私生活がさほど充実しているわけではないという現実、そして見えない暗い先行き。その全てを受け入れた上で、これからは生きてみようと思ったその時、自分のふがいなさも含めて、僕は僕の「青春」を受け入れ、そして「青春」を直視することができるようになったのでしょう。
 そんな暗くて地味な日々の営みを、いつか小説の小話として差し込めたらなぁ、とたまに思うものです。

●楽しいって、どういうこと?
 だけど、負の感情を一旦は受け入れて、そして噛み砕いた後に再び負の感情を受け入れて、だけどそんなことをしてばかりの人生は、ちっともつまらなくって……。
 そうです。当たり前のことなのですが、楽しいことをしていない人生は楽しくないです。楽しいことをしていない人生が楽しくないのは、考えてみれば当たり前ですよね。
 だけど、あまりに負の感情に苛まれていた僕は「何が自分にとって楽しいことか」すらわからなくなっていたのでした。
「何が楽しい?! 何をしている時が一番楽しい?! 」
「わっかんない! でも、何しても楽しくない! 何をしても楽しくないんだ!! 」
「じゃあ君は、何をしている時が一番好きで、楽しいんだ? 」
 そう問われると、何とも言い返せない僕がいました。自分は何が好きなのか、この問いにすぐには答えられない自分がいました。これは実を言うとすごく不思議な感覚で、色々なものに苛まれている内に、僕は自分がどんなものを好きかすら答えられなくなってしまっていたのです。
 好きなもの、本当に好きなものは、二つか三つくらいはあったとは思うのですが。

●否定することもできなければ、肯定することもできないような過去があった
 『斉藤武雄の忘備録』では、「否定もできなければ、肯定もできないような過去があった」という一文があります。これは僕の近況を一番よく言い表している一文だと思います。以下は『斉藤武雄の忘備録』の中で僕が個人的に気に入っている文章です。
「否定もできなければ、肯定もできないような過去があった」
「そうなのかもしれなかった。面白がれるようなことを面白がり、しっかり楽しむ様を青春というのなら、いつだって青春はできそうだった」
「でも、そうやって怒りに身を任せ、嫉妬の炎に委ねるよりかは、笑いの種にした方がずっとポジティブで、まともな人生が送れそうな気がする」
「青春の残滓も、高校生の時に抱いていた未来への淡い期待も、その面影も、全て捨て去ってしまったのだ。僕にはもう、何もない。僕は、何も成し遂げられなかったのだ。僕にはもう、希望がない」
「難攻不落かと思われたモラトリアムも、いつかあっさりと崩れ落ちる」
「僕がひきこもる理由は、何となくの無気力感であったり、励ましてくれる人がいないせいだったり、何となく将来が希望が持てなかったり、なんていうぼんやりした理由だと思う。何せ僕には、何もないのだ。だから僕は頑張れないし、頑張れないから散らかった部屋にひきこもり続けるのだ」
「弾けた炭酸が、体の芯まで澄み渡っていく。甘ったるい炭酸飲料の味。ずっと好きだったCCレモンの味」
「今日見る夢が、楽しい夢だったらいいのになぁ。そう漠然と祈りながら、僕は瞼の裏の睡魔に身を任せた」
 ……等々。自分としては、気に入った文章はもっとたくさんあるのですが、挙げ続ければキリがないので、このあたりで

●色々書きたいことはあったのですが……。
 ここまで長々と後書きを書いてきました。ここまで約三七〇〇字。この後書きは何度も書いたり消したりを繰り返しているので、多分後書きに一万字くらいは費やしたことになるのではないかと思います。
 『斉藤武雄の忘備録』は、僕としてはとっても思い入れのある作品で、色々な思いがたくさん込めてあります。なので、本編を見ていない人のためにも、もっと冗長に、そして詳細に、込めた思いを後書きで懇切丁寧に解説したいところではあったのですが、本編を書き終わってしまうと途端にそのような思いもしぼんでしまうものです。不思議です。

●『誰かの悩みが、誰かを救うことになる』
 『誰かの悩みが、誰かを救うことになる』ということ。『斉藤武雄の忘備録』を通して、僕が本当に言いたかったことはたったこれだけです。
 もっと噛み砕くのであれば、『自分の日常の悩みを綴ったブログが、きっと誰かを救うことになる』という具合に言い表せるのでしょうか。
 もっと違う方面の方でもわかるように言い表すのなら、『名前も知らないインディーズサブカル系バンドの歌詞が、どこかの誰かを救うことになる』という具合になるのでしょうか。こういう風に書くと、共感してもらえる人もまま現れてくるのじゃないのかなぁと思う今日この頃です。
 そんな僕も、日常の悩みを綴ったどこかの誰かのブログのおかげで、救われた人間の一人でした。
 幾多のどうしようもないくらいに辛い悩みに、誰かが書き綴ったブログがどれほどの特効薬になったことでしょう。それは、きっと数えきれないくらいに、誰かが綴ったブログが僕の特効薬となりました。
 特効薬のおかげもあってか、今の僕はこうして後書きをつらつらと書き連ねています。誰かが悩みを書き綴ったブログ記事の効果、恐るべし、と思うばかりです。

●ひきこもりに明日はないのか
 『斉藤武雄の忘備録』では、そんないつも悩んでばかりの僕の内面について、随所で色々と書き綴ってみました。
 僕自身のことで言えば、ひきこもりを半年ばかり経験したことがあります。『斉藤武雄の忘備録』ではひきこもっていた時期の自分と、今現在の自分をところどころ重ねながら、色々と書き綴ってみました。(書き綴るというよりは、書き殴るという表現の方が正確かもしれませんね! )
 ひきこもりを経験するまで、僕はひきこもりが楽なものだとばかり思っていました。でも、実際は……、違うのですね……。ひきこもり、楽しいのは最初の一か月だけ、がひきこもりの実態ではないかと思います。
 外に出られない辛さ、周りを必要以上に気にしてしまうという過剰な自意識から生じてしまう生き辛さ、人混みの辛さ。ひきこもっている自分と周りの近しい人間を比較してしまう時に生じる嫉妬、憎悪そして焦燥。どれもわかります。僕もそうでした。今でもたまにそうです。今でもたまに辛いです。
 現実が辛い時、僕はよくネットで検索をかけてしまいます。その時に検索にかかったサイトで目にするのが、大体は「ひきこもりは甘えだ! 」だとか「ひきこもっていると周りからどんどん取り残されてしまう」「長い期間ひきこもりを続けていると、もう人生どうにもならなくなる」という趣旨の文章です。もっと精神的にまいってしまうような文章が書かれているサイトであれば、「しばらくひきこもったままでいると、その後に社会に出てもずっと重労働低賃金の環境に甘んじなければならない! 」と書かれていることもよくありました。
 多分、きっとそうなのでしょう。それらのサイトに書かれていた情報は、ある程度は正しいと思います。
 だけどいくら正論を言われたところで、正論が納得することにはつながらないというのが人間の性というものでしょう。
 そして、絶対的に正しい正論が受け入れられるわけではないということも、この世の常の一つなんじゃないかなと思います。
 ひきこもっている最中だとか、ひきこもりから抜け出てからしばらくの間、僕はひきこもりとその後に関することについて、よく検索をかけていました。
 そして一喜一憂しながらも、辛口なサイトの文章の一字一句に、僕はたくさん傷付けられていました。傷付けられた、という言い回しはきっと正しくないですね。正確には、辛口なサイトの文章の一字一句を無理に目にすることで、自分から勝手に傷付いていた、ですね。
 ひきこもりと元ひきこもりに、明日はないのでしょうか……。

●「ひきこもり」と「孤独」
 人生のレールを一度でも踏み外してしまうと、人並みはおろか、文化的に人生を生きることさえ許されないのでしょうか。たとえひきこもりを脱出しても、奴隷のような生活しか待っていないのでしょうか。
 きっと、そんなことはないと思います。
 過去がどうであろうと、今という時間を楽しみ、そして感慨に浸る権利は誰にだって平等に与えられるべきだと思います。というか、そういう権利は今現在でも、誰にだって平等に与えられていると思います。
 それに、ひきこもった経験からこそ得たものというものも、きっと存在すると思うのです。現に僕は少しひきこもった後、ちょっとだけ人に優しくなった(当社比)気がしたのですから。
 ちょっとだけひきこもる前は、誰が人に優しくしてやるものかと思っていたものですが、ひきこもりという孤独を散々味わってしまったせいか、人間が誰しも普遍的に持っている孤独というものが少しわかったような気がして、誰しもが持っている普遍的な孤独を少しだけ理解すると、なぜだか人に優しくしてもいいような気分になってしまうのです。
 それと同時に、自分のことも、そして他人のことも少しくらいは大目に見てあげようかなと思うようになったのです。
 人は、誰しも孤独で、そして本質的にはとっても情けない生き物だと思います。そうであるからこそ人は一人では生きていけないのだと思います。各々が一人で生きていけるほど立派で、たくましいのであれば、わざわざ手と手を取り合う必要なんてどこにもないのですから。
 そうして孤独というものをちょっぴり理解して、そしてちょっとだけ人に優しくできるようになった分だけ、交流できる人の幅もちょっぴり増えました(ような気がします)。
 だから、少なくとも僕にとっては、ひきこもった経験がその後の人生に活きていると言えると思うのです。つまり、「ひきこもった日々も無駄ではなかった」ということです。
 それにひきこもるということは、自分一人きりの世界に閉じこもり、孤独を味わうことを意味するのですから、孤独の中で自分自身と向き合う経験が自分自身の内面を豊かにするという意味の言葉を借りれば、ひきこもるという行為自体が自分自身の内面を豊かにしてくれるという経験になった人も、多かれ少なかれいると思うのです。
  そう考えれば、ひきこもるということも、必ずしも悪いことばかりではない……と思えないでしょうか。ひきこもることも、内面の成長に一役買っている面もあると思うのです。

●ネットでは、ひきこもりに対して悲観的でネガティブな意見があまりに多すぎる!
 というか、ひきこもっている人を肯定して、前に進もうという気分にさせてくれるような文章が、もう少し世間にはありふれていてもいいと思うのです。
 だけど、ネットではそういうひきこもりの希望を描いた文章が、あまりに少ないと思います。
 どれを見ても「もう駄目だ」「手遅れだ」とばかり書いてあります。ひきこもりに対する罵詈雑言とも思えない暴言が書き散らしてあるサイトもちらほら。
 やっぱり、ひきこもりに明日はないのでしょうか。ひきこもりに、明日が来てはいけないのでしょうか。

●『斉藤武雄の忘備録』が生まれたきっかけ
 ネットでは、そういうひきこもっている人に対して、肯定的な文章が、あまりに少ないと思います。そんな現状に対して、じゃあ、なれば作ればいいよね、というDIY精神を原動力に生まれたのが『斉藤武雄の忘備録』なのでした。
 もっと具体的に言うのなら、辛口サイトの文章に対抗するために生まれたのが、『斉藤武雄の忘備録』なのでした。
 だから、「ひきこもり 末路」や「ひきこもり 将来」というワードで検索から来られた方は、是非この文章、つまり『斉藤武雄の忘備録』の後書きを、後半部分だけは読んで欲しいと思います。
 後書きを後半部分だけでも読んでいただけたら、本編を読まずとも、何かしらの思いを感じていただけることかと思います。なので、検索サイトやその他サイトから来られた方は、是非ともこの「後書き」のページを読んでいただけたらなあと思っております。

●誰かの悩みが、どこかの誰かを救ってくれることを信じて
 そして、この後書きを読み終わったら、是非みなさんも(と言っている僕も! )、悩みがあればどんどんブログに書き綴ってしまいましょう。(思いを書き綴る場所は、SNSでもきっといいはずです! )
 自分の悩みが、きっとどこかの誰かを救うことになるのです。
 誰かが書き綴ったブログの記事が、きっとどこかの誰かを救うことになるのです。
 だからみなさんも、悩みがあればどんどんブログ等に書き綴ってしまいましょう。
 ひきこもっている人に対して、希望を抱かせるような文章であったりだとか、ひきこもりに対してある種肯定的な文章が、もっと少しでも検索の上位に来ることを密やかに祈りながら、『斉藤武雄の忘備録』の執筆は進行していったのです。

●終わりに
 随分と長い後書きとなってしまいましたが、最後に一言だけ述べて、この後書きを締めくくりたいと思います。ではでは……。
『楽しめればいつだって青春時代ですよ! 』
 これは、アニメ「ハロー!!きんいろモザイク」の第十二話において、「青春っていいですよね」とつぶやく久世橋先生に対して、烏丸先生が言った台詞です。
 日常系アニメなのに、全く、良い台詞回しですね。もちろん褒めています。
 そんな、『楽しめればいつだって青春時代! 』という思いも、『斉藤武雄の忘備録』に込めてみました。
 最後になりますが、謝辞の言葉を述べたいと思います。
 拙著ながらここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
 当初、半ばストレスの捌け口として書き殴られていた『斉藤武雄の忘備録』は、幾度もの執筆路線の脱線によって、今のような形の作品になりました。
 そのような経過を経た、『斉藤武雄の忘備録』は、僕にとっては、とても大切な作品になりました。
 機会があれば、またニートノベル等で書こうと思います。その時は、是非ともよろしくお願いします。
 もし次回作があるのであれば、その時はまた是非ともよろしくお願いします。
 『斉藤武雄の忘備録』にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

   2016年9月20日



       

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