Neetel Inside 文芸新都
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屈託のない人に用はない
産院での生活

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 出産を終えておよそ6時間後。夕方になって、ようやく分娩室から入院用の個室に移ってもいいと許可が出た。まだ力が入らずうまく歩けそうにないので、助産師さんの押す車椅子に乗って移動した。
 普通であれば私だけがこのまま入院するのだが、この病院には特別室という部屋が一つだけあって、そこなら付き添いの家族1人に限り一緒に泊まることができる。その部屋がたまたま空いていて夫も休みを取ることができたので、2人で入院することになった。部屋は広く、インテリア雑誌に載っていてもおかしくないほどシンプルで小綺麗で、空気清浄機と肘掛け椅子、大きな観葉植物まで置いてあった。巨大なベッドの隣に畳敷きの小上がりが続いていて、布団を敷けるようになっている。
 19時。病院の夕食が部屋に届く。夫はコンビニで適当なものを買ってきて、2人で夕食を食べた。産後すぐに比べれば食欲は戻ってきていたものの、とにかく会陰が痛くて、さらにそんな場所が裂けて縫われているという現実がひどくストレスで、夕食を食べるのにも一苦労だった。普通に座れないのだ。お腹に力を入れると大量に出血する感覚が気持ち悪いのでどうにか腕の力で身体を起こすが、円座クッションを使っても座ると痛い。結局お盆ごとベッドに置いてもらい、寝そべったままなんとか食べた。
 夕食が終わって一息つくと、検査やらなにやらで連れて行かれたままの娘が気になった。新生児室で預かられているはずだ。
「赤ちゃん、見に行ってみようか」と夫に声をかける。あの生き物は今どうしているんだろうという好奇心と、母親として見に行くべきだという義務感と。
 新生児室へ向かおうと立ち上がると、へなへなと腰が抜けた。足に力が入らない上に骨盤が不安定で、体重を乗せるとがくがく震えてうまく歩けない。出産で骨盤が最大限に広がったせいでその周囲の靭帯が傷ついてそうなるらしい。知ってはいても、思い通りにならない身体に驚いた。夫にしがみついてナースコールを押し、歩けないので車椅子を貸してもらえませんか? と頼むと助産師さんが歩行器を持って迎えに来てくれた。
 それでなんとか階下の新生児室に向かう。一面がガラス張りになっていて、産まれたての赤ちゃんが並べられているあの部屋だ。小さな新生児たちは穏やかに寝ているか一心に泣いているかで、その列の中に娘もちゃんと含まれていた。病院のベッドはキャスターのついた木製の台の上に透明なケースが乗っているもので、娘はそこで白い布団に包まれてすやすやと眠っていた。ひとつずつ名札がついているのだが、まだ名前を持たない娘の名札には私の名前が記されている。
 娘を起こさないようそっとベッドを部屋から運び出し、歩行器代わりに押しながら、親子3人で部屋に戻った。
 眠る娘はあまりにも小さくて、赤黒く、少しむくんでいるのかまぶたが腫れている。顔のあちこちに傷のような赤みがあった。信じられないくらい小さな鼻と口とで、耳をすませても聞こえないくらいに頼りない呼吸を繰り返している。その寝顔を眺めているときっと安らいだ気持ちになるのだろうと思っていた。もちろんそういう気持ちがまったくないわけではない。それでも、よそよそしい戸惑いと不安の方が大きかった。本当になにひとつ問題のない赤ちゃんなのだろうか、急に息が止まってしまったりしないだろうか? 目鼻の形や肌の色も気になった。自分は何か間違った生き物を産んだのではないか、周りは何も言わないけれど、本当はそのことで自分を責めたり哀れんだりしているのではないか。もちろんそれがおかしな考え方なのはわかっていた。夫も両親も生まれたての娘をかわいいと心底慈しんでいて、そこに嘘が含まれているようには見えなかった。私だけが戸惑っているのだ。そもそも客観的に見てどうであったとしても、わたしにとっては最愛の生き物であるべきなのに。
 結局、そこにいるのはまったくの初対面の生き物なのだった。お腹の中でずっと一緒にいたはずなのに。娘は「愛を抱くべき存在」だったけれど、それはまだ「心から愛しい存在」とイコールではなかった。母親だという実感はまだなく、でも強烈にそうあらねばと焦っている。事前に想像していた心持ちとは全く違うことが後ろめたかった。それは誰にも知られてはいけないことだと思った。
 夫は娘が生まれた瞬間から涙を流し、純粋に喜び、ずっととろけそうな目で見つめている。その幸福そうな横顔を見ていると、自分の抱いている不安や戸惑いはこの場にふさわしくないものだとしか思えなかった。

 夜、巡回の看護師さんが部屋にやってくる。会陰の縫合跡や、お腹を軽く押して出血の具合を見たりする。ちなみにこの時点でもまだまだ出血は大量に続いていて、動くたびに血の塊が出る。
「トイレには行きましたか?」
 尋ねられて、お昼に出産してから今まで、自分が全くトイレに行っていないことに気がついた。出産の際に膀胱が圧迫された影響で一時的に尿意をうまく感じられなくなってしまうらしい。
「尿は作られているので、定期的にトイレに行くようにしてくださいね。そのたびにウォシュレットで清潔にしてください」と看護師さん。
 トイレに行くのが怖い。傷が痛むせいだ。傷ついた会陰周辺は熱を持ちかたく腫れ上がっていて、歩くのも腰を下ろすのもウォシュレットを当てるのもトイレットペーパーで拭くのも、とにかく会陰に関するなにもかもが怖い。看護師さんは気遣うように微笑を浮かべながら頷き、もう少しすればよくなるのでがんばってくださいね、粘膜の回復は早いですから、と言って痛み止めをくれた。
 薬を飲んでも母乳に影響はないのか確認をして、大丈夫だと返事をもらっても、不安は完全には去らなかった。この小さく脆弱な生き物に本当に少しの影響もないのか、もし1万分の1でもリスクがあるのなら母親として飲むべきではないのではないか。そう考える自分を押し殺して痛み止めを飲んだ。これもまた後ろめたかった。自分の痛みと赤ちゃんの安全を引き換えにしてしまったような気がして。
「赤ちゃんはどうされますか?」
 そう訊かれて、どういうことかときょとんとしていたら、「今日からお部屋で一緒に過ごされますか?」と重ねて訊かれた。
 部屋で? 一緒に?
 私がこの子の面倒を見るの? 立つのもやっとな身体で?
 どうやって?
 オムツを替えてミルクやおっぱいをあげて泣いたら抱っこして。なんとなくのイメージはあるけれど、実際に目の前にこの脆弱な生き物を差し出されると、自分のなけなしの知識が正解なのかどうか、それがこの生き物の生命を維持するのに充分なものなのかどうか、まったく自信がなくなってしまう。抱き上げるのさえ不安になるくらいなのに。
 でもそんなことを言うのは許されないことのような気がした。母親としてあまりにも責任感がないような。
 どう答えるべきなのか、まとまらない頭でぼーっとしていたら、看護師さんが助け舟を出してくれた。
「今日はこちらに預けてゆっくり休養を取って、明日から頑張ろう! っていうお母さんが多いですよ」
 責める様子のない優しい口調に少しほっとして、そうしてください、とお願いする。看護師さんは眠る娘のベッドをそっと押し、うやうやしく運んでいった。扉が閉まる。娘がいなくなる。間接照明の薄暗い部屋で夫と2人きりになった。
 途端に緊張が抜ける。私のよく知っている世界が戻ってきた。ここにはもうあの不思議で小さな生き物はいない。ほっとしていた。ほっとする自分をひどいと思った。私が産んだ子なのに、居なくなって安心するなんて。
 娘を預けたことで夫が私を責めるのではないかと思ったけれど、特になにも気にしていない様子だったので、それにまた安心した。
 眠る前、ふらふらと歩きながらトイレに行った。痛みと骨盤が不安定なのとで便座に腰掛けるのも一苦労だ。そして驚いたことに、座った瞬間に排尿した。それも大量に。私はなんの尿意も感じていなかったのに。この尿意のなさはその後3、4日続いた。
 それから、下着にあてていた綿のパッドを新しいものに取り替える。長さ30センチ、厚みは2、3センチはあろうかという巨大なものだが、出血ですでにぐだぐだになっていた。紙で傷の辺りを拭うのが怖かったが、痛み止めのおかげでさほど痛くはない。ただ縫合の糸に触れるたびにかすかにひきつるような感覚があって、そのたびにあの痛みを思い出して背筋が震えた。
 分娩で大量に汗をかいたものの、この夜はシャワーも禁止なので、顔だけを洗って下着やパジャマを新しいものに取り替えた。洗面所には椅子がなく、椅子があっても痛みで座ることは出来ないので、洗面台に寄りかかるようにして歯を磨いた。骨盤はまだぐらぐら頼りなく、なにもかもが重労働だ。目眩がする。鏡を見ると、娘のいなくなったお腹はすっかり元通り…というわけにはいかず、妊娠5ヶ月くらいの大きさになっていた。子宮が元どおりの大きさになるまでは時間がかかるらしい。パジャマ姿だとまだ充分妊婦に見えた。
 夫と枕を並べて横になる。大きく息をついた。これで1人だったらどれだけ心細くて不安だっただろう。
 眠る前、もうお腹に誰もいないんだと思うと、急に寂しくなって涙が出た。赤ちゃんがお腹からいなくなったのが寂しかったんじゃない。妊婦という状態が恋しくなったのだ。妊婦期間というのは一種のモラトリアムだった。妊婦でいる限り私はみんなから大切にされて、夫にも心ゆくまで甘えられた。かすかな不安はあってもそれは曖昧なものでしかなく、なにか輝かしく素敵な近い未来を楽しみに待つことができた。でもそういう希望に満ちた時間はもう終わってしまったのだ。
 それが寂しい、と告げると、夫は少し呆れたようだった。
 その夜は、ただ引きずり込まれるように眠りについた。
 

       

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