Neetel Inside 文芸新都
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 赤ちゃんたちが並ぶ新生児室。その傍らに授乳室という部屋があって、そこは24時間いつでも明るい。ソファと円座クッションが用意されていて、母親たちは昼夜なくそこに集まり、赤ちゃんに母乳を与える。自分の部屋で授乳せずにわざわざこの部屋まで来るのは、そこに赤ちゃんの体重を測るためのスケールがあるからだ。授乳の前後に体重を測ることで、どれくらい母乳を飲んでいるか知ることができる。というかむしろ、自分の身体からどのくらい母乳が出ているのかを知るためにはそれしか方法がない。なんて原始的な。私が初めて測った時、片方の乳を10分ずつ計20分与えて、増えた体重はわずか5グラムだった。これは初産婦だとごく普通の数字らしい。
 私が産前に知らなかったこと。母乳はすぐに充分な量が出るわけではないこと(個人差が大きいが)。乳首をくわえさせるといっても、赤ちゃんの方も吸うのが下手なので、何度もやり直しが必要なこと。くにゃくにゃで首さえ支えられない身体を抱きかかえて胸元に固定するためには、自分の姿勢がかなり不自然なものになってしまうこと。ようやく吸い始めても疲れてすぐに眠ってしまうので、片方を10分といっても、何度も起こしながら実際は倍の時間がかかるのもしょっちゅうなこと。そのあとに一緒に飲み込んだ空気を出すためにゲップをさせる必要があって、縦に抱いて背中をさすっているだけで時には10分くらいかかってしまうこと。つまり授乳と一口に言っても30分以上かかるのだ。私はほぼ毎回1時間はかかっていた。その間ずっと、自分がなにか間違ったことをしていないか冷や汗をかきながら。
 それから、吸われるたびに乳首が激しく痛むこと。ぎゃあっと声をあげそうになるのを、目を閉じて歯を食いしばりつつ堪えるくらいの痛みだ。辛いのは最初の1分くらいで徐々に平気になるのだが、これは2週間くらい続いた。吸わせ方を間違えて浅くくわえさせてしまうと乳首が裂けるらしい。これも激痛だとか(痛くないわけがない)。私は裂けはしなかったけれど、初日は出血した。長い間、授乳のたびに保護するためのクリームを塗っていた。
 そしてお腹が、正確には子宮が痛むこと。授乳時に分泌されるホルモンは、妊娠中に大きくなった子宮を収縮させる働きを持っている。だから母乳を与えるたびにお腹の奥がきゅーんと縮みしくしくと痛む。これも結構長いこと続いた。
 母乳をあげるのなんて、乳をすっぽんと出してちゅーっと吸わせてさあおしまい、いかにも牧歌的なものだと思っていたのに、こんなにあちこち色々痛くて疲れるなんて聞いてない。
 そして授乳が頻繁なことも、産前に知っていたけれどちゃんとイメージできていなかった。最低でも3時間おき、1日8回。母乳だけで足りなければ(もちろん足りない、だって5グラムしか出ていないから)そのあとにミルクを足す。助産師さんにお願いしてミルクを作ってもらい、哺乳瓶で与える。もちろんミルクを足さなければ3時間もお腹がもたないから、もっと授乳回数は多くなる。1時間に1度とか。そして母乳というのは、吸わせれば吸わせるほど分泌量が増える仕組みになっているらしい。乳首への刺激がホルモンを産生し、母乳量が増えるのだ。だからできる限り頻繁な授乳が推奨される。しかもそのホルモンは夜の方が分泌が多いのだとか。すなわち夜に授乳するほど母乳育児に有利ということだ。
 乳を吸わせる時間がおよそ20分、その前後のいろいろが短くて10分として、計30分を最低8回、240分。どんなに短くとも一日のうちまるまる4時間は授乳に費やすのだ。思ったより多くないですか? 一度に1時間なら8時間。それも昼夜の区別なく。3時間おきに1時間かけて授乳するということは、どう頑張っても2時間以上まとめては眠れないことを意味している。それも1日や2日の話ではなく、少なくとも1ヶ月以上は。

 朝、新生児たちは助産師さんの手によって沐浴され、体重を計られ、お着替えをされて、清潔ほやほやな状態で並べられる。朝食後の母親たちがそれを迎えに来る。午前中は赤ちゃんのお世話についての講習などがあり、昼からは部屋で赤ちゃんと過ごす。昼食をとり、午後は面会の時間だ。家族がやってきて赤ちゃんをみんなで囲む。彼らが帰ってしまうとあっというまに夕食の時間になる。
 そして夜。過ごし方はある程度自由だ。部屋で赤ちゃんと過ごす。あるいは新生児室に預ける。預けるにもある程度バリエーションがあって、夜は預けっぱなしで助産師さんにミルクをお願いして、自分はゆっくり休む。あるいは、3時間ごとに授乳に通う。またはお腹が減ったと泣き始めたらナースコールで知らせてもらい、その都度通う。これは頻回に吸わせることで母乳量を増やすためだ。
 初日の私は助産師さんに完全に預けた。その翌日は、自分が寝るまで(日付が変わる頃まで)部屋で赤ちゃんと過ごして、夜はやっぱり預けた。その次の日は一晩一緒に過ごしてみようとチャレンジしたが、明け方にギブアップして助産師さんに預けた。夜の1時頃から急に泣き始めて、おっぱいをあげてミルクを足すも泣き止まず、おろおろと抱っこしていたら吐き戻したので着替え、さらにおしっこをしたのでおむつを替え、そうこうするうちにうんちをしたのでまたおむつを替え、また泣き始めたので抱っこしながらなんだろうとあたふたしていたらもう3時間経っていたのでまたおっぱい。4時半過ぎにようやく寝てくれたものの、心身ともに消耗しきってしまい、そのままぐったりと新生児室まで連れて行き預けた。やっと眠れると思ったら7時半、部屋に朝食が届いて目が覚める。
 ちなみにこの間、夫はぐっすり眠っていた。とはいえ、彼が私や赤ちゃんを無視していたわけではなく、たぶん手伝ってと起こせば一緒に起きてくれただろう。それでも「母親なんだからひとりでどうにかしなくちゃ」と思い込んでいた私には起こすことができなかった。薄暗い部屋で夫を起こさないように赤ちゃんを抱っこしておろおろと立ったり座ったり、どんなに優しくなだめても娘はひたすら泣き続ける。どこか身体の具合が悪いのでは、私がうまく気づいてあげられていないのでは? 抱っこの仕方がよくなくてどこか痛いのかも、ミルクの飲ませ方がよくなくて苦しいのかも……心細くて情けなくて、眠くて身体中が痛くて、「こんなこともできないで、私は本当にこの先うまく母親としてやっていけるんだろうか?」と涙をぽろぽろこぼしながら椅子に座りこんでいた。 産後の母親というのは異様なまでに赤ちゃんの動向に敏感になる。夜寝ていても、赤ちゃんのほんのすこしのため息だとか、ちょっとした呼吸の乱れとか、そんな些細なことで目が覚めてしまい不安でベッドを覗き込む。対する夫は例え赤ちゃんが泣いていてもぐっすり眠っていた。それもこれも産後のホルモンのせいらしいけれど、実際に体験してみると、これが世の夫婦の断絶の要因になるというのも理解できた。次第に、すやすやと眠る夫が異様に憎らしく思えてくるのだ。疲れたから代わってよと起こせばいいのだから、これは男性陣からすれば言いがかりなのだろうけど、突然自分一人が脆弱な生き物の生命を維持するという重要かつ失敗の許されないミッションを課せられて心身ともに本当にぎりぎりまで消耗しているのに、夫だけがなんの懊悩もなく寝ているのを見るとめちゃくちゃ腹が立つものなのだ。とはいえ、この頃は腹立ちというよりは義務感と孤独感でいっぱいだった。そしてなんとかそれを背負おうとしていた。母親として。
 3時間半泣きっぱなしの翌日からは、それに懲りて、新生児室に預けて3時間おきに授乳に通うことにした。短い時間でもいいからしっかり眠らなければ身がもたないと思ったのだ。23時前に眠り、1時にアラームをセットして起きて、薄暗い廊下を通り授乳室へ。行くと娘はちょうど泣き始めたところだという。抱っこして授乳室へ。体重を測って記録。膝に抱えた授乳用のクッションに乗せておっぱいを吸わせる。うまく吸い付けないので何度かやり直し。ようやくくわえてくれたので、時計とにらめっこ。胸の高さを小さな赤ちゃんに合わせるようにかがむので、首や肩がとても疲れる。途中で飲むのをやめてしまったら、おでこをこすったりほっぺをつついたり、足の裏をぐいぐいと押したりして起こす。こんな風に起こして怒らないかな、嫌じゃないかな? とどきどきしながら。ようやく10分くらいは吸わせられたかな、というところで、赤ちゃんの体を抱き直して、反対側の乳首を吸わせる。くにゃくにゃのやわらかい身体を抱えて頭の向きを変えるだけでけっこうな重労働だ。そこからまたもう片方を10分。眠ってしまったら起こして。
 飲み終わったら縦に抱えてげっぷ。首を支えて抱きながら背中をさすったり優しく叩いたりする。2、3分して無事に出る。体重を測ってどれくらい母乳が出たかを確認。赤ちゃんは眠たそうだ。そっと抱えて連れて行きベッドに戻したら、ついでにおむつも替える。手を洗って戻ってくると赤ちゃんが泣き始める。おっぱいが足りなかったらしい。助産師さんにミルクを作ってもらう。授乳室に戻ってミルクをあげる。終わったらまたげっぷ。ようやく寝てくれそうなので、ベッドに戻す。育児日記におっぱいとミルクの量を記録する。それから部屋に戻る。痛む乳首にクリームを塗る。時間は2時半だ。飲み始めが1時だったから、次の授乳は3時間後の4時になるはず。1時間半は眠れるはずなのだが、神経が興奮しているのか30分ほど寝付けなくて、じっとベッドの中で目を閉じている。4時に起きたらほぼ同じことの繰り返し。部屋に戻ってきたら5時半になっている。ろくに眠れなくて辛いので、あとは助産師さんに面倒を見てもらうことにして眠りにつく。
 昨日と同じように、7時半に朝食が運ばれてきて目が覚めてしまう。その後、沐浴実習など。昼食、面会の対応、赤ちゃんのお世話。そうしているうちに明るい時間は眠れない。寝不足のせいか頭が痛くて熱っぽく、朦朧としながら日中を過ごす。胸も母乳の生産が始まったからか腫れてきて、動くと痛い。赤ちゃんが夕方から泣き始めてずっと抱っこ。吐き戻し、お着替え。何度も授乳。乳首の激痛、慣れない姿勢で首や肩が痛い。そしてまた夜が来る。3時間おきの授乳。一時間ずつしか眠れない。
 その間、身体はずっと出血しているし、腰は痛いし、股関節はがくがくと不安定で歩きづらいし、一度転んで尻餅をついたし(会陰が裂けたのでは? とあまりに恐ろしいので一度先生に診てもらったが裂けていなかった。よかった)、会陰もまだまだ引きつっていて痛み止めなしでは過ごせないし、痛み止めが効いていても座るのがちょっと辛いし、乳首は痛いし、トイレに行くたびに恐怖だし、尿意は戻ってこないし、疲れのせいか微熱が出た。でも母親は私しかいないんだ。私が面倒を見なくっちゃ。これはみんなやっていることなんだから、私もきちんとがんばらなくちゃ。それなのに身体が辛い。体力が追いつかない。
 産後4日目の退院前日、あまりに辛くて、明日から家で頑張るから……と、23時過ぎに助産師さんに預けて眠る。ゆっくりと夫と2人で話をしながら、退院したらしばらくはこういう時間もないんだろうな、と思った。本当に家に帰ってからもやっていけるのかな。考えても仕方ない。きっとなんとかなるし、なんとかしないといけないし、いい母親になりたい。背筋が震えて不安がやってくる。目を閉じてなにも考えないようにする。3日ぶりのまとまった睡眠。
 

       

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