Neetel Inside 文芸新都
表紙

屈託のない人に用はない
急変、入院

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 この頃のわたしは、娘を「怖い」と思うようになっていた。急に泣き出したり前触れなく吐き戻したり、目も合わず何を考えているかわからなくて、怖い。産後うつの特徴的な症状のひとつだ。顔を歪め真っ赤にして泣く娘を見ると手が震えるくらいどきどきする。自分が責められていると感じて逃げ出したくなる。そして怖いなんて感じる自分を最低だと思う。わたしは母親なのに。自分が産んだ子なのに。
 症状は同じ部屋に2人きりになるのも難しいくらいにひどくなっていた。動悸がして涙が出てきてしまうのだ。だから日中は1人にならないように気をつけていたし、夜は和室のふすまを開けて、母が隣室で寝てくれていた。実質ほぼ一人でお世話をしていたが、人が隣にいていざというとき手助けしてくれると思うだけで少し楽になれた。
 その日は母に娘のお世話を任せて、二階の自分の部屋で寝ることになった。夜に夫と電話をしていると、階下から娘の泣き声が聞こえてくる。反射的に身体がこわばる。「泣いてるから行かなきゃ」と言うと、「今はお母さんに任せてるんだから、気にせずゆっくり休んでこのまま寝ないと駄目だよ」と夫が言う。自分がひどく無責任な生き物になった気がする。「違うよ、今やるべきことはゆっくり休んで気持ちを楽にすることだよ」と言われて、きちんと納得はできなくてもそれを信じて無理やり眠る。娘の泣き声はすぐに止み、少しほっとして目を閉じた。
 翌朝、カーテンから溢れる朝日で目を覚ます。意識が覚醒してからもベッドで寝そべったまましばらくぼんやりしていた。今日は産院で検診を受ける日だ。早く下に降りて娘の様子を見なければ。そう頭の中で繰り返しているうちに、いつのまにか時刻は8時を回っていた。でも気力が湧かない。こんな無責任な母親、両親に呆れられてしまうかもしれない。そう思うのにますます手足は重く、起き上がることができない。
 今思えば、わたしはいつも「自分の不甲斐なさを呆れて非難されること」を恐れてばかりいた。周囲の誰もが口を揃えて「ゆっくり休んで」「気を楽にして」と言ってくれていたのに。
急に、階下から父に呼ばれた。
「起きてるか? ちょっと降りてきてほしい」
 切羽詰まった声だ。ベッドから起き上がって返事をするとさらに続く。
「熱があるみたいなんだ」
 娘のことだ。そうわかった途端、脳の中でスイッチが無理やり切り替わった。飛び起きて部屋を出て階段を駆け下りる。和室のドアを開けると、顔を真っ赤にしてぐったりした娘の側に身支度を終えた父が寄り添っていた。
「仕事に行く前に様子を見ようと思って来たら、なんだか様子がおかしくて、身体が熱くて」
 娘の頬を触ると怯むくらい熱い。体温計を持って来てとりあえず首に挟む。すぐに数字が出た。38.6度。発熱している。どうしたらいい? まだ朝だ。どこに連れていけばいいのかわからない。とりあえず検診のこともあるので産院に電話するも、検診はキャンセルになるので病院に行ってくださいとだけ言われて、救急病院はわかりませんかと聞いても答えられないと言う。
 電話を切り救急病院を検索すると、すぐ近くの小児科が出た。救急ではないけれど8時半から診療開始とある。あと15分くらい。そこが一番早いはずだ。走って二階の自室に戻り適当な服に着替え、髪の毛をとりあえずひとつに結び、顔も洗わず化粧もしないまま急いでおむつ、着替え、ハンカチ、おしりふき、母の作ってくれたミルクを鞄に詰め込んだ。
 母に付き添ってもらい車で小児科に駆けつける。すでに待合室は混み始めていたが、救急の旨を告げるとすぐに別室に通された。看護師さんが娘の身長と体重を手早く測る。退院前3キロ足らずだった体重はいつのまにか4キロを超えていた。不安だらけで手探りの日々の中でも、知らないうちに大きくなってくれていたのだ。思わぬタイミングで娘の成長を知るも喜ぶこともできず、娘をじっと抱いて診察を待った。その間に目覚めた娘はうつらうつらとミルクをいつもの半分ほど飲み、またすうっと眠ってしまった。
 医師は穏やかな初老の男性だった。一通り聴診器を当て診察をして、首をひねる。
「まだ0ヶ月なので、本来であればこの時期に発熱するはずがない。原因がわからなくてもすぐに入院する必要があります」
そう言われて、現実感がすうっと遠くなった。入院?
 入院先の病院に連絡をする間、少しでも原因がわかればと尿検査をしてもらう。オムツを外して透明の小さな袋がついたシールを股の間に貼る。びっくりしたのか泣き出す娘を母と交代であやす。もし待っている間に尿が採取できれば溶連菌という感染症の検査ができるらしい。母によるとわたしも生後2ヶ月で感染したという。幸い15分ほどで尿が出た。けれど溶連菌検査は陰性。
 ベッドの空きがありました、と医師が戻ってきた。「このままうちを出てまっすぐ病院に向かってください。いったん家に帰って入院の準備をするよりも、できる限り早く入院することを優先してください。少しでも早く検査を受けられるように」 医師の口調は穏やかだがはっきりしていた。こちらを慌てさせないように、けれど事態の重大さが伝わるようにコントロールされた声だった。
 そうか、そんなに大変なことが起きているんだ。
 現実感は遠かった。入院先の病院は名前こそ知っていたものの、詳しい場所はわからないし、その辺りに土地勘もない。運転に自信がないと母が言う。自信なんかわたしもないけど、やるしかない。この子の母親はわたしなのだ。できないなんて言ってる場合じゃない。
 運転席に乗り込みカーナビに行き先を入力する。運転自体かなり久しぶりだ。しっかりしなくちゃと言い聞かせながらハンドルを握り、高速道路で病院まで40分ほど。どうにかたどり着き駐車場に停めて、娘を抱いて小児科病棟へ向かう。高層階でエレベータを降りて廊下を進むと、奥に入院フロアの扉があった。通常のフロアとは隔離されているらしい。傍らのインターホンで名前を告げると看護師さんが迎えにきてくれて、そのまま個室に通された。
 6畳くらいの部屋だ。壁や建具はまだ比較的新しく、正面には大きな窓があった。洗面所とトイレも備え付けられている。中央には白い柵付きの大きなベッド、窓のそばには簡易的なベッドにもなる折りたたみ式のソファ。
 なんとなく大部屋を想定していたので、個室であることに驚いた。それくらい重篤な状態の可能性がある、ということにはまだ気が回らなかった。若い女性の医師が来て簡単に名乗り、すぐに検査をさせてください、と言う。もちろん頷くしかない。
 娘を母に任せて、荷物を取りにいったん家に戻ることにした。着替えは少額で借りられるのでいいとして、おむつやミルク、哺乳瓶を持ってこなくてはならない。混乱した頭のままどうにか必要なものをリストアップし、次は1人で40分車を走らせて自宅へ戻る。
 現実感はひたすら遠かった。朝から緊張の連続で全身がぐったりと重いのに、神経だけが異様に張り詰めている。身体と意識がうまく馴染まない。病院の白いベッドに寝かされた娘の姿を思い出すと、反射的に涙が出て来ては膝にこぼれていった。泣いている場合じゃない。ここでぼんやりして事故を起こすわけにはいかない。慣れない道の運転に集中しなければ。いま大変なのはわたしじゃない、娘だ。被害者になるな。泣きながら何度も自分の頬や膝を思い切り引っ叩いて、どうにか目の前の風景に意識を戻した。
 自宅で一通りの荷物をまとめ、途中ドラッグストアでおむつや哺乳瓶用の洗剤、粉ミルクを買い込み、また病院へ戻る。
病室には母と、昼休憩で仕事を抜け出して来た父がいた。「お前が運転したのか、がんばったな」と父が労ってくれる。
 娘はベッドでぐったりと眠っていた。小さな腕には点滴が繋がれ、足の裏から色とりどりのコードが伸びて心拍モニターに繋がっていた。心拍は170前後。子どもは心拍が速いといっても胎児の頃のモニターではいつも135前後だったから、熱で息苦しいのだろう。母によると一度起きてミルクはしっかり飲んだらしい。それを聞いて少しほっとする。
 個室のドアがノックされ、先ほどの若い女医に伴って、もう1人の女医が入室した。ギリシャ美術の世界から抜け出して来たかと思うくらい目の覚めるような美女だった。大きなアーモンド型の目に見とれるほど細長い鼻梁、ローズピンクの口紅がきちんと塗られたグラマラスな唇。肩までの髪は明るい茶色にきちんと染められ、毛先は内巻きに整っている。歳は30代半ばに見えたけれど本当はもっと歳上なのかもしれない。肌に年齢相応の衰えが見えないせいではっきりとはわからない。
「お母さん、初めまして。担当医のSと申します。お祖母様には先ほど説明させていただきましたが、少し検査をさせていただきました」
 ああ、この人、本当にお医者さんなんだ。こんな場面でそう思ってしまうくらい非現実的な美人だった。それでも浮ついた感じはない。誰かを威嚇したり何かを誇示するためではなく、美しいものを美しくあるように整えているだけ、という種類のごく自然な美しさだった。
 S医師は回りくどいほど丁重に言葉を選びながら説明してくれた。血液検査の結果、炎症反応は見られるものの症状の特定には至らなかった。レントゲン撮影をしたところわずかではあるが肺に影が認められるので、現時点では肺炎の可能性が最も高い。それに合わせて抗生物質の投与を既に開始しているのでじきに熱は下がると思う、ということだった。
 ミルクの哺乳量はどうですか? と訊かれていつも通りの量を飲んだ旨を告げると、S医師はにっこり笑い「あら、お熱があるのにすごいのねぇ」と(その容姿からは想像もつかないくらい人懐っこい口調で)眠る娘に声をかけた。ここ数日、自分の体調のこともあって母乳は与えておらず、娘にはミルクしか飲ませていない。そのことを告げると「母乳を飲むのに体力を使いますから、弱っているときは哺乳瓶の方が赤ちゃんも飲みやすいと思います」とS医師。「体重も4キロを超えていてよかった。生まれたてよりも体力がついていますから」
 前向きな言葉に家族でほっとする。こんなに小さいのに肺炎になるなんてかわいそうだけど、入院して治療を受けていればきっと大丈夫だろう。少しくつろいだムードが病室に漂う。
 問題は、24時間の付き添いが必要なことだった。誰が付き添うって、わたしに決まっている。他に誰もいない病室で、慣れない環境で、病気の娘と一緒に夜を過ごす。
 母親なら当たり前のことだ。それなのに背筋が震える。2人きりが怖い。
 母が少し迷いながら、「どうしても無理ならわたしが代わるから」と声をかけてくれる。そんなわけにはいかない、このまま帰ったってうまく眠れるわけがない。でも怖い。怖い。とにかく怖い。それはもう理屈ではないのだ。2人きりになることを考えるだけで涙が出て、頭がぼんやりしてくる。
何も言えなくなっていると、父が言った。「家族で交代して付き添おう。土曜の夜なら俺が付き添える。平日はなるべく家のことをやるから、お前達で交代して泊まってくれ。みんなでなんとかしよう」
 仕事が忙しい父にまで負担をかけるのは申し訳なかったけれど、1人で背負わなくていいのだと思うとほっとした。けれど今何よりも優先されるべきなのは娘のはずなのに、わたしにまで気を遣わせてしまっている。それに頼ってしまう自分が情けなかった。


 両親が帰り、娘と病室で2人きりになった。でも病室を出れば目の前のナースステーションには看護師さんがいるし、心拍や呼吸はきっちりモニタリングされている。だから本当に2人きりなわけじゃない、大丈夫。何度も何度も自分にそう言い聞かせた。
 わたしがやるべきなのは4時間ごとに起きてミルクを作って授乳すること。今のスケジュールだと、20時、0時、朝の4時にあげればいい。それとは別に痰や鼻づまりを取るための吸引をしなければならない。用意された機械で薬の入った水蒸気を口元に当ててやり(この作業を看護師さんたちは「もくもく」と呼んだ)、それが終わったら看護師さんを呼んで鼻水の吸引をしてもらう。それが3時間おきなので21時、0時、3時、6時。授乳と合わせて何度か起きなければならない。
 睡眠時間が少ないと、また朝に気絶してしまうかもしれない。そうしたらなにもできなくなってしまう。娘を放置すると死んでしまうかもしれない。その恐怖心が体に染みついていて、想像しただけで涙が出るほど頭がざわざわした。でも一晩だけだ。明日には母が交代してくれる。大丈夫、倒れたりはしない。ただ然るべき時間に起きてやるべきことをやるだけだ。ここは病院で、いざとなれば助けてもらえる。理屈の通じない頭にひたすら言い聞かせて混乱する脳を鎮めた。それくらいならできるはず、と。
 20時にミルクをあげると、8割ほどは飲んでくれた。ほっとして抱っこしたまま背中をさすりげっぷを待つ。けれどしばらく経って大量に吐き戻してしまう。昼の授乳では飲んでくれたはずなのに。
ナースコールをして新しい産着を頼み、着替えのために手足についたコードをいったん外してもらう。着替え終わると娘はぐずることもなく、おとなしくぐったりと眠ってしまった。
 21時に「もくもく」をして吸引をしてもらった。細く長い管を鼻から差し込んで痰や鼻水を吸いとる作業だ。苦しいのだろう、娘はひいひいと力なく泣いた。ついでに検温をすると熱はさらに上がり、40度近くになっていた。ミルクも飲めていないのにこんなに熱が高くて大丈夫なのだろうか? 看護師さんが保冷剤を持ってきて、産着の上から脇にテープで固定してくれた。手のひらくらいの大きさのものが、娘に当てがうと胴の側面をほとんど覆ってしまった。まだ本当に小さな身体なのだ。
 22時前に顔を洗い、持ってきたパジャマに着替えて、簡易ベッドで早めに眠ることにした。0時の授乳のためにタイマーを合わせ、電気を消して横になる。部屋には心拍モニターの警告音が響いていた。小さいけれど落ち着かない種類の音だ。心拍は更に上がり200近くになっている。はぁ、はぁ、と全身で息をする娘のかぼそく高い声が聞こえる。母親ならば枕元で夜通し付き添ってやるべきだと思った。でもわたしにはどうしてもできなかった。また昏睡してしまうかもしれない、なにもできなくなってしまうかもしれないことがひたすら怖かったのだ。ひどい母親だ。こんなに苦しがっているのに、一晩起きて側にいることもしないなんて。それでもやるべきことだけはきちんとやらなくては。その一念でひたすら目を閉じていた。
 少しうつらうつらしたところで0時のアラームが鳴る。おむつを替えてから「もくもく」をして、ナースコールで看護師さんを呼ぶ。吸引の間に廊下に設置された給湯器でミルクを作り、部屋の洗面台で適温まで冷やして、そっと娘を抱いて授乳する。けれどやっぱりほとんど飲まない。普段なら140mlは飲むのに、50mlだけ飲んで目を閉じてしまう。
大丈夫? と話しかけても、はぁ、はぁ、とただ呼吸を繰り返している。とりあえずげっぷをさせようと縦に抱くと、ひぇぇぇぇぇ、と胸が痛くなるよう声で泣いた。驚いて横に抱き直すとまたぐったりと眠る。
 泣かせてしまった。なにがいけなかったんだろう。ごめんね、ごめんねと謝りながら静かに揺らして、小さな小さな声で子守唄を歌う。娘のためというよりは、ただ自分の心を落ち着かせたかった。寝入った娘をそっとベッドに置く。手足につけられたたくさんのコードが娘の様子を見てくれるはずだ。にじりよってくる嫌な気配を振り払うようにベッドに寝そべり、目を閉じる。
 3時に起きてまた「もくもく」と吸引。4時に授乳のために起き上がると、看護師さんが娘の検温をして、脇の保冷剤を取り替えてくれているところだった。熱は変わらず40度近い。ミルクを作ろうと哺乳瓶の準備をしていると、声をかけられた。「ミルクですか? もしよかったら、作って来ますよ」
 そんなことまで甘えていいのか迷いながらも、差し出してくれた手に哺乳瓶を渡した。看護師さんが部屋を出ている間に娘のおむつを替える。脱水が起きないよう常に点滴をしているため尿の量が普段よりずっと多く、おむつかぶれを起こしやすいらしい。おむつかぶれという単語はなんとなくのんきな響きだけれど、重症化するとお尻の皮が剥がれ真っ赤になりなかなか治らず、かなりの痛みを伴うらしい。だから可能な限りこまめにおむつを替えていた。
 看護師さんがミルクを手に戻って来る。熱にうなされる娘を心配そうに見つめて、「お熱高いね。こんなに小さいのに、かわいそうにね。早く下がるといいね」と声をかけてくれた。心の底から同情しているのが伝わってくる、優しい声だった。
 このときも娘は50mlしかミルクを飲まなかった。小さな身体を抱いたまま途方に暮れて声をかける。「ミルク、がんばって飲もう? お腹空いてないのかな。かわいそうにね、お熱が辛いよね。きっとよくなるからね、がんばろうね」涙のせいで声もうまく出せないまま、また子守歌を口ずさむ。心拍モニターの警告音は変わらず鳴り続けている。
 長い夜だ。どうにかしてこの細い細い命の糸をどうにか繋ぎ止めておかなければ。でもどうすればそんなことができるのかなんてわからない。
 しばらく付き添って娘の寝顔を見つめたまま、うとうとと泥沼のように眠る。途中で目が覚めて、娘の様子に変化がないことを見届けて簡易ベッドで眠った。次の6時の「もくもく」ではなかなか起き上がれず、どうにか身体を起こすと先ほどの看護師さんが既に作業をしてくれていた。
「お母さん、身体が辛いなら無理しなくていいですよ。やっておきますから」
 優しい声に、すみません……と謝ってまた意識を手放した。この日の夜勤の看護師さんは本当に本当に優しかった。対するわたしは結局看病ひとつまともにできなかったのだ。

 朝を迎えても、娘の熱は下がらなかった。S担当医は昨日と変わらぬ超然的な美しさで部屋に現れ、さらに検査をしたい、と言った。肺炎であれば抗生剤の投与で熱は下がるはずだが、解熱しないということは他に病気が潜んでいるのかもしれない。
「髄液検査をさせてください」と医師が言う。脊髄から髄液を抜く。そこにリスクがあることはなんとなく想像がついた。ごくわずかな確率だが検査によって後遺症が残る可能性もあるけれど、それでも検査をする方が有益だと思います、と担当医は言った。同意書が用意され、まだサインができない娘の代理人として、保護者同意欄に自分の名前を書いた。書面には後遺症の例が書き連ねられていた。リスクを背負うのは娘なのに、わたしがそれを決断せねばならないのだ。母親だから。
 やがて看護師さんが2人でキャスター付きの寝台を運んで来て、娘の手足についた点滴やコードを外し、そっと移動させた。ちょっと泣いてしまうと思うので、処置室で検査しますね。お母さんは付き添わなくて大丈夫です。外出していただいても結構ですよ。そう言って娘を連れ出していった。
 部屋の洗面台で顔を洗い、パジャマから洋服に着替えた。昨日はシャワーも浴びていない。借りることもできたのだけれど、短時間でも部屋を空けたくなかったのだ。そのせいか鏡に映る自分はなんとなくどんよりしていたが、どうでもよかった。産後からここまで自分の身繕いをする余裕などなかったし、病気の生後0ヶ月の娘を持つ母親には身なりを整える義務が免除される気がした。
 病院の1階に入っているコンビニでヨーグルトとおにぎりを買い、部屋に戻りゆっくり食べた。小さなテレビもあったけれどつける気にはなれなかった。5月の終わりの溌剌とした日差しがたっぷりと注ぎ込む病室はほのぼのと明るく、病気の娘がいた気配はさっぱりと打ち消されていた。ただ大きなベッドが空っぽなのが寂しいような安心するような、自分の気持ちをどこに位置付けるべきかもわからないまま、わたしはまだどこか夢の中にいるような心地でぼんやりとしていた。事態は急すぎたし、それに対する自分は不完全すぎたし、生まれてまだひと月もたたない娘が後遺症のリスクのある検査を受けているなんて、あっていいことのはずがなかった。
 しばらくして戻って来た娘は眠っていた。看護師さんたちがまた娘を大きなベッドに移し替える。このまま1時間は抱き上げたり、身動きしないようにさせてくださいね。そう言って彼女たちは部屋を出て行く。恐ろしい予言のように聞こえたが、幸いなことに娘は眠り続けていた。
 娘を見つめながら、彼女の脊髄に空いた小さな穴のことを考えた。わたしにさえ経験がないことなのに、このたった4キロしかない身体で耐えたのだ。その穴から大切なものがこぼれ出ていかないことを強く強く祈った。それくらいしか出来ることがなかった。

       

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