Neetel Inside 文芸新都
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屈託のない人に用はない
診断、逃避について 6/27

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 その日の記憶は少し曖昧なのだけど、たぶん昼過ぎには検査結果が出たと思う。結果を待つ間、夫と両親に髄膜炎の検査のことを連絡した。仕事中の父や夫からは引き続き看病を頼むと簡素な返信があった。母からも「午後に行くから看病もう少し頑張ってね」と励ましの返信。
 娘は依然として熱も高く、朝もミルクを半分ほど飲んだがまた吐き戻してしまった。そして検査を受けてからずっと眠り続けている。頑張るといってもわたしにできることはあまりなく、娘のお腹をとんとんしながらひたすら髄膜炎について調べて時間を過ごした。
 髄液とは脳や脊髄を循環している液体のことらしい。そこになんらかの方法で細菌やウイルスが入り込み炎症が起きてしまう、それが髄膜炎。細菌感染の場合は「細菌性髄膜炎」、ウイルスなど細菌以外のものだと「無菌性髄膜炎」と分けられる。どちらも初期症状は風邪に似ているが、症状が急激に悪化することが多い。特に細菌性髄膜炎は重症になりやすく、無治療の場合の致死率はほぼ100%。治療をした場合でも5〜20%と高く、後遺症も多くみられる(データにもよるが、15〜60%)。ただし新生児の発症は稀で1万人に対し2人。大抵は無菌性髄膜炎であり、合併症も起きにくく、後遺症を残すことはほぼないらしい。真偽はわからないけれどいろいろな実例が載っていた。無菌性髄膜炎にかかりとにかく心配したけれど、なんの問題もなく退院したケース。細菌性髄膜炎から快復したものの後遺症のある子どものケース。ニコニコおしゃべりしていた子が、病後は笑わなくなり首さえすわらなくなったという話も。
 ともすると、この子は笑うことも喋ることもないのかもしれない。とはいえ、わたしにとって娘はまだ笑いも喋りもしない生きものだったから、その可能性の喪失の本当の重みを測ることはできなかった。泣くか眠るかミルクを飲むか(それも高確率で吐き戻す)、そんな娘がいつか微笑みお喋りをするなんて、大袈裟ではなく信じられないと言っていいくらい想像から遠いことだった。
 それでも、その喪失がどれだけ辛いことなのかは理解できた。不穏な気配がひたひたと意識の縁から這い上がってくる。それがせめて無菌性髄膜炎であることをひたすらに祈った。1万人に2人なんて、自分の子どもに起きるわけがない。
 何時頃だったのか覚えていないけれど、1人で診断を聞いたことだけは確かだ。S医師が病室に戻ってきて検査結果の用紙を渡してくれた。血液や髄液の詳しい分析結果で、知らない用語と数字がひたすら並んでいる。わたしが見てもなにもわからない。
「検査の結果、娘さんの病気は細菌性髄膜炎だと考えています」
 落ち着いた口調で医師は告げた。
 自分がどう返事したのか覚えてもいない。滲むくらいに泣いたと思う。
 今回も医師の説明はとても丁寧だった。入院時の問診でも入院中も、髄膜炎の主症状である痙攣が見られず、また乳児の場合は大泉門(頭頂部にある頭蓋骨の隙間。乳児はまだ頭蓋が未発達なので、押すと柔らかくへこむ)が腫れていることが多いが、娘にはそれもなかったこと。そのため髄膜炎を第一に疑うことはなかったが、検査をしたところ髄液に細菌が感染していることがわかった。糖やタンパクの値に異常があるためだ(細菌が消費したと考えられるらしい)。無菌性の場合このような値は出ない。髄液からは細菌を検出できなかったため、髄液を培養して原因菌の特定を急いでいる。早ければ3日、1週間以内には培養の結果が出ると思う。原因菌によって抗生物質の種類と投与期間は異なるが、とにかく急いで治療することが重要なので、暫定的に現在使用している抗生物質の投与量を増やす。原因菌が判明次第、種類や投与期間をそれに合わせたものに変更することになる。
 かみ砕くような説明をそれでも一度に覚えられたわけではなく、S医師はこの後も病状が変化するたび何度も、また両親や夫にも丁寧に説明してくれたので、鬱で弱っていたわたしの脳でもどうにか理解することができた。
 後遺症についても説明があった。ほぼ調べた通りの内容だったが、恐怖を煽ることなく、けれど楽観的でもなく、現状を淡々と述べる医師の説明がむしろありがたかった。わかりました、よろしくお願いしますと頭を下げた。
 S医師が病室を去ってから自分がどう過ごしたのかほとんど覚えていない。細菌性髄膜炎であることを各所に連絡すると、しばらくして父から電話がかかってきたことは記憶に残っている。「仕事を切り上げて今から病院に行く。まだちゃんと調べられてないんだけど、髄膜炎って要するにどこの炎症なんだ?」訊かれて簡潔に答えた。「脳と脊髄の循環液」。しばらく父は黙って、そうか、と言って息を呑んだ。
 
 両親が病室に来たのは14時過ぎだったと思う。その日は母が付き添ってくれることになった。「あとは任せて、家でしっかり休んで」。そう言われてほっとしたものの、髄膜炎という病名がわかった今、病院を離れるのは母親として正しいことではないのではないか。後ろめたかったけれど結局、何かあればすぐに連絡するから今日はとにかく休めと両親に説得されるかたちで病院を後にした。
 父の運転で家に向かう。疲労と消耗で運転できる自信がなかったので、わざわざ仕事を切り上げて迎えに来てくれた父の気遣いがありがたかった。
「昨日の夜、寂しかったよ。ベビーベッドが空っぽなだけで家全体がびっくりするくらい静かだった。別に普段うるさいわけでもないし、動きもせず寝てるだけなのにな」父が出来る限り穏やかな声で言った。
 父は娘をことのほかかわいがってくれていた。朝起きればまず1番に様子を見に来て微笑み声をかけ、うんちでも構わずおむつ換えしていたし、仕事から帰った夜にミルクを作って授乳することもあった。父が今どれだけ心を痛めているのかは想像しなくてもわかる。
「元気になって早く退院できるといいな」
「うん、でも、髄膜炎は難しい病気みたい。笑わなくなった子もいるって……」
「それは俺も読んだ、言うな」
 父が涙声で遮ったので、黙った。

 帰宅してからもお互いになんとなく落ち着かなくて、父は庭の手入れを始めた。わたしは少し眠ろうとしたけれど気が張っているせいかまったく眠気を感じなくて、とりあえず熱いシャワーを浴びた。それでも目は冴えていて、今からでも病院に戻れそうな気がした。「病院に戻ってお母さんと交代しようかな」と庭の父に話しかけると苦笑するようにはにかみ、やめておけ、と小さく首を振った。
 夕飯の支度まですることもない。いま1番やるべきなのは身体を休めることだろう。2階の自室のベッドに寝転んだ。開け放した窓から、父が庭の植栽の手入れをする鋏の音が聞こえる。しゃん、しゃんと軽い金属音、ざわざわと葉ずれの音。病院で寝ている娘のことを思う。思わないわけにはいかない。 
 自分の生んだ赤ちゃんがこんなことになるなんて。
 わたしが入院したいと思い続けたせいで、なにかと引き換えに娘が入院することになってしまったのかもしれない。昨日の朝、小児科で入院という単語を聞いた時からずっとその考えが自分を苛み続けていた。そんな風に自分を責めても無意味だし、そもそもわたしにそんな能力はない。それでも、そんなことを願うべきではなかったのだ。
 40度の熱も点滴も入院も、わたしに起きるべきことだったのに。わたしなら1ヶ月でも熱を出していたって構わない。いなくならないでほしい、と思った。生まれたての娘を育てる眠れない日々は辛く、夜が来るたびに怯えていた。それでも娘に死んでほしくなかった。たとえわたしから母親の資格が剥奪されても構わない、どこか手の届かないところに行ってしまってもいいから生きていてほしい。
 安全な場所から心配している自分を卑怯だと思いながら、ようやく1人で思い切り泣いた。

 夕方になって冷蔵庫のもので適当な晩ご飯を作った。大きなお腹で里帰りしてから基本的に台所に立つことはなかったので、久し振りに料理をした。簡単な鶏肉と野菜の炒め物だったのだけど、まずくはないものの特に美味しいということもないぼんやりとした味のものが出来た。「ごめん、なんか失敗した」と食卓に出すと父はそんなことないよ、おいしいよと食べてくれた。
 母からは定期的に連絡が来ていた。娘は夕方にたくさんミルクを飲んだが、やはり吐き戻してしまったらしい。それでも夜は少量を吐き戻すことなく飲み、その1時間後にもまた少し飲んだ。わたしが診ていたときよりも飲める量が増えている。抗生物質が効いて来たのかもしれないね、と父と前向きに話をする。
 寝る前に夫と電話をした。夫には高熱が続いていること、病気についての概要を伝えてはいたがすぐに既読はつかず、忙しくて読む暇がないらしかった。なので昼過ぎに「髄膜炎なんだね、了解。きっと良くなるから大丈夫、看病お願いします」と見当違いの呑気な返事が来たきりになっていた。普段からわたしがなんでも神経質に心配しやすいこともあって、夫はわたしの「大変」を軽く捉えがちな傾向がある。今考えれば、命のかかった場面なのだからもっとしっかり伝えて即日にでも来てもらうべきだった。しかしそのときのわたしは「娘が死んでしまうかもしれない」という不安はあっても、それが「生命の危機に関わる差し迫った状況」だということを冷静に把握できていなかったように思う。それは両親も同じだった。
 とにかく、夫も仕事に忙殺されながらもようやく病気についてのページを読んだらしく、電話の第一声は「細菌性髄膜炎って、めちゃくちゃ怖くない?」というものだった。
「そうだよ、怖いよ」
「後遺症の可能性もかなり高いな」
「それ以前に熱も高いし、下がってないんだよ」
「大変な状況なのに任せてばかりでごめん。さすがに心配だからちょっと区切りつけて、明日中にそっちに行くよ」
 まだ週の半ばだった。いつも日付が変わるまで仕事をしていて、土日にも自宅で仕事をするのもしょっちゅうな人が産後に長い休みを取って、さらにまた間も置かず平日に休みを取るのがどれだけ大変なことかは知っていた。でももちろん、それに変えられないくらいのことが起きているのだ。
 夫に今すぐ来てと言えなかったのは、それくらい大変な状況だと思いたくなかったからなのかもしれない。「自分の子が死ぬはずない」と現実を否認したくて、「まだこの先がある、大丈夫」と思っていたのだろう。無意味な現実逃避でしかない。

 夜中は何度か目が覚めて、そのたびに母からの連絡を確認した。いつもの7割くらいの量だがミルクを飲んでいるようだ。熱は39.5度。40度を切ったけれどまだ高い。
 朝5時頃にふと目覚めて確認すると、38.7度まで下がったという連絡。朝の8時には38.1度になった。抗生物質が効いたのだ。まだ熱は高いものの、「峠は越えた」のだろう。起きてきた父と2人で泣きながら喜んだ。夫にも連絡。返信で、今日の夜にはこちらに来るとのこと。
 父と2人で病院に向かい、母と3人でまた熱が下がったことを喜んだ。その日は父が仕事を休んで娘の看病をしてくれることになった。昨日も早退したのに更に休んで大丈夫?と訊くと、孫娘が命のかかった病気であることを説明したところ、同じ役職の人が詳細をを聞くこともなくすぐに「看病に行ってください」と仕事を交代してくれたとのこと。なんてありがたい。退院したらなにかお礼をしないとね、と話をした。
 日中は何度か看護師さんが個室に訪れ、抗生物質の点滴をしたり、沐浴ができない代わりに身体を拭いたり、検温したりとお世話をしてくれた。少量を何度にも分けながらではあるけれど、ミルクを飲む量も徐々に増えてきている。お昼過ぎの検温では熱が37.2度まで下がっていて、みんなで歓声をあげた。看護師さんも笑顔でお熱下がりましたね、よかったですねと言ってくれた。疲れた母を乗せてわたしの運転で一度家に帰り、わたしはまた病室へ引き返した。
 午後、S医師が病室を訪れる。「熱が下がりましたね。抗生物質が効いています。よかったです」相変わらず口紅を隙なく塗った唇が少し微笑んだ。「とりあえず、救命という点では成功しました」
救命。やはり命の危うい日々だったのだ。自分がそれを漠然とした恐怖に変換して怖がるばかりで、具体的な状況として捉えられていなかったことに背筋が竦む。助かったからその程度で済むのだ。もしものことがあったなら、わたしは自分の気構えの甘さを一生後悔しただろう。
「ただしまだ後遺症についてはなんとも言えません。相変わらず痙攣もなく所見は良好ですが、脳に関する病気なので、症状が落ち着いたところで脳の画像診断をします。MRIですね。聴力に影響が出る可能性の高い病気なのでお耳の検査も必要です。抗生物質の投与が終わってから検査をして、状況を把握してからの退院になります」
 まだこれから考えなければいけないことがたくさんあって、それを肩代わりしてくれるプロフェッショナルがいる。医師の存在をこれほどありがたいと思ったことはなかった。

 その夜、東京から夫が来た。娘の容体が既に落ち着いていたのと、飛行機が着くのが遅い時間だったのもあって、病院には寄らずまっすぐ実家に来てもらった。その前の週末にも来ていたのでほんの数日ぶりの再会だったが、ものすごく長い間会っていなかったような気がした。その夜は夫に話をしながらわんわん泣いた。気が緩んだのだろう、そのまま意識を手放して、久しぶりに朝まで目覚めることなく、ぐっすりと眠った。
 
 

       

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