Neetel Inside 文芸新都
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屈託のない人に用はない
14週の記録(11月某日) * 来たぞ、つわり

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 とにかく怒涛の身体の変化である。
 当然だけど、月のものが来ない。
 十数年にわたるほぼ毎月の律義なおつきあいだったので、こうも急に音沙汰がなくなるとちょっと不安になってしまう。いつも初日は吐き気でなにも食べられなくなり、どうしようもない鈍痛で真夏でも湯たんぽを抱え冷や汗をかきつつベッドでうめいていたのに、それがない。でも嬉しくない。すでに別の具合の悪さが始まっている。つわりだ。
 始まったのは妊娠5週目くらいから。最初は「なんだか胃腸の調子が悪いような気がするな」というくらいだった。空腹になると軽い吐き気がする。胃腸の調子がよくないのかな、少し食べる量を減らそうかな……と思っていたけれど、なぜか食べると楽になる。むしろ、お腹が減ると駄目らしい。いつもの不調と少し違う。
 少し前に妊娠報告をしてくれた友人から同じような症状を聞いていたので、「これってもしかして」と気がついた。そのうちに異様な寒気やちくちくした腹痛なども出てきたけれど、それでもまだ朝起きて洗濯をしてお弁当を作って出勤、帰ってきてから晩御飯を作って片づけて……というくらいのことはできていた。これがつわりかな、この程度で終わってくれるといいんだけどな、とほのかに期待した。
 しかし、症状は少しずつ進行していった。体力が日に日に落ちていく。朝起きるのが辛い。なけなしの化粧をして洋服を着て家を出るのが精いっぱいになってきた。玄関で座りこんで、夫に励まされながらなんとか出勤する日もたびたび。
 立ちっぱなしだと気持ち悪くなってくる。当然、台所にも立てない。5分もすれば目まいと吐き気がして立ってられないんだから料理どころではない。台所で椅子に座りぐったりもたれかかりながらなんとか野菜を切る日もあった。とはいえ、座りっぱなしでも血行が悪くなるせいか、お腹の底から何とも言えない気持ち悪さがこみあげてくる。1日9時間眠らないと身体がもたない。出勤は週3日だけだったにも関わらず、仕事から帰ってきたら完全に消耗していて、何もできずにただ倒れているしかなかった。
 この頃夫は月曜の朝から金曜の夜まで出張で不在で、なかなかにシビアな状況だった。それでも土日に料理や家事をしてくれたり、出張に行く朝に自分の使った食器を食洗機にセットしていってくれたりした。すごくありがたかったのだけれど、激務で疲れているはずの夫になにもしてあげられないのがなんだか情けなくて悲しくて、しくしく泣いてしまうのだった。
 すると夫は、「気にしなくていいんだよ。お仕事もしてて赤ちゃんも育ててるんだから、これは『お手伝い』じゃなくて僕の仕事だよ」と言ってのけた。うーん。思わず日記に書き留めておくほど感心してしまった。私がフルタイムならまだしも、週3日程度の仕事で、それも自分が激務なのに……
 まぁお互い辛いときにちょっと雰囲気が悪くなったことだってもちろんあったけれど、私はよかったことだけ覚えておける都合のいい脳みその持ち主なので、この言葉はすごくいい思い出。
 
 味覚の変化もすごかった。それまで苦手だったはずのやたら脂っこいものが食べたくなる。生まれて初めて夜のラーメン屋デニューを果たしたほど。夜10時過ぎにラーメン食べたい! というと(もちろん夕食後)、夫が妙にうきうきと近所のおいしいラーメン屋を調べて連れて行ってくれた。ポテチやインスタントラーメンも久々に食べた。坦々麺とか麻婆豆腐とか、辛くてがっつりしたものも好きになった。
 そして、甘いものがまったく食べられなくなった。チョコなんか見たくもない。好きだったチーズケーキも草もちも、食べていて楽しくないどころか気持ち悪い。乳製品のまったり感も嫌いになって、毎週買っていたヨーグルトも食べなくなった。世の中の「甘いものが好きじゃない、別にこの世になくていい」という人の気持ちが初めてわかった。興味がまったくわかないのだ。
 よく「ごはんの炊けるにおいがダメになった」と聞くけれど、これはまったく平気だった。むしろパンとかクラッカーとか小麦製品が食べられなくて、納豆ご飯ばかり食べていた。定番の酸っぱいものはしっかり食べたくなって、「ブラッドオレンジジュースが飲みたいな。スペインの太陽みたいにぎゅっと濃厚なやつ。グレープフルーツでもオレンジでもなくてブラッドオレンジ」とごろごろしながらひたすらつぶやいていたら、夫が冷凍のものをお取り寄せをしてくれたのだけれど、つわりの妊婦はなぜか週替わりでハマるものが変わるのだ。次はグレープフルーツゼリー(飲み会帰りに買ってきてもらった)、その次が梅干し(おばあちゃんが送ってくれた)。
 つわりでもこれなら食べられる! と箱買いしたものの、短い期間で別のものが食べたくなって結局余ってしまった……というのはけっこうよくある話のようです。まぁ、ジュースは最後までおいしく飲んだけれど。
 それにしても、なぜ人の嗜好がここまで短期間にがらりと変わってしまうんだろう? これは医学でもよくわかっていないらしい。これは実に面白い体験だったので、それだけでも妊娠したモトをとったな……と思った。こんな不思議体験を身をもって実感できるなんて、ほんとに、滅多にないことだ。

 お腹が減ると気持ち悪くなるので、とにかくなにかを食べている。これは食べづわりというらしい。反対に吐きつわりの人もいて、これはもっと大変そう。何を食べても吐いてしまう、1日何度も吐く、ひどい場合には栄養失調や脱水症状になり入院するほど。それを思うと私は食べられるものが多かったし、つわり自体もけっこう軽くて楽な方だったんだと思う。
 それでも、それでもやっぱりつわりは辛かった。食べれば楽かと思いきや、そのうちに食べても食べていなくても気持ち悪い時期がやってきた。食べないと気持ち悪いのに、食べてもぜんぜん楽にならない。特に夜がひどかった。とりあえず夜ごはんを食べるものの、胃がむかむかしてげふげふと変なげっぷが出る。胸の奥でぐるぐると吐き気がうずまいている。何を食べても同じ。食事がまったく楽しくない。でも食べないともっとひどいことになる。食後はベッドで倒れてうめきながら耐えた。なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだろう。仕方ないとわかっていても被害者意識が湧いてくる。ちゃんと食べたい、気持ちよく食べたい、料理だってしたいしこんなに毎日寝てばかりいたくないのに。吐き気で眠りも浅くなり、夜中にトイレで何度もえづいた。思いきれば吐けそうだったけど、1度吐くとクセになる気がして我慢していた。
 つわりなんて、食後急に「うっ」と気持ち悪くなってトイレに駆け込み、「もしかして」と妊娠が判明する……というくらいのものだと思っていた。完全に漫画由来の知識。でも実際にはぜんぜん違っていた。ひどいときには24時間気持ち悪い。継続的にむかむかする。逃げようがない。胃腸の機能が落ちていて何を食べても消化不良。かといって胃薬も飲めない。胎児に影響があるから、妊婦は飲める薬が大幅に制限されるのだ。それに加えて体力も落ちる。
 歯磨きも辛かった。奥歯を磨くとえづいてしまう。一度おえっとなるともう歯磨き続行不可になるので、気持ちを明るく誤魔化しながらさっと奥歯に歯ブラシを潜り込ませてはすぐに引っこ抜く。そんなやり方でもちろんきちんとは磨けているわけがない。疲れていて吐き気を抑えるだけのテンションを保てず、口をゆすぐだけで寝た日もたくさんある。ろくに歯磨きできないうえに胎児に骨や歯のカルシウムをとられるし、ホルモンのせいで口内環境が変わって虫歯や歯周病になりやすいしで、とにかく通常とは身体の仕組みが全然変わっているらしい。
 
 妊娠14週になったころ、つわりはほぼおさまった。少しずつむかむかがなくなり、脂っこいものをそんなに欲しなくなり、甘いものはまだそんなに食べられないけどもなんかおいしいかも、と思うようになり、乳製品も食べられるようになって、ほとんど以前の食嗜好に戻った。夜はちょっとむかむかすることもあるけど、ピーク時に比べれば1/10程度だ。そして喜びに溢れながら隅から隅まで歯を磨いている。台所に立てる時間が長くなってきた。自分で作ったごはんをおいしく食べられるというのは幸せなことである。しみじみ。外食や買ったお弁当が続くのも地味に辛かったのだ。 
 症状の重さも長さも人にもよるけれど、私の場合、本当にひどい時期は2、3週間くらい。全体としてはたぶん2ヶ月ちょっとだったと思う。ひどければ出産まで続く人もいる。友人は6ヶ月まで入院寸前のつわりに苦しみ、ようやく少し食べられるようになったかと思いきや、また8ヶ月に入った頃から後期つわりが始まったとか。
 お酒がほとんど飲めないのでわからないのだけど、男性に説明する際には「二日酔いが毎日続くようなもの」と説明するとわかってもらいやすいそうです。私は逆に二日酔いの辛さはわからないのだけれど、想像の目安にしてみてください。

 当時は短期のお仕事をしていたのだけれど、ちょうどつわりもピークの12週ごろ、職場からの提案で早めに契約を終了して、必要な時だけ仕事を発注してもらうスタイルになった。朝夕の通勤電車はいつも辛かったし、帰宅してもお腹の痛さと気持ち悪さで着替えさえできず夜中までひたすら横になっているような状態だったので、途中で辞めるのは残念だったけれどやっぱりほっとした。
 でも世の中には仕事を辞めたくない妊婦さんも、辞めるわけにはいかない上に休めない妊婦さんもたくさんいるだろう。その中には私よりもっと体調が良くない人もいるだろう。そんな妊婦さんをどうか家族や周りがサポートしてくれたらいいな、と思う。
 たいへんたいへんって言ったって仕方がないのだけれど、それは重々わかっているんだけど、でもやっぱり人間ひとりを腹の中で育てるのは普通のことではないのだ。
 

       

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