Neetel Inside 文芸新都
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屈託のない人に用はない
25週の記録(1月某日)*「お母さん」にはならない

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 標準の妊娠期間280日、全40週。
 それが、一人の女性が「母親」になるために十分な時間なのかどうか。
 わからない。もう何度、妊娠に飽きた! と思ったことか。お腹が大きくて不便だし、行動は制限されるし、さっさとぽこっと産みたい。とはいえ本当に出てこられても困る。トイレに行くたびに、何かの間違いでするっと出てきちゃったらどうしようと不安になったりもした。お腹がかなり大きくなり胎児も30cmほどまで育ったらしい現在では、さすがに「するっと」は出てこないだろうなとわかっているのでちょっと安心できるようにはなったけども。
 

 ときどきふと、本当に産んだ後ちゃんと育てられるんだろうか? と不安になる。つわりだのなんだので大変だったときは「ちゃんと産めるのかな」だった心配が、だんだん産後へとシフトしてきた。昔から面倒見のいいタイプではない。どちらかというといつも気がつくと面倒を見られている側になっている。いつの間にか友人には面倒見のいいタイプが揃っていた。更に私からはなぜか年上の女性(現時点だと四、五十代)にてきめんに効くフェロモンでも発生しているのか、病院なんかではこの年代の看護婦さんからやたらと優しくされる。みんな口調が子どもに対するそれになる。いくら童顔といってももうしっかり劣化(とか言いたくないけど)していてわかるはずなのだが、というかお手元のカルテに年齢がちゃんと書いてあるはずなのだけど、なんでだろう……なんだかこのまま歳をとるのもなんかきついよな、と思う微妙なお年頃。
 今の私に母性があるかと問われると、答えは「ノー」だと思う。
 赤ちゃんや小さな子どもを見ればかわいいなと思うけれど、それを母性とは呼べない気がする。ただ普通にかわいい生き物をかわいいと思うだけ。
 私って、果たしていいお母さんになれるんだろうか……と日々ぼんやりと考えていたら、やたらと息苦しくて、気持ちが奈落の底へ向けてするすると滑り落ちそうになっているのに気がついた。なんだか産後の悲惨な光景ばかりが浮かんでくる。子どもを怒鳴りつけてヒステリックに叫ぶ私。育児放棄する私。情緒の未熟な子どもを意地悪な言葉でサディスティックに攻め立てる私。
 なんだこの不穏な想像は。
 ちょうどその頃、何かの本で「子どもの頃に憧れたかっこいいお母さん」という記述に出会って、はっとした。たぶん今から三十年くらい前、そのお母さんは髪型やファッションなんかがいわゆる当時の「良妻賢母的お母さん」という感じではなく、常にとんがった格好で(つまり良識的なお母さん方からは眉をひそめられそうな格好をしていて)、性格もさっぱりドライ、遊びに来た子どもの友人なんかとも普通の口調で大人に対するように対等に話し、とはいえ悪いことをすればしっかり怒るしで、子どもの目線から見てなんだか憧れた……という話。
 別に私がおしゃれでかっこいいお母さんになりたいと思ったわけではない。むしろ見た目はがっつり「ほのぼのお母さん系」なのだ。ただ、自分が無意識に「良いお母さん像」に当てはまらなければ、と思い込んでいたことに気がついた。優しくて控えめでお料理が上手で穏やかでシャボン玉のにおいがするような。
 でもそうじゃない。私はお母さんである前に私自身なのだ。
 そして私がこの腹の中の子どもに対して負っている責任はおそらく、「自分ひとりで生きていけるようにしてやること」くらいなのだ。社会にあんまり迷惑をかけずに生きていくための十分な常識と生活習慣、健康さえ身につけさせてやれれば、十分すぎるくらい合格点のはずだ。別に世間の望む「満点のお母さん像」になろうとする必要なんて、まったく、全然、これっぽっちもない。
 きっと私が「理想のお母さんらしく」なろうとすればするほど、私は子どもに「理想の子どもらしさ」を求めてしまうだろう。かわいくて無垢でお利口で。でも生まれてくる子どもだって、別に子どもらしい子どもになるために生まれてくるわけじゃない。たまたま私の腹を借りて生まれてくるだけで(その時点でちょっと気の毒になっちゃうけど)、私の期待とはまったく関係ないはずの存在なのだ。子どもらしい部分もあれば、子どもらしくない(期待通りではない)部分だって持ち合わせているだろう。私にとって都合の悪い部分だってたくさんあるかもしれない。
 彼か彼女か知らないが(現時点で性別は判明していないので)、とにかくこのお腹の子は私と夫の子どもである以前に、自由で孤立した魂を持った生き物なのだ。私と同じように。
 そのことを忘れないようにしないとな、と思った。
 この子が産まれてからしばらくの間は、面倒を見たりものを教えたりはする。衣食住の世話だってしてやらなければならない。それは私の方がずっと先に生まれているから仕方ない。私の物事の見方には偏りがたくさんあって、この子もきっとその偏りの洗礼を受けるだろう。私が親であることでこの子にとって不利なことも多いかもしれない。でもできれば、そういう偏りを超えて、自分自身の目で物事を見つめて判断していく子どもに育ってくれれば、それが一番いいのだろう。それが私の期待通りではなくても。

 まぁ産まれてずっと一緒に居て面倒を見ていたらどんどん情が移って、そんな当たり前のことも忘れてしまうんだろうけど、たびたび思い出しておきたい、と思った。
 子どもを前にして自分に言えたらいい。あなたは私のものじゃないんだよ、私があなたのものではないように。でもせっかくこういうことになったんだし、なるべく仲良く楽しくやっていけたらいいよね。わからないことやできないことが最初はいっぱいあるだろうけど、そこはなるべく助けるから。それはなぜかって、私があなたを産んじゃうから、たぶんその「つぐない」みたいなものだ。私の子どもとしてこの世に産まれることが100%善だなんてさすがに思えないもの。
 でも私は生きていることがいま結構気に入っていて、夫のことも愛していて、考えられる限りの幸せな家族を作りたいと思っているんだよ。
 なぜか?
 それが本能だから、なのだろうか。果たして。
 思い出すのは夫との最初のデートだ。手を握られて、それがなぜか嫌ではなくって、つきあいたいとも好きだともはっきり思わなかったけれど、漠然と「この人に家庭を作ってあげたいな」と思った。当時の私の中では、それはイコール結婚ではなかった。そんな現実の手続きについてはなにも考えなかった。どこか遠くからふっと放たれて、なんの障害もなくただまっすぐに飛んできた予感だった。この人が安心して帰って来られる場所を作ってあげたいし、私だったらそれがうまくできる気がする、と。その時点ではまだ彼は「遠くに住んでいて、どうやら私に好意を持っているらしい不思議で変な人」でしかなくて、つきあうことになるとも思っていなかったのに。
 人生において、時々そういう確信めいた予感がやってくる。私の意図や想像とは関係のない次元で、なにかが「なんとなくわかる」。それがいつ、どんな風にやってくるのかはわからなくても。
 いま、私が腹の中の子に抱いている確信のひとつは、「夫にとって善なるものである」というものだ。恐らくこれは彼にとって素敵なものになる。なぜか確信がある。自分にとってどうかはまったくわからないけれど、その予感は私を静かにあたためてくれる。夫にとって善なるものごとならばそれは私にとってもよいものごとのはずだから。彼の幸せは私の生きる目的のひとつとしてプリセットされている。不思議なんだけど、それは私の意図を超えたことなのだ。使命感とか義務とかではなくて、ただそうあるべきだという静かで穏やかな確信なのだった。もちろん、とても幸福な種類の。
 

       

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