山に雲が掛かっていた。
あの山の頂上に行くと、何があるのだろうと、シエラは思った。
翌日、商人達の大半は出発していった。
あっという間に、宿泊所の一階が閑散とした。
やることがなかったので、宿泊所の前で、シエラはペイルと立ち合いをしていた。
途中から、ボルドーも見ている。
セピアは、就寝は一緒だったが、朝早くどこかへ行っていた。
「大きい声じゃ言えませんけど、酷い親父さんだと思いますよ、俺は」
打ち合いながら、ペイルが言った。
「いくら将軍だからって、奥さんと娘をほったらかしにするなんて」
ボルドーは腕を組んで黙っている。
「六年前か……」
そう呟いた。
昨夜は、セピアから昔の話を聞いた。
父親からは、謝ってほしいわけでも、真意を聞きたいわけでも、迎えてほしいわけでもない、とセピアは言っていた。
ただ、会っておかなければならないと思ったらしい。
自分たちに、できることはないかと聞いたが、セピアは首を振った。
「これは私自身の問題だ。だけど、聞いてくれてありがとう。少しだけ、楽になった気がするよ」
そう言って、力なく笑っていた。
「私が、ここまで来れたのは皆さんのおかげです。本当にありがとうござざいます。その、ただ今の私には大した御礼もできませんので、いつか必ず」
「大袈裟な。同道だと言っただろう。つまり、お互い様だ。お前の為だけではない」
ボルドーが笑って言うと、セピアも少し微笑んだ。
「あの、これからどうされるのですか?」
「そうだな。国境に沿って東にでも向かおうかな」
「いつ出発なさるのですか?」
「まだ決めていない」
「では、明日は私がウッドを案内しましょう」
「いいのか? 勝手に歩き回って。軍事要塞だぜ?」
ペイルが言う。
「カーマインさんの許可はもらっています。ある程度なら構わないと」
「本当かよ。実は、興味があったんだよな」
そういう会話があった。
「あの、ボルドーさん」
「何だ?」
「出発は、セピアがどうなるか、見届けてからにしませんか……?」
ペイルが言うと、ボルドーがおもしろそうに、口角を上げた。
「なんだ、やはり気になるか」
「あ、いや、ええと……ほら、やっぱり結果が分からないと、気になって寝付きが悪くなるかもしれないじゃないですか」
「心配しなくとも、元より、見届けるつもりだ」
「あ、そうなんですか」
立ち会いが止まった。
セピアが、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。
城壁に上って、四人は歩いていた。
昨日は分からなかったが、本塔と呼ばれている建物から、さらにずっと奥まで、城壁は続いていた。
上からみれば、おそらくだいたい正方形の形をした城壁があり、その真ん中に本塔があるようだ。
「そういえば、ボルドーさんって、ルモグラフ将軍と面識はあるんですか?」
ペイルが言った。
「面識というほどではないが、顔は見たことがある。随分昔の話だ」
「ボルドーさんほどの人なら、向こうは絶対知っているでしょう」
「どうかな」
「会ったりはしないんですか」
「必要でしたら、私からカーマインさんに話を通してもらいますが?」
先頭を歩いていたセピアが、振り向いて言う。
「ボルドー殿だと分かれば、断るようなことはないでしょう」
「いい、いい」
ボルドーが、手を前で振った。
やがて、城壁の一番北側に着いた。
細い道が、山の方に続いているのが見える。
しばらく辺りを見回していると、その道の先から、土煙が上がっているのが見えた。
やがて、騎馬の集団が見えてくる。三十騎ほどだろうか。
その集団が、下を通っていくのを見送った。
集団の、ほぼ真ん中に、赤っぽい髪の色をした、体格の大きな男がいた。軍装も特徴的だったので、あれがセピアの父親、ルモグラフ将軍なのだろう。
セピアを見ると、複雑そうな表情をしていた。
「何だ? 馬で山を登れるのか?」
ペイルが言う。
「途中までは、行けるのですよ。厩舎も小さいのが一つ山の麓にあって。そこからは、徒歩ですが」
「へえ」
その後、ウッドを一通り見て回り、再び宿泊所に戻った。
ボルドーは、もう少し見たい所があると言って、どこかへ行った。
セピアも、いつの間にかいない。
「なんか久しぶりに、ゆっくりできちまうな。思い詰めててもしょうがない。俺は昼寝でもしようかなあ」
欠伸しながら、ペイルが宿泊所に入っていった。
夕方になっても、セピアの姿が見えなかったので、気になってシエラは、探すことにした。
兵士達に、何度か呼び止められながら、歩き回っていると、西の城壁の上で外を向いて佇んでいるセピアの姿を見つけた。
ちょっと考えたが、近づくことにした。
遠くに夕焼けが見える。
「昔ここで、よく夕日を眺めていたのを思い出していたんだ」
ふいにセピアが言った。
「何も変わらないな、ここは」
シエラは、黙ってセピアの横に並んで立った。
父親と言われても、シエラには何の印象もないと思った。父親だけではなく、母親もそうだ。
それに近いであろう人を考えると、まず浮かんでくるのは、サーモンやカラト、ボルドーである。
ただ、やはり親とは違うのだろう。
黙って、二人で夕焼けを眺めていた。
「親父に会わんのか?」
突然声がして、振り向くとボルドーがいた。
セピアは、少し俯いた。
「……覚悟をして来たつもりでしたが……いざ、目の前にすると、どうも踏ん切りがつかないようです。本当に、自分が情けない」
そう言った。
しばらくしてから、こちらに向かってカーマインが歩いて来るのが見えた。
カーマインは、皆に一礼した後、セピアの前に立った。
緊張した顔をしている。
「セピア様。その、将軍からの言伝です。明日の正午に、練兵場に来るようにと」
言われた瞬間、セピアの体が硬直した。
少ししてから、ゆっくりと息を吐いた。
「そうですか……分かりました」
「では、私は」と言って、カーマインは去っていった。
二人が、セピアに注目する。
「明日か……」
小さく呟いた。
セピアは歩いていた。
ウッドの西側の建物、その隣に練兵場の一つがある。
共は、カーマインだけである。
手配がされているのか、人の気配が周辺にはなかった。
セピアは緊張をしていると自覚していた。
練兵場に呼ばれたということは、間違いなく、立ち合いをやろうというのだろう。それは、想定していたことのはずだった。
しかし、心のどこかで、父親が謝ってくれるのではと考えていたのだろうか。昨日、カーマインに言伝を聞かされた時、思いも寄らない驚きが、体を支配した。
そんなことを望んでいないなど、よくも言えたものだ。
柵に囲まれた、広場にたどり着いた。中は見えない。
「それでは、私はここで」
カーマインが言った。
セピアは頷く。
「あの……セピア様」
セピアは、カーマインを見る。
「い、いえ。何でもありません。それでは」
そう言って、カーマインは歩いていった。
何だろうとは思いながらも、セピアは気持ちを切り替えようと思った。
シエラ達は、宿泊所だろう。
驕りではなく、自分がどうなるか、気になって残っていたのだろうと思う。
それは、気持ち的にありがたいことは事実だった。
父との面会が終われば、そのままシエラ達の旅に、再び同道を願い出ることもできる。
きっと、受け入れてくれるだろうと思う。
深呼吸をしてから、セピアは、ゆっくりと柵の中に入った。
すぐに目に入る。
二十歩ほどの距離で、向こうを向いて立っている、大きな背中。
セピアは、昔、兄達が父と立ち会っていた光景を思い出した。
あの時は、自分には遠い場所だと思っていた。
ここは、その場所なのか。
そして、赤い髪の後頭部が見える。
兄弟の中で、自分だけが父と同じ髪の色だった。
小さい頃は、それがうれしかったんだ。
セピアは、何も言わず、広場の入り口の所で立ったままだった。
ルモグラフも、全く動かない。
少しの間だったのか、長い時間だったのか、そのままの状態が続いた。
やがて、ルモグラフがゆっくりと振り向く。
顎に、刈り揃えられた髭があるのは昔のままだ。歳は、五十に近いはずだが、衰えた様子はまったくない。
目が合った。威圧されるような迫力も、昔のままだと思った。何年ぶりなのだろうか。
その目の視線が、少し下がった。セピアの、手を確認したようだ。
セピアは、いつもの棒を持ってきていた。
ルモグラフも、剣の長さの調練用の棒を持っていた。それを少し上げた。
そして、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
何も言わず、気だけを放っていた。
このまま、やろうということなのだろうか。
セピアは、微妙な怒りを覚えた。
分かっていたとはいえ、いくらなんでも一言もないとは。
負けたくなかった気持ちを思いだしていた。
セピアは、棒を構えた。