馬蹄が遠くから聞こえた。
誰かが本塔に入っていくのを、セピアは練兵場から遠目に確認する。
気にはなったが、訓練を続けた。
ウッドの兵に入隊してから、セピアは様々な部署の配置を短期間で回っていた。
現在は、練兵の教官のようなことをしていた。新人の身でおこがましいという思いはあったが、心気を使える人間は少ないので、別に変ではないと言われれば、断りようもなかった。
始めにカーマインに、特別扱いしないでくれ、と言ったのだが、どう考えても特別扱いだった。セピアに対する口調も、いくら言っても変わりそうもない。
個人的には、様々な体験ができ、ウッドや軍のことを知ることができ、おもしろかったが、周りの兵達に、少し申し訳がないという思いがあった。
ただ、話してみると、昔の自分を知っている兵が何人もいたことが驚きだった。
気にはならないと言ってはくれるが、自分は気になるのだ。
他には、ウッドにいる兵が、昔より少なくなっていると感じた。聞いてみると、実際少なくなっているようだ。
詳しくは分からないが、中央との、いろいろと軋轢があるらしい。
父であるルモグラフは、中央で政争している二人の王子のどちらにつくか、はっきりとした態度を示していない。中正な態度でいても、何かしらの圧力を受けるのだ。
馬鹿らしい、という思いしかない。それでも、そういう人間達が今の国の中心なのである。ウッドの中でも、いろいろ噂を聞けるが、本当に大丈夫かと言いたくなるほど、酷い有様のようだ。
ただ、そんなことを考えていても仕方がないという思いもある。
予定通りの訓練が終わってから、セピアは本塔に向かった。カーマインに会えば、何があったか聞けるだろうと思ったからだ。
入り口に入って、どちらに行こうか考える。
「やあ、セピアじゃないか」
突然、背後から声がして振り返った。
「ライト兄さん!?」
セピアは、思わず声が出た。
「久しぶりだねえ。すっかり、美人さんになっちゃって」
「お久しぶりです」
薄い茶髪の、線が細い男がこちらを向いて、片手を軽く上げていた。
服装は、軍服ではなく私服のようだ。
四人兄弟の中で末子であるセピアに、もっとも歳が近かったのが、このライトだった。一番仲が良かったと思う。何年ぶりだろうかと考えてもすぐに思い浮かばなかった。
「どうして、ここにいるのですか?」
「まあ、いろいろだよ。父上への報告とかね」
「そうですか。兄さんたちは、お元気ですか?」
「相変わらずさ。父上も相変わらずのようだしね」
ライトは、通常、ずっと軽い笑みを浮かべている。昔からこうだった。
「それにしても、安心したよ」
ライトが言った。
「ちゃんと、父上とは仲直りできたんだね」
言われて、少しどきりとする。
「ご迷惑をお掛けしました」
「いやいや、謝らないでくれ。それについては、僕らにも問題があったと思う。二人の状況が分かっていながら、ずっと放置してきたんだから」
「知っておられたのですか」
「うん。三人でどうするべきか話し合ったこともあったんだ。だけど、いい案が出せなくてね。さすがに、あと何年かこのままだったら、直接介入しようって話してたんだけど」
「すいませんでした」
「いやいや、いいって。父上が、ああいう性格だっていうのは、僕らもよく分かっているから。僕の方こそ、ごめん」
少し間ができる。
「今は、どちらに居られるのですか?」
セピアが言うと、ライトは肩を竦めた。
「なんか、中途半端な状態でね。あっちこっち行ったり来たり」
セピアは、首を傾げた。
「まあ、別にいいんだけど」
「あの、さっきの早馬は兄さんが?」
「いや、僕は関係ないよ。ただ、そのお陰で父上との話も途中で切られちゃってね。何があったんだろう?」
すると、カーマインが通路の奥から、数人の兵と話しながら歩いてくるのが見えた。
こちらに気づいた顔をすると、兵達と別れ、近づいてくる。
「ライト様、すみません。お話の途中でしたのに」
「何かあったのですか?」
セピアは堪えきれず聞いた。
「はい……実は、東のオレンジの町から救援依頼がきまして」
「救援依頼?」
「ええ、どうやら、また例の突然変異の獣に襲われているようなのです」
「どうして、ここに救援依頼が来るのですか? 管轄軍がいる所なのでは?」
「対応はしているようなのですが、手を焼いているようです。それに、元々あそこは、管轄軍が少ない所でもありますし」
「少ない? どうしてです」
「あの辺りは、フーカーズ将軍が常駐している所に近いからさ」
ライトが言った。
「だけど、将軍は今、都に呼び出されてるはずだったね。直属の軍も一緒に」
「おそらく、そちらにも早馬は出したのでしょうが、何しろ時間がかかります。それで、こちらにも来たのでしょう」
「それで、父上……あ、いや将軍は、兵を出すのですか?」
「何、今の?」
ライトが、不思議そうにセピアを見る。
「将軍の下に入ることを決めた時に、私的な呼び方は止めようと決めたので」
「ああ……真面目だねえ」
「それが、なかなか難しいのですよ」
カーマインが、話を戻した。
「現在、ウッドには必要最低限の兵士しかおりません。それに将軍は中央に目をつけられていますし、中央の許可なく大規模な兵を動かすと、立場を悪くする可能性がありますので……」
「なんですか!? それは!」
セピアが言うのが分かっていたのか、カーマインはすでに、苦い顔をしていた。
「町が危機だというのに、相変わらず中央は、政争ですか!」
カーマインに言っても仕方がないことは分かっていた。すぐに、気持ちが冷めてくる。
「ごめんなさい、カーマインさんに言っても仕方がないですよね」
「あ、いえ、肝に銘じておきます」
「なんだか、大きくなったね、セピア」
ライトが言った。
「体がって意味じゃなくて、まあ体もそうだけど、精神的に大人になったなあって」
言って、一つ間を置いた。
「じゃあ、僕が行こうかな」
「え?」
「僕は、ここの所属じゃないし。あっちこっち回されてるんだから、今更勝手に動いても、文句を言われる筋合いがないからね」
他の二人が反応をする前に、ライトは言葉を続けた。
「と言っても、一人じゃ心細いし……この三人で行くっていうのはどうだろう? 三人とも個人武力は高いし、少人数だから、父上がどうこう言われることもない。まあ、援軍としては心許ないだろうけど、ないよりは、ましってことで」
「いいですね、やりましょう!」
セピアは同意した。ただ、カーマインを同意させるのは、骨がいるだろうとも思えた。
案の定、カーマインは腕を組んで唸った。
「二人で行くっていったら、カーマインさん絶対止めるでしょ? だから、一緒に来てよ。カーマインさんがいれば、父上も納得しやすいだろうし」
カーマインは、まだ唸っている。
「カーマインさん!」
セピアが言うと、顔を上げた。
「将軍と相談してきます」
街道を三人は馬を駆けていた。
セピアも、騎乗の訓練は一応はやったことがあるが、他の二人の技能とは比べようもなかった。多少遅いセピアに、他の二人が合わせてくれていた。
カーマインの話に、父がどういう反応をしたのかは分からないが、一応承諾したということなのか、三人はすぐに出発することができた。
持っている武器は、槍である。出発直前に、ライトに言われて借りてきたものだった。
半日ほど、南東の方向に馬を駆けさせ、ようやくオレンジの町が見える丘にたどり着いた。
町の規模は、オリーブよりは小さく、ローズよりも大きい。町の東と南には森が広がっている。
町は、静止しているように静かだった。遠目に見て、誰の姿も見えない。
騎乗のまま、町に向かった。
近くまで行って、何人か武装している兵士が立っているのが分かった。
カーマインが、身軽に馬から飛び降り、近づいていく。
「指揮している者はどこだ?」
兵は困惑した表情のまま、一つの建物を指さした。
馬を兵に預け、三人は、その建物に向かった。
中に入ると、すぐ前に大きめの机があり、上には地図と思われる紙が何枚も広がっていた。内装から、普通の民家のようだと思える。兵が四人いて、全員がこちらに目を向けてくる。
「何だ?」
机の奥に立っている、黒髪で口ひげを蓄えた、壮年の男が言った。
「ウッドから来た者だ」
「おお、本当ですか!? ありがたい」
「申し訳ないが、援軍は我々だけなのだが」
男は、眉間に皺を寄せた。
「でも、多少は役に立てると思いますよ」
ライトが言った。
「あ、いえ。今の状態では、来てくれただけでもありがたい。援軍感謝します」
「状況を教えてほしいのだが」
「はい、いるのは何頭かの虎獣です。今はどうやら、町の近くの森に身を潜めているのでしょう。確認しているだけで、五頭はいるようです。すでに兵が八人、重軽傷を負わされております。住民の目撃情報で、我々は確認してはおりませんが、全身真っ黒の虎獣がいたらしいのですが」
「そいつが、例の変異だな」
「おそらくは」
「こちらの状況は?」
ライトが言う。
「ここにいる我が隊の兵は三十五人です。それから、住民の何人かに武装させています。それ以外のオレンジの町の住人は全員、一部の区画に集めて外出禁止にしております。とにかく、身動きができない状態で……」
「他に援軍が来る見込みは?」
「それはちょっと分かりかねます」
「あなたの所で、心気を使える人はいますか?」
「いや、いません」
ライトが、手を顎にあてて、考える仕草をする。
「では、こういうのはどうでしょう。あなた方は、今まで通り住民の守備。僕たち三人は、日のある間だけ森に入って虎獣の退治をしよう。守っているだけでは、いつまでも埒が明かないからね」
「獣狩を近隣から集めるというのも手だと思っていたところなのですが」
「なるほど。だけどそうなるとが資金が問題ですね」
声。突然、外から声がした。
一瞬、間があった後、三人は家から飛び出した。
外に立っている兵が、全員同じ方向を向いている。
「何があった!?」
口ひげの男も出てくる。
「わ、分かりません。確認に行ってきます」
そこで、もう一度声がした。叫び声のようだ。
セピアは、声がした方に走った。
騒がしさが起こっていることが分かる。
道を、何人かがこちらに走っていた。
その人達と、すれ違うと、人々が逃げまどい混乱している状態が見えた。
さらに、その向こう側に、黄色っぽい姿が見える。
虎獣だ。
話を聞いて想像していたよりも大きいと思った。大きさの威圧感がある。
しかしセピアは、真っ直ぐに駆けた。
逡巡している場合ではない。槍を構える。虎獣の側頭部を狙って、心気を込めて突っこんだ。
直前、虎獣が動いたので、狙いが外れて肩の辺りに浅く刺さる。
うなり声を上げて、振り払われた。予想以上に力が強い。
こちらに向かって来ると思ったが、向きを変えた。先には、逃げ遅れたのか、男が地面を這っている。虎獣は、そこに飛び込んだ。
「あっ!」
間に合わない。
しかし虎獣は、そのまま男を飛び越え倒れた。
いつの間にか、男の前に知らない女が立っていた。
「ふうん、最近の女の子は、腕が立つ子が多いのかな」
赤茶色の髪で、両手に小剣を持っている。
「手を貸してあげよっか? かわいい軍人さん」
そう言って、女が笑った。