考えたくもなかった。
グラシアは、自分の騎馬部隊とともに駆けに駆けていた。
ルモグラフから、ある報告が届いたのだ。
ウッドに残していた元部下から、北東の国境を越えた一団があるかもしれないという情報があったという内容だった。規模は五千ほどだという。普通に考えればクロスの軍なのだが、戦闘などが起こった様子が全くなかったのだというのだ。
それとほぼ同時に、グレイからの攻撃連絡が来た。
グラシアは、再び嫌な予感に襲われた。
自分が率いていた歩兵には、本隊に合流するように指示をして、麾下の騎馬隊百だけを連れて、全速力で北に駆け始めたのだ。
予感が外れてくれるように祈っていた。
最悪の場合、グレイの部隊がクロスの軍五千の強襲を受けるかもしれない。そうなった場合、グレイが生き残るためには、部下の歩兵を見捨てて、騎馬隊だけで逃げるしかない。
出発前に、あんなことを言わなければ良かった。
視界が開ける場所に飛び出した。
丘の下が、戦場になっていた。東から西に、追われる軍と追う軍が進んでいて、その後方の辺りに、クロスの軍の歩兵の一部が、不思議な固まりを作っているのが見えた。
その中央に人影が見える。
グラシアは、雄叫びを上げた。
丘を駆け下りる。
間に合わない。
その時、グラシアが駆け下りている丘とは、反対側の丘から駆け下りてくる騎馬隊が見えた。その先頭にいるのは、コバルトだ。
しかし、あちらも間に合いそうにない。
思ったとき、また別の場所から、駆け下りてくる騎馬隊が見えた。
一気に気持ちが冷めていくのを感じた。それと同時に、今まで忘れていた痛みも感じ始める。全身が痛かった。
もう戦えない。
グレイは、前を見た。
知らない男たちが、こちらに槍の穂先を向けている。全員揃いも揃って、同じように怒気を顔に浮かべている。
当たり前というものか。何人、彼らの仲間を殺してきたというのか。その報いを受けるときが来たということなのか。
ここで死ぬのか。
自分の死を想像したことがないわけではない。しかしこれは、どんな想像とも違うような気がする。
こんなものなのだろうか。
こんなものなのだろう。
もう抵抗は無意味だ。
もういい。
グレイは、残った左の剣を放そうと思った。
──グレイ。
名前を呼ばれたような気がした。誰の声だったか思い出せない。
こんな状況で聞こえるのだから、きっと先に逝った誰かの声なのだろう。あの世というものがあるのだと、今ならば信じられる気がする。
「グレイ」
また聞こえた。さっきより少し大きくなっている。
この声は、確か。
分かった瞬間、前方を騎馬隊が横切った。
「グレイ!」
金色の髪が見えた。
「シエラ……」
目の前で、白馬に乗ったシエラが、こちらに手を伸ばしていた。
その姿が、すごく幻想的だと思った。
「グレイ、掴まって!」
グレイは、一瞬呆然としてしまう。
それから、やっと状況が理解できた。
「いけません、殿下! ここは、私が食い止めますので、すぐにお逃げ下さい!」
「グレイ、手を!」
「殿下、行って下さい!」
「手を伸ばして」
「シエラ! 言うことを聞いてくれ!」
言うと、シエラは少し俯いた。それから、顔を上げる。
「いつか助けるって約束した! これ以上私に、約束を果たせなくさせないでくれ」
言った。その言葉が、グレイの心の中を巡った。
「お願いします! グレイさん!」
瞬間の思考。
グレイは思い至った。跳躍して、シエラの騎乗の後ろに飛び乗った。
「前進!」
すぐさま、シエラが剣を振って叫んだ。周りの騎馬隊が動き出す。
グレイは、とにかく思考を働かせた。
まず、この部隊は、どこの部隊だ?
グレイは、周りを見回した。
これは、シエラの護衛部隊だ。
よく見ると、シエラの両脇に、マゼンタとセピアが併走しているのが分かった。
何故、シエラを止めなかった。
しかし、そんなことを考えている場合ではない。とにかく、今は何が何でもシエラを生かして、この包囲を突破することだけを考えなくてはならない。
クロス軍は、先に逃がした自分の部隊に追いすがっている部隊と、自分の周りにいた部隊、その間にいる部隊とで、ばらけていた。シエラは、真っ直ぐ西に向かっているので、先に逃がした自分の部隊と合流しようとしているのだろう。
その間には、クロス軍が散在している。
無事に合流できるか、微妙だと思った。クロス軍が、本気でこの騎馬隊を潰しにかかってこられれば、どうしようもない。
ここにいる全員が命を懸ければ、或いはシエラだけでも、何とか。
グレイは、振り返って後方を見た。
敵が追ってきていると思っていたが、後方の敵軍の様子がおかしかった。何か、さらに後方で争闘の気配がする。
戦っている。
瞬時に、グレイは辺りの地形を思い浮かべた。
「シエラ、南だ!」
「え?」
シエラが、目線をこちらに向ける。
「このまま西に向かって、あの部隊と合流するのは難しい。ここは、一か八か南の隘路に入った方が、助かる可能性が高いはずだ」
「でも、南側にも敵軍が」
「グラシアとコバルトが来てる。あの二人なら、こちらの意図を察して、援護をしてくれるはずだ」
言うと、すぐにシエラは剣を左に振った。
騎馬隊が、進路を南に変える。
南側にいたクロス軍が、こちらに向いて展開をしようとしていたが、すぐに敵軍に動揺が走るのが分かった。
両側から、騎馬隊の攻撃を受けているのだ。
「突破!」
シエラが叫んで、クロス軍に突っ込んだ。
グレイは、とにかく周りに目を凝らしていた。流れ矢一本、シエラに近づけるわけにはいかない。
想像していたよりも容易く、敵の群を突破することができた。そのまま、隘路に飛び込んだ。
「あの二人は!?」
シエラが言う。
「二人とも、騎馬隊だけだ。離脱するだけなら大丈夫だろう」
「そうか」
シエラが、ほっとしたように息を吐いた。
隘路を駆けながら、グレイは、また別の不安が浮かび始めた。
もし、この隘路の出口に、クロス軍が部隊を配置でもしていたら。
グレイは、血の気が引くような思いになった。
何故、そこまで考えなかったのだ、自分は。普通、隘路のような道を通る場合、まず真っ先に考えることだろう。
とにかく、敵がいないことを祈るしかない。
最後の曲がり角を曲がった。
正面に、騎馬の部隊がこちらに向いて展開しているのが見えた。
グレイは、思わず天を仰いだ。
とにかく、こうなったら最初の状況に戻るだけだ。ここにいる全員が、命がけでシエラ只一人を逃がすことに、全力を注ぐしかない。
グレイは、左手の剣を握り直した。
「あっ」
シエラの声が聞こえた。
どうしたと思った直後に、グレイも、それを確認した。
正面にいる騎馬部隊の先頭に、白い髪の男がいるのが見えた。不機嫌そうな表情で、馬上で腕を組んでいる。
グレイは、剣を落としそうになった。
白髪の男が手を挙げると、正面の騎馬隊が一斉に前進を始める。
シエラ軍を素通りすると、後ろから追ってきていた敵軍とぶつかっていた。
どうしてここに。
グレイは思った。
グラシアにしてもコバルトにしても、自分が窮地に陥ったという情報を受け取ってから出発していれば、絶対に間に合わない場所にいたはずだ。つまり、自分が攻撃に向かうという連絡を受け取るやいなや動いたということなのか。そこまで、心配されていたのか。
情けないやら、嬉しいやら。
涙が出そうになった。
どいつもこいつも。
何かが落ちる音がした。
左の剣を落としたのだ。
そういえば、右の剣はどこにいったのだろう。後で、探しに行かなければ。あれがないと、双牙虎の名が名折れてしまう。
「グレイ?」
シエラの声が聞こえる。
シエラが無事で本当に良かった。もしも、自分のせいで何かあったら、ボルドーに顔向けができないところだった。
そして、助けに来てくれて嬉しかった。
お礼を言おう。
そう思い目を開くと、空が見えた。
どこだ、ここは。
自分が地面に仰向けになっているのが分かった。
馬から落ちたのか。
「グレイ!」
また、シエラの声。
先ほどまでの戦いが嘘のような、晴れ渡った空が見えた。こんな空、久しぶりに見た気がする。
青くて清々しい。
それから、目の前が白くなっていった。