狂気の笑みに見えた。
鞭が空気を切る音が唸る。
頭部に向けられた攻撃を、身を屈めて紙一重でかわす。二撃目も、横に飛び退いてかわした。
シーは、すぐに体勢を整えて、スカーレットに向いた。
「へえ、よく避けられたわねえ」
スカーレットが、笑みながら言った。
はっきり言って、偶然だったとしかいいようがなかった。もう一度、同じ場面があれば、おそらく首が飛んでいるだろう。
シーは、一つ息を吐く。
本当に、スカーレットが自分の心動を感知して、位置を特定しているのならば、姿を隠すことは不可能だということだ。
シーは、両手に短剣を構えた。
「そうそう、死に際ぐらい、堂々と戦いなさいな」
そう言い、踏み出してくる。
次の瞬間には、また空気の切る音がした。
速すぎて見えない。
後ろに下がりながら、なんとか避ける。
壁や床が削れる。
右手の剣が、弾き飛ばされる。鞭が頬をかすめる。全身の何カ所かに、浅手を負う。
それでも、攻撃は止まない。
横からの攻撃が来る。
よけきれない。
「ごふっ」
息が漏れた。横腹に、威力の乗った一撃を受けた。
勢いで、床を転がった。
鈍痛が響く。しかし、すぐに顔を上げた。
間に、距離ができている。
シーは、すぐに体を起こし、再び通路に駆け込んだ。
「もう……大人しく私に殺されたらどうなの? それが、カラトを殺したことの贖罪になるとは思わない?」
スカーレットの声がする。
一瞬、本当にそうすべきなのかもしれない、と考えた。
しかし、すぐに思考を切り替えた。自分の罪は、ただ殺されるだけで許されるものではない。
それに、グレイとの約束もある。
通路を、ある程度駆けて止まった。自分の位置は隠しようがない。スカーレットが来る前に、彼女を倒す算段を作り、体勢を整えるしかない。
シーは、自分が所持している、鍼の本数を確認した。
心気医療や人工心気の研究の都合上、心気を込めた鍼を、特定の場所に刺すことで、その人体に影響を及ぼす、つぼがあることが分かった。
自分がスカーレットを倒すためには、相手のつぼに鍼を刺し、一時的に動きを止める。そして、その間に攻撃するしかないだろう。
五本か。
一本を、自分のわき腹に刺した。これで、数分の痛み止めになる。肋の骨が何本か砕けているようだが、動きが制限されることはないはずだ。
それから、しばらく沈思した。どうすれば、あのスカーレットに、鍼を当てることができるか。
一つ浮かぶ。しかし、それは賭けの要素が大きかった。
躊躇うような状況でもないだろう。
シーは、目を開いた。
数分、追われる状況が続いた。
シーは、もう立ち向かうことはせず、逃げ回っていた。何度も、スカーレットの鞭と肉薄したが、すんでのところでかい潜っていた。これらも、全て偶然だったとしかいいようがない。
運を使い切ろうとしているのか。
やがて、一番始めにいた、闘技場に戻ってきていた。
シーは、舞台に上がり、真ん中に立った。
程なくして、スカーレットが通路から姿を現す。
「ようやく、観念したのかしら」
ゆっくりと、歩いてきた。
「スカーレットさん……貴女が、私を殺す動機は、私には弁護の余地もないと思っています。でも、私には貴女を殺す理由がない。貴女を殺したくはないのです」
「何かしら? それ、命乞い?」
ゆっくりと、舞台に上がる。
「自分を殺そうとしている相手を殺すことぐらい、おかしくも何もないでしょう。知らないの? 正当防衛って」
「私のこれも、正当なのでしょうか……」
「あなたが正当だと思えば、正当なんじゃないかしら」
ゆっくりと歩を進めてくる。
「もう言いたいことは終わりかしら?」
言って、鞭を構える。
「はい」
「そう。じゃあ、死になさい」
スカーレットが、足を踏み出した。
それとほぼ同時に、二人の間に、一つの小石が落ちた。
スカーレットが、弾けるように顔を上げた。
次の瞬間、天井を構成していたであろう石板などが、音をたてて崩れ落ちてきた。
次々と、舞台の上に落ちる。
砂埃で、視界が閉ざされた。
ほぼ、計算通りだった。
先ほどまでシーたちは、この舞台がある上の層で戦っていたのだ。スカーレットの攻撃によって、床などが脆くなっていることは分かっていた。
「猪口才な悪足掻きね。こんなことをしても、私には貴女の動きが手に取るように分かるって言わなかったかしら」
砂埃の中から、そう言う声が聞こえる。
シーは、静かに息を吸ってから、鍼を一本構えた。
そして動く。
「なっ!?」
スカーレットの狼狽した声が聞こえた。
砂埃が開けた瞬間、シーはスカーレットの後方に移動していた。すぐさま、針を二本投げた。
スカーレットの鎧の間接部分の狙った所に、二本ともが命中した。
スカーレットの体が、少し捻った状態で、硬直した。
シーは飛び込んだ。
スカーレットの血走った眼だけが、こちらを向く。
あと一秒。
いきなり、スカーレットの拘束が解かれた。
右手の鞭が、動く。
シーは、できればスカーレットを殺さずに、戦闘不能にしようと思っていた。しかし今躊躇えば、こちらが死ぬ。
スカーレットの、横腹が見えていた。
鍼を飛ばした。
間。
シーは、足下が覚束なくなり、前に倒れた。
しばらくして、スカーレットも、ゆっくりと仰向けに倒れた。
シーは、両手を地面につけて、息を整えた。
しばらく呼吸。
息が整うと立ち上がり、倒れているスカーレットに近づいた。
スカーレットは、目を開いていた。
「貴女……いったい何を?」
目線だけが、こちらに向いた。
「さっき、突然貴女の心動が消えたわ」
「あなたは、私の心動で、いつでも私の居場所が分かると慢心していました。そこに、隙ができたのです」
自分の胸を指さす。
「自分で鍼を打って、心臓の動きを一時的に止めたのです」
「まさか……そんなこと」
「私にも、うまくいくか分からない賭けでした。でも、あなたを騙すには、それしか思い浮かばなかった」
スカーレットは、目を丸くして、こちらを見ていた。
それから、少し笑って上を向いた。
「何よ……昔の貴女じゃ考えられないような戦い方をするようになったわね」
そう言う。
「私、後どのくらい話せる時間があるのかしら?」
「普通の人間ならば、一分ほどですが、あなたならば五分ほどかと」
「そう」
シーは、集めた情報のことを思い出していた。
スカーレットはおそらく、カラトに会う前までは、地下闘技場の闘士だったのではないか。正体を隠して、それに参加していたようだ。無敗の女闘士として、人気があったらしい。
それに、カラトが目をつけたということか。
十傑の解散の後、地下闘技の出身であるスカーレットは、戻ってきた身内の中で問題になったようだ。体面が何よりも大事だと考える貴族は珍しくはない。
スカーレットは、家に居場所がなくなった。
それでも、スカーレットは都に残った。
やがて、王女勢の決起が起きる。
そこで焦ったのが王子だった。家族との繋がりが薄くなったスカーレットが、いつ裏切ってもおかしくないと思ったからだ。
そのことを察知したスカーレットが、自らを拘束するよう要求した。
「私はね……身を守る術でもっとも確実なのは、財力や権力よりも、もっと単純な、武力だと考えたの。だから、自分や家族を守るためには、強くなる必要があると思った。地下は、力を鍛えるのに適したところだと思った。だから、参加していたの」
そう言う。
「家に身の置き場がなくなったとしても、私には唯一無二の家族なの。捨てきれないわ。はっきり言って、今にも没落してしまいそうな、二流貴族なのだけれど」
続く。
「私が、王子に逆らいでもすれば、家族に何かされるって目に見えていた。だから、他に選択肢はないわ。私が進んで拘束されるしかないじゃない」
一つ息を吐いた。
「私には、家族と自分。或いは家族と国家、どちらか一つを選べと言われて、どちらかに決めることなど、できない」
そう呟く。
「それでも、カラトなら……カラトなら、笑って自分に着いてこいと言ってくれる……そんな気がしていたの。それさえあれば、私は前に進むことができるって」
間。
「いえ、きっと願望ね。そうあってほしいっていう、私の願い」
シーは、口から言葉が出そうになった。
しかし、堪えた。
また、スカーレットの瞳だけがこちらを見た。
そして、口元が少し綻んだ。
「そういう、何か切っ掛けがないと生き方を変えられない。私のような、古い生き方にしがみつくしかできない人間は、ただ去るべきね」
「私も……いえ、ほとんどの人間が、そうじゃないでしょうか」
「じゃあ、あなたには何か切っ掛けがあったということなのね」
シーは、俯いた。
再び、スカーレットが笑う。
「あなたにはあって、どうして私にはないのかしら……なんて、責任転嫁も甚だしいかもしれないけど、今ぐらい愚痴を言わせてよね……」
声量が弱まる。
「でも最後に、まあまあ楽しかったから……まあ、いいわ……」
それから、スカーレットは、ゆっくりと瞼を閉じた。