9 正二十面体の展開図




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柔原めいなの周りには、ホテルの部屋の、薄べったい、湾曲した背もたれの椅子が何脚か置いてある。たぶん、合板でつくられているのだろう。合板というのは成型肉のように、木屑か何かを固めてつくるように想像するのだが、それとも、薄い板を何枚も重ねてつくるのだろうか?その場合、どのようにしたら湾曲した椅子をつくることができるのか。身近にある、どんな当たり前のものでも、それを一から作れと言われたら、信じられないほど困難であるか、不可能だし、つくりかたさえわからないものがほとんどだ。それが椅子であったなら、一人でつくれる人もいるのだろう。しかし、スマートフォンのようなものを、一体、誰が一人で作れるというのだろう。確実に、誰かが参与しているから、そこにモノがあるというのに、存在するありとあらゆるモノがルーツをもっているというのに、そのようなモノの複雑さを、一人で受けとめられる人はどこにもいないように思われるのだ。
それは、巨大なリゾートホテルであっても同じだ。高層建築のような、人間離れした異様なものが、どのようにしてつくられるのか、不思議でしかたないのだが、それはひたすらに、物理的な、日々の作業の、工程の積みかさねでつくられるようなのである。私のようなものでも、資材を運ぶ軽作業をうけもったなら、それは立派に、高層建築の建設にかかわったといえるはずで、その巨大な質量をもったもののなかには、私の血が一滴はいっているといえるはずだ。しかし現実は、一滴どころか、半分の血がはいった我が子であっても、ほとんど他人行儀な、そらぞらしい、自然の産物のようなものに感じられるだろうと、想像されてしまうのだ。それは、主体的に参画をする態度をもっていない、社会的にいえば、十分な責任をもって望んでいない、ということになるだろう。
思いをめぐらすと、合板の椅子のような感興をそそらない事物もふくめて、このリゾートホテルの内部だけでも、膨大な数のモノが存在していて、それらの一つ一つがサイコロをふって適当につくりだされたような曖昧なものではないとわかるのだ。すべてにルーツがあって、言うなれば、いわくつき、血統書つき、由緒ただしい古代の伝来品のようなものだとわかるのだ。しかし、それらに含まれるすべての要素をいちいち解体し、完璧に自らの手によるもののように作りなおすには、時間も、気力も、能力も、まるで足りていなくて、また、そのような病的で糜爛な態度は常識が許さないように思われる。そして、すべての事物について、事象について、なにひとつわからない現状の要因を、自身の怠惰のように思って、反省もするのだが、閉鎖的な思考の混沌から抜け出て、ホテルの部屋に戻って、その場を支配する空気にたちかえれば、柔原めいなは、私の悩んでいたような事柄には、つゆほどの関心もはらっていないようにみられるのだった。
まだ、彼女が初めて部屋に入ってから十秒ほどしか経っていなくて、さきほど「わーすごい」の声を聞いたばかりのはずだった。その間に、この小説の第二の視点ともいうべきものは時間を先回りし、窓の外の景色への認識を新しくして、不当におとしめてしまった、この部屋の評価をあらためることになる。しかし、この段階では、第一の視点はまだ部屋の中にとどまっていて、青と白の二色ですっきりと中央をわけられた枕に、感覚的な興味をしめしている。最初、この部屋の評価をほんの少しだけ底上げしたのはその枕だった。
部屋に入って、時計の針の角度でいうと四十分ほど(時間ではない)室内をまわった柔原めいなは、冒頭の湾曲した背もたれをもつ椅子の近くに立って、何者かに向かって「だめ座んない(で)、私そこじゃない(から(?))」と言った。その方向には姉がいるようだった。直前に「わー」という感嘆の声が聞こえたのだが、姉の声色のように思われたのだ。柔原めいなの姉については、そのイメージは、まだほとんど記述されていない。姉の姿をみることはできなくて、しゃべっている内容も、ほとんどは当たりさわりのない質問のようなものばかりだったからだ。ただ、姉の声色については、少しだけハスキーで、柔原めいなよりも一段階高く、それがそのまま二人の身長差になっているように想像された。柔原めいなの顔立ちが丸っこいせいか、その声も丸っこく感じられるのだが、比較すると、姉の声はもっと縦に伸ばしたようにシャープだった。それは後になって淫猥な比ゆで例えられることになる。
柔原めいなが発した、「だめ座んない、私そこじゃない」がどういう意味なのか、いまだにハッキリはしていない。早口で、発音も不明瞭だったので、「座んない(で)、私そこじゃない(から(?))」、というふうに、言ったのか言わないのか、あいまいな部分はカッコのなかに入っている。これを解釈することは苦しい。状況を総合的にかえりみて、(というふうほどに見通しのきく状況の判断材料はそろっていないのだが)、推測することしかできない。おそらく、柔原めいなの周りにおいてあるいくつかの椅子、そのうちの一つに姉が座ろうとしたのではないか、と最初は考えた。とっさにはなった言葉だったので混乱してしまったが、柔原めいなは「その椅子に座らないで、私の椅子だから」と言いたかったのではないか、と思ったのだ。しかし、部屋に入ったばかりの段階で、ただ並べてあるだけの無個性な椅子に、一時的にしろ、所有権が発生するとは思えなかった。そこで、もう一つ「座る」行為が可能なものに思いいたった。彼女が視線を向けている方角、姉が立っていると想像されるすぐ後ろには、ちょうどベッドが置いてあることに気づいたのだ。
見えないヴィジョンを思い浮かべる。時々、おもに趣味的な問題で、光沢をもったベッドのシーツの肌触りなど、そこだけ過度に描写してしまって、ほかのわりあい非装飾的な描写と均一にならなくなってしまう失敗を予期するのだが、例えば、今、ベッドに座りかけた姉のブーツの編み紐の、感覚的快楽のきざしのようなものが、その危険性をはらむものだ。なので、そういった細部への集中は足早にとおりすぎることにする。あるいは、私の感性が衰えてしまったので、あまりに感覚的すぎると、のぼせたようになってしまうせいかもしれない。従って、視界の外でベッドに腰かけようとした姉のイメージは、漠然とした影のようなものにとどめておく。姉を制止した柔原めいなの意図は、次のようなものだったのではないだろうか。例え、ホテルのような仮の宿にすぎなくても、ベッドのような、シーツと肌を触れあわせて、無防備な眠りの一晩をすごすものは、自分の使うものと、他人の使うものが区別されて当然だ。宿泊客がホテルで一晩をすごしたからといって、次の宿泊客のために、逐一、カーテンや椅子を取り替えることはありえない。しかし、(ベッドごと洗うわけにはいかないので、)シーツや、枕カバーは必ず新しいものに変えられて、すでに使用されたものは洗濯される。なぜ、そうするかというと、肌を触れあわせて眠るという行為によって、体臭が染みついたり、よだれのような体液が付着したり、髪の毛やふけが落ちることがあるからだ。そのような使用済のベッドを、シーツや枕カバーを取りかえることをせずに、使いまわすことには生理的な抵抗を感じるのである。
それは、他人同士であったら当然の話なのだが、例え、家族同士であっても、そのように感じることは多くあるようなのだ。子供の場合、その辺りの意識はもっと大らかなのではないか?と、感じるのだが、逆に、まだ幼い兄弟同士が、相手が口をつけたスプーンを使うことを極端に嫌がったり、互いに、相手の枕を使うことを嫌がるようなことがある。個人差はあるが、子供はそういう「けがれ」の意識に敏感であって、ある年代にあっては、その潔癖さは大人以上にもなりうる。柔原めいなと姉の間柄がどのようなものかは想像するしかないが、私としてはもっと大らかな姉妹であってほしいと願うのだが、この場合は、ファンタジーを捨てて、考えられる現実性を受けいれていかなければならない。つまり、椅子とはちがって、仮宿のベッドには一時的にしても占有権が発生するのだ。部屋にはいったばかりの状態にあっては、「まだ誰のものでもない」と同時に、「いずれ誰かのものになる」ベッドなのである。その状態でいち早くベッドに座ってしまうことは、いわば先取りであって、窓際がいいとか、洗面所が近いほうがいいとか、議論の余地もなく、そのベッドは姉の専用ベッドに落ち着いてしまうかもしれない。あるいは、いずれベッドの占有権が正式に確定した時に、そのベッドが柔原めいなのベッドになったとする。その時、彼女が踏むのはもはや処女雪ではなく、先んじて姉が座ったことで乱れたシーツ、けがされたベッドになってしまっているのだ。
そのような事態を危惧したから、柔原めいなは少しあわてた早口で「だめそこ座んないで」と言ったのだろう。「私そこじゃない」の発言には混乱がみられるのだが、「私のベッドになるかもしれないのに!」、という焦りの感情がまず「私」という単語の形になってあらわれたと考えられる。父親や母親も含めた、家族間のベッド選びの公正さはさておいて、「私!」という感情があらわれたのだ。同時に、そのようなことはまだ何も確定していないので、「私のベッドだから」とは続けられずに、「姉のベッドはそこじゃない(まだ決まってない)」という意味で言った「そこじゃない」が、先の「私」と混ざってしまって、「だめ座んない(で)、私そこじゃない(から(?))」になったのだろう。しかし、それは、早口で、声の大きさもそれほどではなく、発音も不明瞭、とがめる調子もまったくなく、あまりにも一瞬の発言であって、このような推測の展開は、正六面体を展開したら、なぜか出来てしまった正二十面体の展開図のようなものである。
それとは別に、レースのカーテンの向こう側がすっかり灰色になっていた。曇天のもと、くすんだ自然光しか入らないホテルの室内には、天気が良ければ見られただろう、光と影の演出効果は何もなかった。何らはなやいだものも、うきうきするものも感じられなくて、がっかりしている私の心情とは無関係に、柔原めいなは何をそんなに楽しんでいるのか。何が、前述の「わーすごい」の感情をひきおこしたのか。これは、雨というものを憂鬱なものとしてとらえている人が、雨音の響きや、水滴のうるおった叙情を、室内にこもりながら感じることを楽しむ人の心情を理解できないような、それと同じ構図なのだろう。もし物事の外観的な側面にとどまらずに、彼女の内面にはいっていけるなら、どんよりした曇り空も、同じようにうす暗い室内も、色調のメリハリのなさも、たちどころに吹き飛ぶのかもしれない。そうなったら、沖縄の地方色も旅情も感じさせない、無個性な部屋のようなマイナスイメージも、もっと別の、心をおどらせるイメージに変わるのだろう。もちろん、そうなのだろう。そうでなければ、柔原めいなが、うきうきした態度をみせることも、脳神経が活性化していることをあらわす、早口、高音、そんなしゃべりかたをみせることもないはずだからだ。
私はほとんどの場合、彼女の内面にはいっていくことができずに、ただ、推測や分析という安易な方法で、外側からのアプローチをこころみるのだが、それは惑星のずっと遠くをぐるぐるまわるだけの小さな衛星の運動のようだった。本当に価値あるものは純粋に一人称的に思える。例え、どんなに正しい、妥当な分析であってもだ。いや、実際は、「正しいからこそ、それは間違っている」のだろう。内側からみた視点と外側からみた視点では、同じものが、表と裏でまったく異なっているように、世界がひっくりかえってしまうのである。
おそらく、柔原めいなは、特定のものがもつ固有の印象に感動しているわけではないのだろう。このホテルの部屋の印象にしても、内装の好ましさ、雰囲気の安らかさ、そういう部屋のもつ特徴的なものに感動しているわけではない。例えば、子供が、念願だった自分だけの部屋をあたえられたり、机をあたえられたりする。あるいは、友達と一緒に、自分たちだけの秘密基地となる場所を発見した時のように、彼女は、自由にできる「わたしの空間」を得たことに、喜びを感じているのではないだろうか。これは、いわゆる旅行好きの人にも共通することかもしれない。旅行先の土地で何を見たとか、何を感じとったとか、それ以前に、見知らぬ土地、日常とはちがう気分、そういうものを体験できるから、旅行が好きだと感じるようなものだ。それは、中身が重要なのではなくて、もっと状況的なものだ。そういうふうに考えれば、柔原めいなの喜びが、少しはわかるものになるように思えた。私は、印象の内実にこだわるあまり、そういうシンプルな、形からはいる喜びに共感しづらいのである。彼女は、このように快適な居住空間をもった、清潔で好ましい秘密基地を手にいれて、ここを拠点にして、今まで食べたことのないような、沖縄ならではの珍しい、おいしい食べ物を食べに、レストランに乗りだしたりするのだろう。そういう楽しみ、新しい出来事の連続が、このホテルの部屋を中心にしてとりまいているように、今後の短い滞在時間を埋めつくすようにして、待っているように感じている。だからこそ、私が感じるような風景の美、旅情の欠乏への失望など、問題にしていないのだ。