10 あ、自分がうつってる




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混乱した理性と感覚は、どのような世界をうみだすか。それは追憶の最中にひきおこされたものなのだが、その時、私は、過去へとさかのぼって、ホテルの部屋から、洗面所のほうへとはいっていく柔原めいなの後を追っていた。(この小説中で使われる「今」という表現は錯綜していて、それは、体感を強調するための、便宜的な言いかたにすぎない。)追憶の視点には、その洗面所に、ロココ調の華美な金の額縁をもつ鏡がかかっているようにみえた。つややかにみがかれた洗面台には、シャネルの香水のような、半透明の黄色いキューブ型の鉱石のような、小さなハンドソープが置いてあるように想像された。やさしい室内照明をおびて、全体はだいだい色のもやでけむっていた。しかし、そんな高級ホテルのようなイメージは、「簡素で機能的である」と説明された、部屋の印象と矛盾してしまうのではないか?したがって、感じられる心像は、理性と感覚の酩酊がうみだした虚像で、本物はもっと、しらじらしい蛍光灯に照らされた、赤裸々な空間と物象であるに違いないと思われた。そして、より現実的な視点のほうに、柔原めいなが読者に、風呂場を紹介しようとしている世界に立ち返っていこうとしたのだが、そこでふりかえると、部屋の印象さえも変わっていて、室内は奇妙にひろびろとしていて、それに比して小さすぎるベッドが隅っこに置かれた、天井と壁、壁と床を区切るラインがたわむようにゆがんだ、象徴派の絵画のようにみられるのだった。
また、本来なら(追憶の内容を読者に提示するつもりで)、「居住空間における省略可能なものについて」の考察がさしはさまれて、柔原めいなが紹介しようとしている洗面所、風呂場の構造のようなものを、咀嚼して、明るみに出す予定だった。手元にあった荒書きには、「一般家庭において、省略されることが多いのは脱衣所だ。」「低めの予算で不動産をまわる時には、即死するほど致命的ではないが、実際に生活するにあたっては無視できない欠点が、いくつも見られるのである。」「省略を突きつめれば、居住空間とトイレが一体になった囚人の部屋に、あるいは家畜小屋になるのだろう。」というようなことが書かれていた。理性的に混沌とした視界には、内容よりも、一つ一つの文字が、同じサイズの透明の四角い枠のなかにおさまっている、という、その見えない枠ばかりが強調されてみえた。したがって、それらの内容に分けいることはあきらめて、「ここが、お風呂場に、なりまーす」と言っている、柔原めいなの背中についていくことにしたのだ。しかし、柔原めいなの、「ここ、が、お風、呂場に、なり、まーす」の声の、一つ一つのイントネーションに、甘いような、ピンク色のようなものが感じられて、それは、想像上で、一列にならんだアポロチョコのように連想された。さらに、たった今、連想されたばかりのアポロチョコが、たんに声の印象としてではなくて、物理的に、視覚的に、洗面台のうえに置かれているように錯覚されたのだ。そのような、混乱した感覚に侵食されすぎた状態では、とらえるべき現実は大きくゆがめられてしまうように思われた。ものを真っ直ぐにみることなど、しょせんはできないのかもしれないが、少なくとも、追想しようと試みた世界は、そのように霧のかかったマーブル状の世界とは、異なっていると理解された。だから、例え、腹痛をおぼえていても、試験をこなそうとする学生のように、たえられない痛みであったなら、挙手をして、試験官にその旨を伝えてから、席を立つだけの公共性をもった学生のように、ふるまうべきだと思ったのだ。夢のようなものも、たしかに存在している。だが、同時に、現実の「ようなもの」もたしかに存在しているのである。そこにはもっと、不如意なものがある。
私は再び、柔原めいなのいる世界に立ち戻ることにする。彼女は「ここ・・・」と言いながら、風呂場の内部へと目を向けた。ここで読者は、初めて彼女の視界を体験することができる。まず、風呂場の意外な広さに驚かなくてはならない。それには、彼女の視点が通常より低いことも関係しているのかもしれない。少し、天井が高くみえるように感じられるのだ。すわってからだを洗うほど低い位置に、金属製の手すりがついている。床には小さめの、白黒のタイルが敷きつめられているようにみえた。「居住空間における省略可能なものについて」には、「このホテルの部屋では、脱衣所のスペースは省略されている」、というふうに書かれていたのだが、浴室内は奥行きをもって、二重の構造をもっているように感じられた。奥か手前の、どちらかが(当然、手前だろう)脱衣所であるようにも思えたのだが、柔原めいなの視線は、そのようなことに注目しなかったので、はっきりはしなかった。もしかすると、浴室内の真正面の壁にとりつけられた、縦長の鏡が、茶室の掛け軸をかけるスペースのようなものをはさんで、奥まった空間に設置されているために、全体が二重の奥行きをもっているように錯覚されたのかもしれなかった。風呂場に明かりはついていない。さきほどの混沌とした追想の夢のなかで、だいだい色の室内照明の幻影をみたように、柔原めいなの背後の洗面所には明かりがついていた。なので、心地よい程度にうす暗くはあるが、彼女の目に、浴室の内装ははっきりとみえている。彼女が「ここ・・・」と言いかけた時に、彼女の視線はゆれながら浴室にフェードインしていったのだが、その瞬間に、浴室の奥にとりつけられた縦長の鏡に、自分のすがたがうつっていることに気づいたのだ。ここで彼女のとった行動が、カツをはさんだサンドウィッチのカツの部分のように、前後の描写にはさまれた、この場面の中央部分となる。
ここで、今、単純なことに気づいた。私は、その単純さに少し笑ってしまった。鏡のなかの自分をみて、柔原めいなは、「ここ・・・あ、自分がうつってる」、と言ったのだが、それを思い浮かべる私の目には、また、別のものがみえたのだ。私が、浴室が二重の奥行きをもっているように感じられた、と言ったのは、複雑な事情などなにもなくて、ただ、浴室の向こうに、鏡のなかの、「柔原めいなを含む空間」をみてそう言っただけだったのだ。簡単な話ではあるが、もし、このことが意識されなかったのなら、私の中の浴室の印象は、いつまでも、寄木細工の多重構造的な、不可解な二重構造のイメージを伴いつづけたのだろう。さて、「あ、自分がうつってる」と言った柔原めいなは、つづいて、彼女らしい挙動にでた。その挙動に驚きを感じるとか、新奇さを感じるということはまったくなくて、むしろ、またか、といった感じに、げんなりするものだった。彼女は鏡にうつった自分に向かって、「ピョコン」という擬音を立てるような動きで、ピースサインを作って、次に、片足を折りまげながら持ちあげて、からだを少し傾けるようにして、ポーズをつくってみせたのだ。それは、まるで凡俗のきわみのような反応に感じられた。読者に部屋の紹介をする柔原めいなが、鏡のなかに自分のすがたを認めた時に、思わずピースサインをつくる確率を数字であらわしたとしたら、相当な高確率になるのではないか。そうも思われた。しかし、これはまったく罪のない、可愛らしい挙動といわれるべきで、彼女の行為のあまりの凡庸さに、悲しみの硫酸の涙をながした、私の心情は理解されないだろう。しかし、ふと反省の気持ちが起こって、そのように狭量な拒否反応にとどまっていてはいけないと考えた。かといって、彼女の平凡な可愛らしさに和んだとか、そういう理由でこの場面をとりあげたわけではない。柔原めいなの、ほとんど取り繕いようのない、芸術化されない、平凡な人生のきわみのような挙動をみて、まず気分が悪くなったが、その後に、逆に感動がわきおこってきたのだ。
私はこう思った。ここにはある。解釈されない、芸術化されない、本当の人生というものが。それが、あまりにも洗練されていない状態にあるので、芸術になれきった心には、凡俗にみえるだけなのだろう、と。私はたぶん、感覚的な質を審査する気持ちになれすぎて、色々なものを遮断しているようなのだ。ここまで、柔原めいなのほとんど意味のないように思われる挙動を追ってきて、それがいかに芸術作品と異なっているか、感じたのだ。十分には、意識されてこなかったことなのだが、例え、どんなに自然のもつあいまいさを取り込んだようにみえる作品であっても、それがつくられたものである以上、そこには意図がまとわりついている、ということを、あらためて感じたのである。柔原めいなの挙動をみて、不快感をおぼえたのは、そこに、個性的なもの、優れたものが感じられなかったからなのだろうが、同時に、感動をおぼえたのは、そこに、芸術的なものとは、あまりにもかけはなれたもの、「どのようにでも解釈を許し、どのような解釈も許さないもの」を感じたからだ。それは、悪く言えばノイズのごみ溜めと、良く言えばノイズの宇宙と、そして、誤解をまねきやすい、この言葉を、今、使いたいのだが、本当の「現実」のように感じたのだった。
柔原めいなは、浴室に鏡があることなど、まるで予測していなかっただろう。そういう意味で、不如意であるといえた。現在は、ホテルに到着して間もない、午後三時くらいに思われるのだが、この浴室は、夜になれば彼女が使うことになるのだろうと予想される。見えたのは空間にすぎないのだが、時間を先取りして考えると、全裸で目をつむって頭を洗う彼女を、うっかり見てしまったかのように思われた。しかし、前述のポーズを取った直後、「ンーフン」というような、笑い声を発する柔原めいなからは、そのように先んじた羞恥心は一切感じられなかった。もちろん、彼女の入浴の場面にはいっていくことはできない。それは今後の場面でも、未来永劫、ありえないことだろう。したがって、想像することしかできないのだが、私の貧弱な想像力では、考えだせることは限られている。例えば、彼女はボディーソープの香料がレモンであることを指摘するのだが、「レモンだ」とは言わないで、もっと婉曲に、わかりにくい形で言うのである。そのあいまいさが、私の頭のなかにある、黄色いシャボン玉のようなものを刺激して、私は、その感覚にふくまれる湯気の粒子のようなものを、さんざん楽しんだ挙句、最終的にそれは弾けて、レモンになるというようなことだ。それは、イエローな感覚を、平べったい筆でもって、眼前にさっと塗りつけていくようなのだが、悲しいことに、たんなる概略的な感覚の想像だった。チェスの問題のように、一手一手つきつめていけるような、手応えのある細部は何もなかった。私の想像力は、このような時にこそ、現実的であれ、不如意であれ、と願う。つまり、想像の死角からふいに飛びこんでくる、凡庸であって、奇をてらわないものでありながら、私が決して想像しなかったような、固有のものであってほしいと願うのだ。