11② どっち?




-11-②

この小説は「私」と「柔原めいな」の階級闘争の歴史のような側面もあるのだが、主導権をにぎる私が、一方的に彼女をなぶるような真似はしてはいけないのだと思う。この場面において、いつもの脱線の思考のなかで、「人はなぜ老いていくのか、なぜ減退していくのか。」、という問題について考えていた。それはこの小説のテーマの一つでもあって、生物的な必然でもありながら、人が年を経て、まるで経過したその時がなかったかのように成長しないということは、怠惰な、あってはならないことのように思えたのだ。そのような平行線、あるいは一方的な減退とはちがっているが、柔原めいなもまた、今まさに一つの絶頂期を抜け出しつつあった。原子が崩壊するように、細胞が崩壊しはじめ、もはや一刻の猶予もないような状況にあった。私はながらく、彼女のなかに「重要なもの」を見出そうとつとめていたのだが、(そのために勘違いをおこすこともおおいのだ。)、おそらく、彼女のなかにある「重要なもの」とは、言葉がこんがらがってしまうのだが、「重要なものと重要でないものの区別が十分についていない」状態にあるのだろう。そう思われた。しかし、これは、財宝をめざして宝島に行ったはいいが、「財宝などに執着することは愚かである」、という価値観をもちかえってくるような、寓話的な意味のわからなさだった。
そのような話をうらづけるように、車中では柔原めいなが「パイナップルぅ・・・は、好きといえば好きだけどぉ、嫌いといえば嫌い、かな」、という曖昧な返答をしているところだった。なるほど、たしかに。私は、先日ある女性の好みについて聞いたのだが、その女性の「嫌いな色、くすんだ色、中途半端な色!」という言いかたは、柔原めいなのパイナップル答弁とはちがって、発言のまえから完全に答えの用意された、意識のさきばしった感じをうけた。まるで、答えの内容にさきんじて、その女性の「私、こういう女なんです!」という意識が、私に体当たりをしかけてくるようだった。しかし、おそらく、その女性についてここに長々と書いたのなら、漠然とした反感と嫌悪のようなものが、文中からにじみでてしまうだろう。私は、ノイズを閑却しないという姿勢をもちながらも、同時に、もはや、川端康成のように、「美しさと哀しみだけを」うたっていきたいのであって、最低限、愛情をもとうとつとめるだけの忍耐の足りない題材については、極力滅却しようと心がけるのだった。
一方、赤い標識を車窓に点滅させたあと、車はだだっぴろい平野のなかをつきすすんでいるところだった。最初(柔原めいなが車内で空腹をうったえる場面)は、天気の悪さばかりに目のいった沖縄の風景も、徐々に、味わいと優しさをましていったようだった。少し話は飛ぶが、例えば、「ツンデレ」という言葉が、なぜ安易で、なぜそのような言葉は時代とともにふるびていくのか。それは、人の頭のなかにすでに積みあげられた印象のつらなりを、象徴的なキーワードによって刺激し、引きだしているにすぎないからだと思われる。だから、人々のなかに積みあげられた前提が変化したとき、滅したときに、その言葉の機能も変化し、滅してしまうのだ。それとおなじように、私が最初に感じた曇り空への失望、景色がくすんでみえたことも、頭のなかに積みあげられた体験の(印象の)蓄積を、「曇り空」というキーワードから引きだしてみせたにすぎなかったように思えた。印象派画家のように、光と影の、色彩の、無邪気な感覚をもつ私には、(前述の女性のように)くすんだ景色の美というものは経験的に理解できなかったのだ。おそらく、私は、「柔原めいなの沖縄旅行における、特定の場面の特定の瞬間の曇り空」、そこに含まれる固有のものなどは、はなから問題にしていなくて、ただ、頭のなかにすでにできあがった、既成の曇り空をみていたのだろう。引き出すということは、素早いということであり、エネルギーのロスが少ないという意味で、楽でもあるのだが、必ずしも幸福であったり、物事がうまくいくとはかぎらない。事実、曇り空への最初の印象は、私を陰鬱にするだけだっただろう。しかし、それは間逆の態度を、意思的な集中の、忍耐の態度をつづけることによって、「持続」によって徐々にあらためられていった。より正確な言いかたをするなら、「上書き」されていったようだった。感受性の絶頂期にあった頃のように、一をみて百を受けとることができない私は、そうやって、時間をかけて、少しずつ百を吸収していくほかないのだった。もはや、曇り空のしたにあっても、風景の荒涼、閑散というわびしさはうすれて、ふかい茂みのなかや、まばらな建物には、「都会よりも空間が広くとられている」という好感情が、そして、心象にふみこんでいったゆえの、なつかしさがみわけられるようになっていたのだ。
車内では、柔原めいなが、さきほどからひきつづき、手のうえで帽子をもてあそんでいた。漠然と「もてあそんでいた」と言うのではなく、もっと注意して観察したなら、帽子のうごきは、土星の輪の軌道のようなものを、いくつもななめに重ねているようにみえた。そのすばやいうごきの軌跡は、内部に円や楕円や星の型もつ、こった仕掛けの、稼動型の定規をつかって楕円の内側をなぞったときに、楕円の角度が少しずつ移動して、線のかさなりあった複雑な模様をえがくのに似ていた。柔原めいなは「好きといえば好きぃー・・・」の「ぃー」の部分で少し言葉をひっぱったのだが、そのときの彼女の表情には、極端にシャイな少年が、人前でうれしさを押さえこもうとして、なおもぽろぽろと、ポケットのなかに詰めこんだビー玉が転がりでてしまうような、微笑ましさがかいまみられた。比ゆとして「少年」をもちいたというよりも、いつかどこかの、少年の顔にみいだした表情を、彼女の表情にみるような思いがしたのだ。性別間をとびこえた魅力をもつその表情は、彼女が直前にまわしていたキャップが、野球帽に似ていることに無意識的に影響されているのかもしれない。あるいは、本当に少年のような表情をしていて、それが、キャップによって増幅されているのかもしれなかった。「性別」、「ユニセックス」、そのような問題は、しばしば私の頭に浮かぶ。感受性のすぐれた人々は、男性のなかに女性を発見し、女性のなかに男性を発見し、あるいはもっと、抽象的に純化された人間像をもつように思うのだが、私はもっと、性器やホルモンのような動物的な力に支配されていて、かつそれが、名前や役職のような、あたえられた仮面にしたがって演技をおこなっている、紙一重のものにも感じられた。また、少しだけ場面の時間は巻き戻るが、パイナップルの木について話す、直前の会話の柔原めいなの表情には、想像される彼女の成長の延長線上ともことなって感じられる、黒いあくのつよい墨を、口元や目元に横方向に、はみだすようにながくひいた、大人の女性の表情がかさなっているようにみえる瞬間があった。すでに把握された柔原めいなの個性と一体化してみえる、みなれた表情とはちがって、彼女の表情が曖昧さをおびるときには、そのように、彼女らしさの範疇におさまりきらない、少年の顔や、大人の顔が、彼女の顔面の骨格を借りて出現するようだった。しかし、それが彼女の顔をのっとって支配するようなことはなく、せりあがり、しずみこむ、港の防波堤のなみなみした海面上におこる変化のように、もはや光とも影とも判別されない、ただ黒と濃緑の色彩の混じりあいのように、かすめていくだけなのだった。人間の持続的な(連続してはっきりととらえられる)豹変に対しては、「憑依」という言葉がつかわれて、問題にもされるのだが、柔原めいなの表情には、もっと瞬間的に、微妙な憑依がおこっているようにも思われた。それは、どこともしれず、誰ともしれない特定の人物の特定の瞬間へと、異次元的に時空のパイプをとおしてつながっているようにも思われた。というよりも、パイプをとおしてこちら側に、一方的に「送りこまれてきた」ように思えたのだ。混線した無線の電波にまぎれた、遠くかすかな、意味不明瞭な会話のように、柔原めいなの一瞬の表情にまぎれた特定の人物は、例え、その本体が時空的な幅とひろがりをもつ現実の人物として存在していても、柔原めいなの表情にあらわれた人物は、バラバラの破片の一片のようなもので、「断片的である」という理由から、あるいは、距離的な深遠さから、ずっと幻想の存在に思われたのだ。
この場面では、「車窓」を強調するかしないかで、景色のとらえかたがおおきく違ってくるように思われる。たんに風景というとき、意識は車外の空中から、土地の全景を俯瞰してみるようにも思われる。すると、いくつにも重なった箱(土地、区画、建物、車、人)の観念と、土地に寄生し、宿主と運命を一つにする、小さな微生物である柔原めいなが見下ろされるようだった。しかし、その大雑把なもののみかたは、彼女を中心とする小説の意図からは少し外れていて、まずなによりも、等身大であって、限界と制約のおおい彼女の立場にたって、「車窓から」景色を眺めることが自然に思えたのだった。
柔原めいなの表情がもつ、日本語の言語的な役割を崩壊させるような色合いとおなじように、この場面のやすらかさの重要な一端をになう、車窓をはしる茂みのつらなりも、今、きっぱり「緑」と言いあらわし、立体の絵本を見開くように、言葉が色となって視覚にあらわれるようなものではなく、緑に黄色をまぜ、曇り空の拡散した光で、上から白っぽく飛ばしたような色をしていた。また、それにくわえて、幾層にもかさなった乱脈的な盛りあがりのなかには、細かい枝が、ながい枯れ草のようなうすい褐色のものが、混ざりあっていた。視野狭窄的にはしっていく茂みのながれを、畑のようにとらえ、さとうきびと結びつけようと連想を急いだのだが、もっと持続的な目で観察すれば、それは畑ではなく、あまった土地に植物が自由に生いしげっているように思われた。赤い標識にはさまれた道も、そのように盛りあがった茂みのなかをわけいって、少しカーブを描くように奥へとつづいていた。また、そのような、ど田舎の光景がえんえんとつづいているわけではなくて、茂みのつらなりが途切れるときには、まばらではあったが、近代的な建物がいくつもみられるのだった。背後に駅をもつように想像された場所をはしるときには、密度は低かったが、(やすらかさに不調和を起こした)車の販売所に、交差点もみえ、そこには様々な緑色をした木々がおおく植えられていた。やがて、茂みがながながとつづくようになり、列車の旅、高速道路の旅のような瞑想的な気分にさそわれたが、茂みはとぎれ、もっとひらけた場所に出たのだった。対向車のすれちがいも視覚的に確認されてはいたが、あまりにも一瞬であるために、ほとんどサブリミナルのようにしか感じられなかった。このような景色の描写は、本来なら、柔原めいなの挙動とセットで進行している。したがって、読者が感じるような、CMだけをながしつづけるローカルTVのような退屈さを、私は感じずに済んでいる。茂みはとりはらわれて、視界はおおきくひろがって、横にながい市役所のような建物が車窓を這うようにとおりすぎていった。あいだをおいて、(換気扇の奥からきこえる風のような走行音がはさまれて)、田んぼをへだてて向こう側にちいさく、統一性のないデザインの民家がみえていた。それらは、赤や黄色の自分勝手な屋根をもっており、高さもバラバラで、窓のかたちが丸っこくなっていたり、住民の夢想的な要望を反映させているようだった。また、ずっとちかく、民家と車窓をへだてる空間をとびこえてきたように、半円形のコロッセオのような建物がとおりすぎていった。それは、周囲からあきらかに浮いた形状の違和をもっていて、まるで、ある写真(この場合の景色)のなかに、べつの写真からきりぬいた距離のことなる部分(コロッセオ)を合成したかのように、遠近を無視して急に近づいてきたようだった。画素数を無視して強引に拡大したために、点がはっきりと見えるほど、粒子の荒いドットで描かれているようにもみえた。それは、車窓のなかの視点に円運動的なうごきで近づいてきたのだが、まず建物の曲面の外周の端からあらわれて、ルーレットの玉がまわりこむようにして、半円のおわり(平らな面で)でそのうごきはぷつりと途切れたのだった。そのとき、奇妙な建物の全体像がみえたのだが、それは、野原に立てられた壮大なモニュメントのようであって、風からなにかを守っているように、外殻の壁だけが存在し、なおかつ、内側にむかってかしいでいたのだ。それはまるで、チャリオット(戦闘馬車)の前面にとりつけられた、湾曲した防護盾のように感じられたのだった。
前回、箇条書きされた景色の内実は以上なのだが、右側のサイドガラスを背にしている柔原めいなにはまったく見えていないものだ。彼女の目には、姉をへだてて、左側のサイドガラスがみえているはずだった。もし、そこに世界の終末がみえていたとしても、あるいは夢のような海岸線がみえていたとしても、残念ながら、私にはまったく感知できないことなのである。私は、柔原めいなを、その背景を、一方向から眺めるようにして、局所的な視点で、目にみえるものを解析しようとつとめてきたのだが、今にいたるまでふりしぼってきたその視点を、彼女の内面に、「彼女の目からみた世界」にあてはめて想像してみると、急に視界がぐらりと反転するように感じられるのだった。今まで、考慮の検索候補にもはいらなかったものが、彼女の視界にはあふれているのだろう。もしかすると、それは決してのぞいてはならない舞台裏のようなものかもしれなかった。例えば、今まで知人だと思っていた人の、皮をむかれたアンドロイドのすがた、あるいは、素早く、予想外にふりかえってしまったために、真っ白な穴があいてしまった世界のように、フロントシートの背もたれのむこう、黒い影のような肩と後頭部をもつ両親、かたわら(左側)には、顔面を墨で塗りつぶされ、表情のみえない姉、そして、窓の外にもゆがんだ夢のような奇怪な世界がみえているのではないかと思われたのだ。こちら側からは、まったく平和にみえた彼女の世界にも、そのような裏側があるのではないかと、想像をはたらかせて恐怖してしまったのだった。もちろん、それは馬鹿げているとわかる想像にすぎないのだが、同時に、局所的な視点でみる私からすれば、絶対にそうではないといえる保証はどこにもないのだった。ホラー作家であったなら、効果的で一面的な文章でそう書いて、笑みさえうかべてきっちりピリオドを打つのだろう。しかし、私は、基本的に花や蝶を愛するものであり、柔原めいなの住む現実は好ましいものだと思いたく、例え、超現実的な驚きに満ちていたとしても、まやかし、おどかしに満ちた恐怖は遠ざけたいと思っているのだ。
車内に目を戻す。曖昧な表情の呪縛から逃れたために、場面の色調はおおきく変わってくる。今、シートに背をあずけていた柔原めいなが、景色を描写しきる前に、「好きぃーだけ」の「ぃー」でつくっていた溜めをはきだすように、「どぉ!」のアクセントと同時に、首をななめにふってシートから背をはなしてみせた。それによって、今までつづいていた絶えまない挙動からほとんど浮遊状態にあった彼女は、ますます浮遊したように思われた。寝ちがえた首をおそるおそる戻そうとする人のように、「パイナップぅル・・・は」の発言の当時から、彼女の顔はこちらにむかってゆっくりまわりつづけ、その過程には表情のワームホールがいりくんでいたのだが、その顔は、今ではもう(姉にむかって)完全に正面を向ききっていた。おなじみの、不安の雲をけしとばして晴れあがった青空のような、口角のあがった笑顔をみせていた。それは対外的な笑顔で、旅行の途中の、これといって山も谷もない移動中の車内の後部座席で実姉にむけるにしては、愛想がよすぎるようにも思われた。なので、おそらく、彼女の超自然的な読者意識が発動して、今まさにお愛想のアピールが発動しているのではないかと、私は少しいぶかった。しかし、それは十分に許容できる範囲であって、というよりも、柔原めいなの笑顔は対外的なものであっても純粋な生命感に満ちているので、この笑顔をみたなら、読者もすべてを許してしまうのではないかと思われるほどだった。それは、「対外的」ということを、「生来の明るさを抑える必要がない免罪符」のように勘違いしているようにも思われたのだった。そのように、彼女の特質はきわだって「陽」なのだった。また、彼女にかぎらず様々な印象を文章になおしていると、表現のために必要な能力は、「嘘をつく」ことなのか、「正直になる」ことなのか、という問題が頭に浮かぶのだ。私の場合、それはやはり、正直になること、徹底的に正直になること、それ以外のものは邪魔であるようにも思われる。しかし、心には雑念が混じっているので、例えそのように心がけていても、いつも本当のことがいえるとはかぎらず、むしろ、嘘ばかりが率先して自我を主張するように思われるのだ。塗りたくられた嘘、誇張の匂いは、心が濁っていれば判断も煙ってわかりづらいものなのだが、あとになってみれば、はっきり匂ってきて、何のためにもならない、ただ気持ちを疲れさすだけのものだとわかるのだ。それは当人の意識の問題である以上に、感覚的な誠実さの問題なのだろう。したがって、この小説中ではつくりごと(事実にそぐわないこと)は極力排除され、柔原めいなの一挙手一投足は、それを建てる釘一本にいたるまで事実を追ったものである。
柔原めいなは、背もたれから身を起こしたせいか、さっきよりもあごがあがってみえたので、笑顔のなかに白く横一列にならんだ歯がよくみえた。また、顔をおおう影のようなものが、(純粋に車内の光の加減で)、さきほどより濃くなってきていた。そして、歯をキープしたまま、ほとんど口をひらかずに「嫌いといえば嫌い、かな」、と言ったので、口をうごかしているときよりも、かえって、口のなかでうごめく舌の存在が強調されるようだった。子音のためにすぼまった舌先が、口蓋の手前につくられた空間を上下にうごくのが透視されるようにも思われた。また、「好きといえば好きだけど、嫌いといえば嫌い、かな」のように、思わず「どっち?」と聞きかえしたくなるどっちつかずの発言にくらべて、彼女の笑顔は迷いなく、それは言いおわった直後にも維持されて曇る様子がなかった。なので、真意がどうこうというよりも、表情も含めてどっちつかずの発言そのものが、彼女の愛嬌にも思われたのだった。同時に、その表情は、柔原めいなのまるっこい顔立ち、屈託のなさとあわさって、あまりにも「丸出し」すぎるように感じられた。それには、乳幼児のあどけなさと痛々しさがふくまれているようだった。それは、このあとに控える、こんにゃくゼリーのやわらかい部分が出たために、前に倒れこむようにシートに顔面をおしつけた、「顔面苺まんじゅう」の表情にもおなじことがいえるのだった。そして、丸出しの感覚には、よりクローズアップされた状態で観察された、彼女のまぶたの印象がかかわっているようにも思われたのである。柔原めいなのまぶたは、目元の端整な印象から、当然ふたえまぶただと思われ、事実そうなのであるが、同時に、ひとえまぶたの子供にみられるような、軽くはれぼったい丸まった感じをもっていた。それはおそらく、彼女の横顔がいまいち可愛くみえない理由のひとつであって、たしかに、ふたえではあったが、眼窩の彫りのふかさがほとんどないに等しいのも事実なのだった。また、この場面では前髪にかくされてほとんどみえないように思い出される彼女の眉も、なだらかでめりはりのない平安美人的なもののように、そう記憶されているように、私には想像された。しかし、おそらく、それは言いすぎであって、時系列湾曲的なこのあとの場面に控える、シーサーへの彩色の彼女のように、お嬢さまっぽく、前髪を左右にながして真面目な表情をしているときには、もっときりっとした印象の眉をしていたように思い返されたのだ。なので、柔原めいなは、眼窩の彫りがあさいと考えられたように、眉の部分のほねも丸っこくなだらかになっているのだろう。それは正面からみたときには強調されないのだが、横顔でははっきりと感じられる、そう推測されるのだ。それが、柔原めいなが、場合によっては端整な美少女にみえて、場合によってはいちご大福にみえる理由なのだろう。