14 ステーキハウス




-14-

柔原めいなの前には鉄板があった。現在、彼女はステーキハウスで夕食をたべようとしている。場面を拡大すること、それすなわち場面の長大化につながるか、細部の閑却につながるので、捜索の手を広げてはいけないのだが、入店したときの店内の雰囲気、クシをつかい前髪をとかしている柔原めいなの表情、立ち働くコックの様子、肉のディティールなどは見過ごせない問題にも思えた。特に店内のざわめきのようなものはノイズの宝庫であって、ラジオドラマの冒頭で挿入される環境音のように全体の雰囲気をつくりあげていたのだった。また、柔原めいなの前髪が場面におよぼす影響はおおきく、わずかなみだれ、まとまりの質量感、ひたいがどれだけ露出されているか、そのような状態の変化が全体の印象をつくりかえてしまうようにも思われた。それを彼女自身も認識しているのか、入店直後の前髪はカットしたかのように短くなって、眉毛の上に浮き上がっていたのだが、座席につくと、ひらかれたメニューにひじをついて、なぜか少し事情通のような顔をしながら、前髪を丁寧にとかして元の長さに戻していたのだ。そのときにおこなったのが柔原めいな○大~回しの一つ、クシ回しであるが、このクシ回しは実は2回目であって、1回目は空港にむかう車のなかでおこなっているために価値も重要性もだいぶうすれている。また、新たに発見された「歯ブラシ回し」もくわわって、彼女の回しシリーズは、ペン、ピン、くし、空港の案内書、箸、筆、歯ブラシの七つがそろったわけで、もし願い事がかなうのだとしたら、私は、偉そうにみくびった態度でものごとを馬鹿にしてかかる傾向のある「意識」に、どのような些細な事柄にもおよぶ「感覚」をみならってもらいたいと願いたかった。「感覚に理性が裏切られる」「頭のなかだけで考えていたことに気づく」「考えるな、感じろ」というような言葉であらわされる、「意識と感覚のズレ」、的確にいうならば、「意識のおよぶ領域と、感覚のおよぶ領域のズレ」という、人間に普遍的な現象の改善をはかってもらいたかったのだ。今まで何度も、全体に残念な曇り空でみたされている旅行の場面に、素敵な海のうるおいをあたえてくれた青いハート型の髪留めであっても、彼女がなぜそれをつけているのか、髪留めの来歴はどうなっているのか、考え出すときりがないのであるが、そのような疑問は、おそらくは、ラックに商品を満載した雑貨屋のような場所とつながっているのではないかと、あるいは「カラオケ」と、異次元にいるもう一人の私が告げてくるのであった。この小説では、今までに様々な「どうでもいいこと」を扱ってきたわけだが、一般的に「なぜ人はギャンブルにはまるのか?」という概略的問題、あるいは、「なぜあのときの彼女は泣いていたのか?」という感情に訴えかける問題は扱っても、「なぜあのとき、彼女は心なしかいつもより色が白くみえ、わずかに神経のとがった感じをさせていたのか?」という、あまりにも特定の事例に密着しすぎた、それでいて感覚的に微妙な問題には追求の目があまくなるようなのである。それには意識の考える「普遍性」というものが絡んでいるのかもしれないが、それにしても、このステーキハウスは伊勢えびを売りにしているらしいのだが、店内のどの鉄板を見回しても伊勢エビのすがたは見当たらず、甲殻類に無意識的な関心をよせる私には残念なことであった。固有名詞を出すことで、何かが表される、何かが保証される、ということは決してなく、また、感覚的な細部と情報的な細部はことなっているのだが、今、柔原めいなが食事をしている店の名前を出すと「ステーキ&伊勢エビの店 Captain's inn」である。これは入り口の上部に青と赤の電飾で描かれており、左側には取り舵と思われるマークが、白の電飾で描かれている。それらの電飾がはなつ光の色は、通路をおおう天井によくうつっていたのだが、天井に軽くにじみながら層をつくる赤と青と白の色は、歯みがきの練りチューブか、散髪屋の前で回転しているオブジェを連想させる色合いだった。私の記憶は実際的な事柄には曖昧なので、あとで調べたことだが、柔原めいなが宿泊したホテルの名は「ホテルビーチタワーオキナワ」で、シーサーを彩色したのは「むら咲むら久米体験館」である。彼女は今日、羽田空港をたって那覇空港に到着したのであった。この旅行は二泊三日の沖縄旅行なのだが、三日目は早々に空港へ行ったために、中心的にとりあつかわれるのは一日目と二日目の出来事となるだろう。そして、二日目には前述の前髪の問題がおおきなものとなってのしかかってくるのだが、前髪の問題は、その悲しい存在感のなさに反して、特定の場面にではなく、二日目の全体におよんでいるのであった。また、読者待望の「ネコカフェ」も二日目で腹をよじりながら待っている。これらの情報のガラクタ箱のような記述が、この場面のながい前説となるのだが、どちらにしても、私がどう書こうが、大洋のど真ん中から遠い陸地にむかってむなしくはなたれる、漂流船の光の信号のようなものになるだろう。まさにここは安全地帯であって、どのような地上の法も適用されず、ただ船長である私の良心だけが、一見して日本語の文章とわかる体裁をかろうじて保たせているようにも思えるのであった。ここに挿入された船のイメージは、もちろん白い電飾の取り舵に影響されたものであろうが、ステーキハウスの隣にある、読むことはできないがむずかしい漢字一文字を筆で描いたようにみえる店名が、視覚的に二つの帆をはった帆船にみえたことも関係している。その店は縦に細長く黒一色の壁をもっており、店の前にかざられた旗にはナチスのハーケンクロイツがみられたようにも思い出されるのだが、その店にはドイツ的な要素などなく、さすがに記憶ちがいに思われた。
ステーキハウスの店内へと進むと、まずさまざまな音が耳にはいってきた。壁の色はくすんでいて古さを出すためにわざとよごしているようにも思われ、赤っぽく散った染み、龍をえがいた刺青のような絵が落書き的な偶然をよそおって描かれていた。予約制だったのか、おそらく父親の「にこはら」と若干たずねるような調子のふくまれる声に、女性店員の「いらっしゃいませー」の声があとから立体的に重なった。中国的ともハワイ的とも判断できない音楽が、店内中央を陣取る厨房(客席にむかってひらかれており、中の様子がよくみえる)に置かれたラジオの一つから聞こえてくるような、適度なボリュームでながれていた。食べ物を焼くジュウジュウいう音が持続的にしており、そこに、食器の金属的なカチンという音が断続的に混ざっているようだった。口元を結んで、妙に男っぽくみえる眉毛と黒々とした目元の、古代の酷薄なトルコ人のような顔をした柔原めいなは、読者の視線に気づくと、駆け寄ることはできない場面で遠くの友達と目が合ったかのように、前歯をむきだした大げさな笑みを浮かべて手を素早く左右にふってみせた。このとき、手はさりげないピースサインをつくっていたのだが、それはジャンケンで平素出されるチョキのような、にぎりの鈍重な手ではなく、しゃきしゃきしたサラダバーのように女性的なものだった。
比ゆのわかりづらさにつまずいた私は、最初、こう言えばよかったのだろうかとも思ったのだ。「柔原めいなはほとんど無表情で店にはいったが、読者の視線に気づくと大げさな笑みをうかべて手を素早く左右にふってみせた。」しかし、まず無表情というところでつまずいた。柔原めいなにはまるで「無表情がない」ようなのだ。それは、例え眠っているときであってもおなじで、これは彼女が座りながら眠っているときの光景なのだが、弛緩した唇がかるく突き出されて、ごくわずかに、アヒルのように、黒人の幼児のようにも見え、また、口から寝息を漏らすと同時に、少し突き出た上唇の鼻の下に、鼻から出た寝息があたっているのがよくわかるのだった。とくに首の角度が圧巻というか絶景で、倒した側の肩にぴたりと接着するように、ほとんど真横にかたむいているのであった。そのような寝顔はおそらく子供には世界共通のものであって、誰であっても微笑を禁じえないものだろう。また、「酷薄なトルコ人のような顔」とはどんな顔か?と思った読者もいるかもしれないが、もちろん、私はトルコ人のことなど何もしらず、ただ、ウィージューヌ・ドラクロワの描く「サルダナパールの死」で、豪奢なベッドに寝そべって部下たちのおこなう虐殺を眺める男(この男がサルダナパールなのだろう)の表情をイメージしていたようなのだった。サルダナパールがトルコ人かどうかなどはわからず、ただ思いついたままに言ったに過ぎないのだが、他にも、ドラクロワの描いた「ハレムの女たち」、また画家自身がエキゾチックな顔立ちをしていたということ、そういう一連のイメージのつながりのどこかに「トルコ」の要素がはいっていたのかもしれない。また、「サラダバーのようなピースサイン」については、より感覚的で錯誤的な、連想の有機的関連を説明できるのだが、もはや飽き飽きした当たり前の事柄なので省略する。このように感覚は、荷車をおいて先へ先へと駆けてしまう馬のようなもので、理知は時間をかけて後追いすることしかできないのである。
視点は思考から店内に戻るわけだが、ステーキハウスの場面を思い返そうとして、というよりも、それを描写するさいの青写真を描こうとして、まっさきに浮かんでしまったのは食欲を刺激する魅惑的な肉の描写であった。しかし、それは同時に危険なことでもあって、私にとって、直接的なセックスの描写、食の描写のような「欲」を刺激するものは感性との相性が悪いように思われるからだ。感性が総合的に働いたのなら、「セックス」はセックスだけで存在するものではなくなり、「食」は食だけで存在するものではなくなる。マルキ・ド・サドのような作家は、セックスというフィルターを通して全人格的なものをえがいているのかもしれないが、全人格的なフィルターを通してものごとを眺めたのなら、セックスも食もモザイク画の一部分のように、全体のなかに埋まりこんでしまうように思われたのだ。この辺りに長々と書かれた記述は腹を空かした柔原めいな(彼女を養う身分であるような気持ちにさせられるのだが)のために削除したので、興味ある奇特な読者はそちらの次元へと飛んでもらいたい。いえることは、この小説は、食事の描写にはいると急にグルメ漫画のようなのりに変わる、そういうものではなく、また殺人が起これば推理小説ののりに変わる、そういうものでもない。人は無防備にものごとに望めば、ほとんど無意識的に普段の自分をわすれてポーズをつくってしまうようにも思われる。例えば、批評といえば批評的な口調をもちいてしまい、グルメレポートといえば、決まりきった薀蓄や、わざとらしいリアクションを用意してしまう、そのような罠が、私の前にもいたるところに仕掛けられているのだった。
しかし、俗世の法則とは無関係に、(ここで店内のざわめきを思い出してもらいたい)、ピースサインで手をふったあとの柔原めいなは、「いい匂いがする」と感想をもらしたのであった。その鼻腔はふくらんで動いたようにも思われた。くすんだ色の壁にはむきだしの黒い梁が斜めに立てかけられ、またかけられた音楽(沖縄民謡的、という要素をつけくわえるのを忘れたが、これが本命かもしれない。)の音量とおなじように、照明にも十分な配慮がおこなわれているようだった。暗すぎるというほどではないが、目に直接きつさをあたえないように光をおさえた複数の暖色の照明が、店内すべてに一定の明るさをあたえるように配置されていた。もう、私は、照明の傘の形状などを思うと、柔原めいなの鼻のように手がぴくぴくしてしまうのだが、それは飛ばして、正面の厨房、仕切りのなかで調理人が動いているのがみえる、メニューのような紙のはられた壁には、仕切りの高さをはみだして輪郭の一部を強調された大きな取り舵がとりつけられていた。これが店のシンボルとなっているのだろう。船内をイメージした木製の取り付け壁や座席には飾りっ気がなく、石の壁も、全体がどこかゆがんでいるようにも思われた。みすぼらしさは決して感じられないようにつくられているのだが、おそらく、イメージされた元の題材はもっとみすぼらしかっただろうと思われるようなものだ。ようするに、デザイン志向の店には当たり前にみられる凡庸なもので、コンセプトバーと呼ばれるような、統一的な志向をもっているのだが、ものにこだわらない性質の人であったなら「いいね」と一言いい、ひねくれた人であったなら鼻であしらうようなものだろう。同時に、私にはよくわからない世界であって、そこに店舗の内装デザインに日々をついやす職業人の独特の機微をみるように感じるのだ。それはドラッグストアの店員だろうがコンビニの店員だろうがおなじことであって、例えつまらないといわれる興味のそそらない職種であっても、彼らの生きる世界を、ついやすエネルギーを無視できないように思うのである。それはまさに「お客様根性」と呼ばれるものの間逆にあるもので、金さえ払えば職業人の内情などには1ミリの関心もはらわなくていいとは考えられず、職業人のすがたを目で追っていると、今はうまくいっているが、もし、彼らが不都合をおこしたならと先回りして考えてしまい、それが自分がおこした不都合のように感じられて、胸が痛くなってしまうのだった。しかし、同時に、このように商業的につくられたデザインのなかにはいっていくことは苦痛でもあって、なぜなら、その洗練が私の平凡な感性に訴えかけてくるものは、「こう感じろ。」という思惑の押し付けであって、事実そう感じるほかないからだった。こうなってみると、勝手な話ではあるが、味も素っ気も他意もない、ホテルの部屋の簡素さが恋しくなってくるようでもあった。この食事のあとにおとずれる夜のホテルの場面では、窓のブラインドはおろされて枕もとのスタンドライトだけがつけられるようになり、あの部屋の印象はだいぶ変わるのである。それにしても、たしかに「にこはら」と男性の声できこえたように思われたのだが、店員が客の名前を呼び捨てにするとも思われず、なぜ微妙に「にこはら?」と疑問系のひびきがふくまれているようにきこえたのか。父親が名前を告げたのであったら、「にこはらです。」というふうに言うはずで、曖昧なイントネーションのはいる余地はないように思えたのだった。また、文章中ではさんざん「柔原めいな」の名前を繰り返しているにも関わらず、他人の声でもってあらためて「にこはら」と発せられるのをきくことは、不思議なことのように、そのような気持ちにさせられた。記憶のなかでは「にこはらめいな」の名前はいまだ一度も発音されておらず、文章のなかでは便宜的に繰り返してはいるが、名前そのものに愛着があるわけではなく、私の頭のなかでは「なにがしめいな」というふうに適当な呼び方をしているからである。そのような感覚は、彼女の名前を実際に呼ぶようになるか、彼女の名前を誰かが呼ぶのを耳にするようになれば変わってくるのだろう。
「いい匂いがする」と言いながらいやしく鼻を横にふくらませた柔原めいなであったが、そんな失態もトルコ人もなかったことのように、今は座席におさまりかえっていた。話をふるように棒読み質問マシーンとかした姉が「楽しみですねぇ」と言ったのだが、もはや素の状態の姉を知ってしまった私には、演技の口調にしか感じられなかった。むしろ、「トリプルルッツ、きれいに決まりましたね」そのように言っている方が似合うように感じられるのである。一方、柔原めいなであるが、彼女はクシで前髪をなでつけながら、なぜか偉そうな態度をとっていた。まるで物知り顔の業界人であるように、姉の発言にうなずくようにこたえて、また、その肘の置き方、髪をとかす手つきにもどこかいやらしいものが感じられたのだった。妙に余裕ぶっているというか、大人ぶっているようでもあった。そして、つくられた笑みを浮かべながら、「うんうん」というふうに二回うなずいてみせたあと、「楽しみっ」と小さく一言だけ返したのであった。どうもこれは、「歯にぬっちゃっう?」の場面とはまたちがう、彼女の外面モードが発動したのではないかと思われたのだ。ここでむだに面倒な内装描写が生きてくるのだが、店内がうすぐらいためか緊張はしておらず、かつ、お洒落な雰囲気が感じられるので、それにふさわしいように少しだけ大人の女性を演じてみせたようにも思えたのだった。どちらにしても、周囲の目をかなり意識していることはたしかなようで、その証拠に、「楽しみっ」の直後におこなわれたクシ回しは、聞き取れないほどの声で「でもあついよねここ」と言ったあとに、周囲をうかがうように一瞬だけ反対側に視線をはしらせて、横幅のある座席にもぐりこむように、からだを斜めに崩して、(テーブルの影に隠れるようにして、そして、テーブルの上ではなく)、座席の上でおこなわれたのだった。しかし、さきほどの物知り顔の業界人のような表情と、いたるところにみられる丸出しの子供っぽさをあわせて考えると、私は笑ってしまいそうになるのだが、それはこのあとの、目の前で焼かれるステーキを食い入るようにみつめる、お祭りの光景に我を忘れて見入っている五歳児のような表情を思い出すと、よけいにおかしさが増すのであった。左手首にくだんのブレスレットを強調させながら、(そこに体重をかけているために、手が妙にするどく骨っぽく曲がっているのだが)、「ペン回しっぽい・・・クシ回しでーす」と読者にアピールしている彼女を、どうか笑ってあげてほしい。また、「おや、クシ回しですか」と、優等生の小学生のような口調で、つまらないことをつまらない言い方でいちいち取り上げる姉を、どうか許してあげてほしい。そうしてもらえれば、一度は時間のなかに滅した彼女たちもまた生きることになるからだ。