15 恐竜の瞳




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 柔原めいなとベッドにもぐりこむ前にいくつかの緩衝材が存在する。小説の原作ともいえる数年前の現実世界では、星々の目はさえて、街はお祭りのあとの帰宅民のすがたが多くみられる駅周辺のような活気をもち、また、柔原めいなもまだ遊び足りない様子なのだった。彼女が「すっごい」を連発した、もはや内装を描写することも鼻持ちならない、いんちきくさいハッタリだらけのステーキハウスはさておき、彼女がそこでもらったお子様ランチのおまけのような、黄色のからだに紺の縞模様の、熱帯魚風のつまようじもすっ飛ばし、宇宙空間歪曲航法をつづける宇宙船は、ベッドを目指すまでの道のりで立ちよった観覧車に、どうしても、どうしても未練を残し、そこにいかりをおろすことに決めたのであった。
 パパ(いまは親しみをもって、そう呼ばせてもらいたい。)が「明日乗ろうあの観覧車は」と言う。いつの間にか、柔原めいなの髪留めは、真ん中をひきしぼったピンクの蝶のようなものに変わっている。また、見落とされがちなことなのだが、彼女の耳のうえには髪の色と同化したピンがたてにくっついている。彼女があるいているのは夜のおおきな交差点で、たてにななめに横断歩道がのび、赤でとまった歩行者信号のかたわらを、道路すれすれまで足回りのカバーをつけた白いワゴンがはしっている。もちろん、服飾の知識がないのと同様に、車の知識もない私には、この大音量でラテン系ヒップホップを鳴らしながら、背面の棒状の緑色のライトを点灯させてのろのろと爆走(言葉に矛盾があるが)していきそうな車の車種やパーツを正確に指ししめす言葉を知らない。また、もはや視覚障害をおこした私の目には、クリスマスの飾りつけとみえる青系の看板のした、それよりもっと小さな赤のウエハースをデコレートし、数え切れないほどの数種の光をヤシの木のまわりに散りばめた建物がみえている。建物から地下駐車場にむかう入り口は、CTスキャンに入っていく瞬間を連続的に、ずっとここちよくしたようにも思われ、それはトンネル状に点輪する光の輪をとおっていき、これから天国にむかうという予感(階上に良い店が入っているのだろう)を感じさせた。そのような光の氾濫を、視界いっぱいに引き伸ばし、さらに360度全方位に展開させたような世界が、柔原めいなのまわりにはひろがっているのだった。
 そのように書くと、これは一体、香港か東京か、どこの名だたる一流都市だろうと思われるかもしれないが、ここは沖縄であり、客観的にみれば地方の小都市にすぎず、道路や歩道のはばも、人々のあるく間隔もやけにひろく、パースをきかせすぎた絵のようにも思われるのだった。しかし、いままで味気のない精進料理に滋味を見出そうと苦心してきた私の無邪気な感性は、それらの光景の情報量に目をまわし、思わずうっとりしてしまったのである。
 柔原めいなは、今、信号待ちにくわわっているのだが、なぜ彼女が、突如爆音を立てながら飛来したヘリコプターの、はしごにくくりつけられたトランペットを見上げる黒人の子供のような顔をしているのかというと(黒人やトルコ人という比ゆがよく使われるが、彼女の顔はまったく異国的ではない。子供であるために目や唇が主張しやすいためだと思われる。)、まだ観覧車に未練をのこしていて、そちらのほうを何度もふりかえっているからであった。父親が「今乗ってもいいけど」と言うと、きたないものをみたような姉の「やだー」にかぶせるようにして、柔原めいなは、母親のロングスカートを両手でひっつかみながら、からだを縦にゆする幼児のような声で「やだ!」と言うのだった。それは、誇張するなら「やぁだ」のように、少しあがった位置の右手から「や」を、少しさがった位置の左手の「だ」へとなげわたすような、段差の感覚をともなっていた。背景にみえる色取り取りの光とあわせて考えると、虹色に彩色されたスプリング型の玩具が、段差をこえて高い位置から低い位置へとおりていく瞬間のようでもあった。
 機械的なものではあるが、変化する観覧車のイルミネーション、まばらではあるが、複数の人々がいりみだれる雑踏、時々ふりかえりながら歩いているため揺れ動く不安定な視界、光のこぼれる沖縄の夜の街、車の音、人の話し声、一連の会話のながれ、観覧車をふりかえるときの柔原めいなの表情、姉の優等生発言をうけたときの、急に変化する柔原めいなの表情、わずかに吹く風、これらの要素がこの場面を構成している。どの要素をとっても、本気で深入りしたならもう二度とこの世には戻ってこれないのではないかと思わせるのに十分なもので、観覧車の誘惑につられたばかりに、ひっくりかえした玩具箱のような場面を選んでしまったことを、私はひどく後悔した。
 まず柔原めいなの視点にうつって観覧車をみあげたいのだが、この観覧車は彼女が午後の明るいうちにおとずれたアメリカンビレッジとならんでこの街の有名な観光名所である。Wikipediaで調べたところによると、沖縄県内で唯一の観覧車であるらしい。これはもはや、この旅行のハイライトにもってきてもいいのではないかと思われるほどのロマンをひめたものである。柔原めいなは「やぁだ!明日プール行くもん」と言っているのであるが、細かい事情は知らないが、家族の話し合いによってすでに、「観覧車には明日乗る。今乗ってしまうと明日プールに行けなくなる。」という取り決めができているようだった。しかし、私の記憶の千里眼をもってしても、彼女は二日目、プールに行ったのか、観覧車に乗ったのかということは曖昧で、そのような記憶はどこを探しても見つからないようにも思えるのだった。
 観覧車の外観は、真っ黒な夜空を背景に、パチンコ屋のイルミネーションを何倍にも幻想的に洗練させたようなものである。車の音や人のざわめきの声が聞こえ、おそらくおおくの人々がみあげている衆人環境のなかを、黄色い電飾でふちをかざられ、青い銀河のカーテンをつけたラスベガスのバーのような、白の電飾でOUTLET-Jとかかれた建物のうしろに、立ちあがるようにくっきりと、巨大な恐竜の、冷酷な瞳がまばたきをくりかえしているように、観覧車は点滅しているのであった。中心から円心状にのびた細い緑色の光は毛細血管のようにも見え、円の末端部分は緑色だけではなく赤みがかってもいた。それを太くうわがきするように、直線的な、中から外へむかって、白色と青色の光が、そして、中心部にはCoca-Colaの文字と、ビンを模したシンボルが、交互に機械的に点滅しているのだった。それだけを取り出してみれば、感覚を酩酊させるほどのたいしたものではないのだが、昼間にさんざん過疎の風景を見てきたように、海やシーサーや方言などの文化的な特徴はあるが、文明的にはおくれている沖縄にあっては、インパクトをもっているように見え、私が「冷酷な」と表現したように、異国から借りてきた巨大な猛獣(土地の人間が知っているような血の気の多い、わかりやすい猛獣ではなく、妙に血のかよわない。)のような、異質な存在感をもっているのだった。さらに白色と青色の交互の点滅は、前頭葉に直接えがかれるように反復的な暗示効果をもっていて、花火にしても、イルミネーションにしても、暗闇のなかで光り、変化するものが、人間の心にあたえる力をあらためて感じさせるのだった。私は、描写の必要から、観覧車ばかりに注目してしまったために、その印象を直線的な、冷たいものに感じてしまったのだが、最初に雑踏のざわめきとともに屹立としたそれをみたときには、光の軌跡はもっと多重的で幻惑的なものに見え(理知的な判断をかく乱したものに見え)、後ろ髪をひかれてふり返る柔原めいなは、歩くこと、話すことに意識を半分以上さかれており、また、周囲の街の様子もつねに無意識的に認識しており、揺れ動く視界のなかに数瞬、観覧車の光のえがく紋様をとどめているにすぎないので、ここで観察され描写されたものよりもずっと心理的な距離を感じているはずだった。
 さて、冷静になってみればそれほどでもなかった観覧車はさておき、視点は街のなかへとはいっていく。ここもまだアメリカンビレッジの近くであるのか、街並みがアメリカ風であるようにも感じられる。柔原めいなは、体育館のようにひろく、板をしきつめた床の歩道を歩いている。これもまたひろい道路わきに数台の車がとまってならんでいる様が、洋モノのドライブゲームを連想させたので、やはりここもアメリカンビレッジの一部であるように感じられた。そして、今度こそ本物の、ポニーテールで眼鏡をかけた、濁った色の縞を横につみかさねたシャツを着た黒人の女性が、チェック柄の開襟シャツを着て、丸刈りの後頭部をみせる黒人の男性と、楽しそうに話しているすがたが、信号待ちをする(偽者の黒人である)柔原めいなの表情のうしろにみえたのだった。また、左側にちぢれた長髪のちいさな女性、右側に背の高い男性、というやたら身長差のある二人も、国籍はわからないが、顔のみえた男性のほうは白人に思われ、そのように認識をあらためていくと、腰に手をあてて信号待ちをするミレー風の女性も、うしろすがたではあるが、日本人離れした雰囲気をもっているような気がしてくるのだった。空は黒一色で、交差点のむこう側にはいくつかの信号の赤い光が目立っており、こちら側の歩道には四角い置物が(横断歩道の手前にある支柱の代わりだと思われる。)置いてあった。その置物の側面にみられるわずかなおうとつは、記憶をほりおこした当初は沖縄というイメージで、シーサーかなにかが彫られているのだろうと思ったのだが、アメリカ、外国人のすがたというイメージで塗りかえられた今は、ちいさなキューピッドのような像が彫られているようにも思えてくるのだった。
 前髪をすこしだけ風に揺らしながら、「プールいくもん。プールいきそぉー」と、最後はよくわからない曖昧な発音で言った柔原めいなは、読者にみられていることも忘れて、口をすこしひらき、周囲の様子に気を散らせているせいか眉間をすこしだけ緊張させていた。日ごろの女の子らしさなど微塵もない油断しきった子供丸出しの顔で、視線をきょろきょろとさまよいあるかせ、下をむき、対岸の信号に目をはしらせたあと、思い出したように後ろをふりかえって観覧車をみあげて、例のにせ黒人の表情をみせたのだったが、目をおおきくひらいているために白目が強調されて、また鼻腔もすこしふくらんでいるようにみえたのだった。このような描写は、最初に(ねこちゃんポーチの回だったと思うのだが)「美少女」を連呼した頃にはありえないものである。いまだに彼女は美少女には変わりないのだが、私の観察の目がすこしずつ鋭くなっていったために、もはや三文字で表現できるような事柄をわざわざつけくわえる必要はないと思われ、また、いくら私が「美少女」「可愛い」ということを強調したとしても、親の欲目のようにしか思われず、それに共感できるものなどこの世に細胞の一片も存在しないように思われるのだった。そして、私自身も、もはや人格のようなものを獲得してしまった柔原めいなを、都合よく幻想を押しつけられるだけの存在にはみえなくなっているのであった。私は、子供のほおを真っ赤にぬりたくり、やたらにしもぶくれの顔を画面いっぱいに押し出して躍動させたような絵本のもつリアリズムは、鼻のしたに鼻水のあとをつけた園児たちがシートを囲んでおにぎりを食べながら嬉々とした顔をみせつけている、また一人か二人は完全に痴呆のような顔であらぬ方向をみている、その横に母親たちがならんでゆるみきった軽薄な笑顔をつくっている、そんなスナップ写真とともに大嫌いなのであるが、同時に、装飾のないリアリズムのむこうに、幽玄なものを見出したいと思っていることもまた事実なのである。もはやそれはリアリズムではなく奇怪な夢にすぎないのかもしれないが、写実主義の作家が目指すものも、主観主義の作家が目指すものも、一つの芽から発した二つの枝であるように思われ、互いに反発しあう要素をもつ両者ではあるが、それは、おなじ遺伝子をもちながらもいがみあう双子のようなもので、本来的には融和可能なものに思えるのだった。
 完全に油断しきった表情をみせていた柔原めいなだったが、演劇の教科書を読む小学生のような姉の「明日、あの観覧車に、乗りましょう」の発言をきくと、観覧車から横断歩道へとゆっくり首をふりもどす反動の余韻でしたをむいて、まばたきをいくつかしたあとに、顔をあげて(こちらをみて)「は~い」と答えたのだが、そのときには、さきほどまでの放送禁止的な表情とはちがって、どこにだしても恥ずかしくない、ポートレートにして飾りたくなるような、口角を弓のようにひきしぼった、(それでいて、ほおのあたりがひきつっていない、笑顔が苦手な人なら割り箸を横にくわえてつくろうと訓練するような)、素敵な笑顔になっていたのだった。また、声のトーンも、男の子だか女の子だかよくわからない遊園地帰りの有象無象の子供の声から、つかれているのか声量にすこし元気がなかったが、はっきりと、女の子らしい声に変わっていた。そして、笑顔をみせるように数瞬維持したあとに、「乗りましょう♪」と言って、首をおおきく左にかしげ、自分の発言が、あるいは、ただ生きていること自体がおかしいことのように、笑って口をひらきながら、からだの位置を崩れさせた。以後、横断歩道をわたっていく彼女の様子は、(描写しわすれたのだが、夜になって肌寒くなったのか、今日はじめてみる黒の上着を羽織っている。)姉に声をかけられる前の情けないものとはちがっていて、二回ばかりくしゃみはしたが、口角はひきむすぶように、あがり気味に固定されており、女の子として隙のないものに思えたのだった。
 これは、柔原めいなの、読者を意識する能力が不安定であることを意味するのだろうか。因果の神によってあたえられた彼女の第六感はもっと確実なもののはずであって、人が、駅や、レストランや、人通りのおおい道で、周囲の誰かにみられている可能性を感じられる程度には、読者の視線を感知できるはずなのである。それにもかかわらず、なぜ柔原めいなは、読者を、というよりも、周囲の目をまったく忘れたような表情をときどきみせることがあるのだろうか。それに、「は~い」で笑顔をつくったときの彼女には、それまでの無防備すぎる自分を不覚に思ったような様子はなく、無理して気持ちを切りかえた様子もなく、本当に自然なうつりかわりだったのである。まるで姉の発言がスイッチになって、柔原めいなの「モード」というべきなにかを切りかえてしまったようだった。おそらく、この場面にかぎらず、いままでにおこなわれてきた彼女の性格描写は、要領をえないものがおおく、この小説を読んで、彼女の性格をかっちりとした玉のように自分のなかに落としこめる人はすくないだろう。それは私にとってもおなじであって、描写の密度はともかく、記憶のなかではより情報量のおおいものとむきあってきたにもかかわらず、柔原めいなのイメージは、手元のぶれた別々の写真を何枚もかさねて水に溶かしたような、目立って突出した面のないものに思われるのだった。