序文




 序

 いままでに、現実時間にして累計数十分をあつかった、(19話までの)この小説の総容量は205キロバイトである。おおざっぱな、感覚的な試算なのだが、本来の「現実」の情報量は、おなじ十数分をあつかった場合には、けたが二つあがって200ギガバイトほどになるものと思われた。205キロバイトにくらべれば、膨大にも思われるのだが、決して無限ではない。数字の特性は「これ以上でも、これ以下でもない。」という限度がもうけられていることで、印象のようにものごとを過小評価することも、過大に途方もないものに思わせることもない。ある高名な主観主義者は、作品のなかで「数字はなにものもあらわさない」といったのだが、そんな彼でも、数にまつわることがらをさししめすためには、「一つ」「二階」「三人」のような書きかたをしており、「孤立した」「階段をまったく息切れをおこさずにあがった」「麻雀の卓をかこむにはすこし寂しい」というようなひねくれた書きかたはしていなかった。彼がいいたかったのは、「数字は印象をあらわさない」ということだと思うのだが、「100万馬力」というような、数値の正確さよりも数値の印象をあらわす言いかたもあり、理性と感情がそうであるように、人は、数字と印象のつよい内的分離をおこしながらも、両者をきわめて混濁させているように思うのだった。私は、柔原めいなの半年分の生活時間を計算してみたことがあり、食事の回数やついやす時間なども、わかるにはわかったのだが、数秒のなかの多大な情報量に目をまわす状態から、茫漠たる時間のひろがりに目をむけはじめた当初の、「途方もない」という印象はうしなわれて、たんなる数字遊びに堕してしまったようにも感じられたのだった。しかし、理知的に考えれば、柔原めいなの半年間は厳密にかぎられており、一秒一秒が、一日一日が、巧緻なパズルのようにさしこまれていて、時間のふり幅も、因果の時系列も、緊密にむすびつき、揺るがしようがないこともまた事実なのだった。そのような数字と印象のとらえかたの関係性は、ものごとの「量」をはかるうえで重要なことである。
 「現実」のもつ特性は、「異常なディティール」であり、「異常な分量」にあると、私には思われた。それは個人の視野におさまる範囲内にかぎってもそうなのだが、くわえて、ものごとにはかならず、どんな些細なことがらであっても、みえざる背景が存在し、みえるものは氷山の一角にすぎないということが、「みえるものから」感じとられるようになっている。それは「異常なディティール」と「異常な分量」がどこまでも持続しているという感覚で、また、一つ一つの要素はバラバラのものではなく、相互に影響をあたえあい、一見して無関係に思えるものも、バタフライ効果のように水面下で影響をおよぼしあっているという「異常なつくりこみ」をもっている。人のもつ世界観は、自らを中心に円をえがくようにして、まわりにいくほどうすく、漠然としたものになっているように、あるいは、いまを基準にして、直線的に、過去や未来にいくほどに概略的になっているようにも思うが、平均をだっして個々人に焦点をあててみれば、特定の場所、特定の過去への思いいれがイレギュラー的につよくなっており、円や直線のグラデーションにむらをつくっているようにも思うのだった。しかし、現実の「異常なつくりこみ」には、そのようなグラデーションは一切なく、例え、原子と分子のようなミクロの世界であろうと、いくつもの銀河を包括する天体のようなマクロの世界であろうと、地球上のどの場所をランダムに切りだそうとも、また、過去のどの段階に飛んでみようとも、創作者の意識がうみだす「うっかりつくりこみが甘くなってしまった箇所」などは皆無で、いま、目の前にとらえられている現実とおなじように、すべてがまったく同質のディティールと分量をもっており、人間的なもののとらえかたの都合で、たった一箇所でも例外を認めたのなら、高品質なアニメーションに、幼児のかいた絵のような「作画崩壊」がたった数秒さしはさまれるだけでも、作品全体の評価はいちじるしくそこなわれてしまうように、おおげさな言いかただが、「全宇宙の連鎖的な崩壊」につながってしまうようにも思われたのだった。
 現実のもつ「異常なディティール」「異常な分量」「異常なつくりこみ」という特性にとっては、普通、問題にされるような、人間にとっての「都合」「面白さ」「理解」「感性の質」などは、まるで考慮にあたいしない問題のようだった。それは徹底的に無視されており、嬉々として繁殖する微生物のように、暴力的に、むきだしの過剰さだけを咲き誇らせているようにも思われた。したがって、このような記述をおこなう私の感性が病的であるというより、たんに現実の「本来のすがた」が病的なのであって、私はうなだれた犬のように恭順しているにすぎない、というふうにも思えるのである。また、私がまったく感覚の皮算用だけで試算をおこなったように、たかが十数分の、個人にとっての体験の直接的な印象をあつかうだけでも、現実にふくまれるすべてを見出そうと思えば、数百ギガバイトの情報量が必要になり、さらに、その背後に存在するつくりこみの関連性にまで手をのばしていった場合には、どれほど情報量がふくれあがるのか想像もつかず、くわえて、「個々の内面世界」という神秘の霧までも考慮にいれたのなら、どんなに甘く、やさしく見積もっても、私がみじかい蚊とんぼにひとしい生涯をすべてついやそうが、ついやすまいが、現実をとらえることなどは不可能だということがわかるのだった。これは一日に一ミリすすんで一年でサハラ砂漠を横断するよりも不可能なことである。それは、柔原めいなの半年間を試算した際に、彼女の5秒間に5時間をついやして文章の記述をおこなった場合には、何年かかれば半年間を記述しきることができるのか、それを考えた時点ですでにわかっていたことなのだった。数千人でかかれば一ヶ月で完了する程度のことであっても、個人でおこなえば数百年がかかり、そしてまた、局所的なものではあっても、「現実の認識的な統括」をもくろむ事業に分業はありえず、個人でおこなわなければまったく意味のないことなのだった。