17 ひとつお手玉




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「パイナップルパーク」その甘ったるいひびきに、もはや、松ぼっくりをアメリカ調に擬人化した、不気味なマスコットキャラも気にならなくなるようであった。二日目にはさまざまな魅力的な場面が存在するのだが、それは上辺だけのものでしかない。なにごとも、すべて上辺だけのものでしかない。例え、「イルカショー」というイベントが、[虚無]の曇天のしたで、[虚無]の肉体派飼育員の指示のもと、[虚無]のイルカがジャンプをみせ、岸辺にのりあげた座礁船のように、[虚無]の黒いからだごと腹をプールサイドにまるごとのせ、それらのショーが[虚無]のアナウンスによって脚色されていたとしても、[虚無]の観客にはいっこう気にならず、そもそも、[虚無]の入場料を支払って、[虚無]のショーをみせられたとしても「騙された」などという気持ちにはなりようがなく、それは[虚無]の神輿の片棒をかつぐ柔原めいなにとってもおなじことであった。そして、この小説の文字列が英字ビスケットのようにバラバラに崩れ、[虚無]のふかい黒穴に大量廃棄されていったとしても、それをとがめる環境巡視員のようなものはどこにも存在しないのである。
 それら虚無のかんむりをかぶったいんちき興業のテントをすこしはなれ、喧騒の余波を背中にきき、もうすこしだけましな、虚無と実在が食塩水程度には違和感なく混じりあう場面を選ぶのであるが、それは移動中の車内で前髪のない柔原めいなが、白、透明、赤のにせ水晶の石で構成された左手のブレスレットをこちらにみせながら、はしゃいでいるわけではないが、気分のうわついた表情で演技をするように「あー、ミザサビテやってぇ」と発言するところからはじまる。
 彼女のツインテールの根元の髪留めの花かざりは、シャツの色がにじみでて染まってしまったのか、いつの間にか、今朝みたピンクから黄色に変わっていた。この髪留めにかぎらず、彼女の表情、態度、声はみるたびに変わっているように思えるので、私は、もはやそれを同一人物のようにとらえることを自分に強制し、そのために、いちいち混乱することはやめたのだった。「厨二病傾向のある一般人が興味の棚に陳列する十大哲学的問題」の一をかざる「世界五分前誕生説」を参考にしたなら、場面が変わるごとに彼女は再創造されていると考えることもできるだろう。しかし、そのような胸も腹も痛まない車中の心理ゲームのような考えをスパイスとしてふりかけたところで、この小説の価値はいっこうにあがらず、なにかを解き明かすことにもつながらず、そのような考えよりも、今、この場面にみられている、情景描写にちからをいれた日本映画のような灰色の鮮明な空気が、なぜ、またしても「ダイヤル、まわして、手をとめた。」の灯油販売車を連想させたのか、そのことのほうが気になる問題であった。「ブレスレットをみせながら」とは、柔原めいなが「あー、」といいながら左のもみあげ付近をかきあげる仕草をしたからそのようにみえたのであるが、前頭部と側頭部のピンで完全に固定された彼女の髪型に、かきあげるようなほつれも、垂れおちるような前髪も存在しない。それは、何気ないふうをよそおいながら「あー、」と前置きする素人芝居とセットになった挙動にすぎないのだ。彼女が演じようとしている「車中の何気ない一こま」の表情のなかには、隠しきれない、しまりのない、にやついたものがたっぷり混ざっていた。それは目を右下に泳がせたことにもあらわれていて、「ミザサビテやってぇ」の発言のスローな進行の途中にも、彼女のねずみのような鼻先と口先が、彼女自身にひくひくと意識されているようだった。純粋に暑いので、となりの窓にちかい人に「窓あけてぇ」と訴えるような、他者の行動をもとめる欲求はほとんどみられず、「ミザサビテやってぇ」の「てぇ?」は、つたえたい本件とは関係なく、強調されるはずのないものであるが、妙にあがるように、ひきのばされるように発音されているのだった。虚無(イルカショー)から避難してきたはずの私のまえで、なぜ、柔原めいな(前髪の印象の変化のせいか、いまの彼女にはこの名前がまだなじまない。)は猿芝居をはじめているのか。その疑問はおそらく、おおくの人にとっての疑問、「ミザサビテってなんだ?」よりも遥かにちいさなものだろう。
 おおくの芸術作品には、作中であつかわれるテーマよりもおおきなテーマが一貫して隠されているように思われる。それはほとんど意識されず、テーマというよりかは方向性の問題、あるいは、たんに技術的な問題として片付けられることがおおい。それは「平均性」というテーマである。「平均的な人ならこう感じるだろう。」という想像のようなものだ。芸術の可能性はなによりも、このテーマによって縛られているように思う。例え、どのように中間点を逸脱したものであっても、平均性のふれはばにとどまることによってはじめて「成り立つ」ように思われるのだ。平均性という言葉は、すがたのみえない隣人のひととなりを想像するような、よくわからない、実体のみえないものであるが、たしかに存在するとも感じられていて、その限界点をみきわめ、曖昧なグレーゾーンの内側にとどまりつづけることが芸術の条件のように思われるのだった。この思いつきは芸術にかぎった話で、「現実」をあらわそうとする私の小説に「成り立つ」努力をうながすものではない。ただ、「平均性」というテーマは、私にとっても無視できないものなのである。
 「なんですか、ミザサビテって」と姉の声がきいた。せっかくのフォローなのであるが、私には、柔原めいなの前髪をとめるピンの形状が変わっていることが気になった。また、あらためてはっきりと観察されるようになった彼女の眉毛を描写したい欲求がおこり、そして、車窓をながれる森をきりひらいた駐車場が気になった。宿舎のような建物がみえ、窓には名もしらない三人の男性の会話するすがたが、空間の緩衝材を、時間の緩衝材をはさんで私の目にとどいた。そこにロマンチックな意味などなにもなく、ただ、知るすべのないことが、はいりこむすべのない内情をふくむことがらが、次々に、CMのようなスピードでとおりすぎていくだけのことだ。窓に背をむけた柔原めいなは、背後にすぎさった三人の男性のことなどまったく知らず、にやつきを口元にのこしながら、したをむいてだまっていた。耳元の銀色のピンがつよく輝き、わけた前髪の描くラインが髪形と顔面をはっきりと区切っているため、彼女の顔色は、ファンデーションの下地を塗ったばかりの女性のように、吸血鬼のように白くみえた。彼女の視線のさきをみると、手元に、彼女自身の歯形をかたどったマウスピースのような、白い珊瑚のかけらがにぎられていた。あるいはそれは、いびつな貝殻のようにもみえた。柔原めいなは「珊瑚回し」を披露しはじめたのであるが、そんなことはどうでもよく、それより、両手の指先でかるく珊瑚をつかむ彼女の手元のむこう、ピンクのショートパンツをはいた足の崩しかたのほうが気になった。
 シートのうえの、彼女の下半身周辺の印象を一言でいうなら「乱雑」なのであるが、「雑」の「ざ」の濁音のようにかすれた印象はなく、保育室の、おりに囲まれた、乱れたタオルケットや音のでる玩具をころがした、ベビーベッドの印象に近かった。汗をふくためなのか、股間をかくすためなのか、彼女の股間には白いタオルがななめに、右足のつけねを横断するようにかけられていた。左足は中途半端なあぐらのように内側におりまげて、右の太ももとシートのあいだにはさみこむように崩していた。そのため、タオルの位置は乱れ、両太もものあいだのシートのうえに崩れ落ちるようにゆるんでいて、のこりの部分は股間にわずかにかかりながら、右の股関節のむこう、座席とドアの隙間へと落ちこんでいた。また、彼女の背中はシートにもたれかかっていて、腰をまるめるように座っているのだった。このような描写をしたのは、下半身への性的な興味からではない。印象的なものだが、足の崩しかたに、形状記憶的なタオルの乱れかたに、「いまの彼女の気分」と、「いままでのうごきの軌跡」があらわれているように感じたからである。うごきといっても、彼女は座席にすわっているだけで、明確な目的をもったおおきなうごきをしているわけではない。ただ、足を崩してみるとか、足を微妙にうごかしてみるとか、座る位置をわずかになおしてみるとか、からだの気分によるちいさなうごきをくりかえしてきたのだろう。その一つ一つのうごきの集積と、さきほどみた、だらけた、うわついた気分が、タオルのいまのかたちとなって、足の姿勢となって、腰の姿勢となって、全体の調和となって、私に、「こなれている」ような印象を感じさせたのだった。また、このような下半身の印象は、柔原めいなが可愛さをあらわしているときにも、なにかに気をとられて我を忘れているときにも、空腹に不満を感じているときにも、決してみられない独自のものに思われたのだった。
 車窓のすぐちかくには、断面に恐竜の化石をうめこんだような、白いものを混じらせた、斜めにせりたつコンクリートの壁がみえていた。姉の「なんですか、ミザサビテって」の質問のあと、柔原めいなは手元に視線を落としながら、珊瑚回しを三回ほどおこなった。彼女の表情はすこし寂しいようなものに変わっており、依然として手元から視線をはなさずに、「ミザサビテわからないんだ・・・」と、うら声気味の、感傷のこもった声でつぶやくのだった。また、茶番を邪魔するようであるが、私には、壁の白いものが、スプーンでえぐったときの、ちりちりしたカッテージチーズ風の雪のようにもみえていた。そして、おそらく、柔原めいなの「女優志望」の夢は、彼女の未来を思うと、股間に陰毛がはえるように当然のこととして、決して成ることはないだろうと思われるのだった。この場面では、冒頭から柔原めいなは小芝居をおこなっていたようなのだが、その演技は演技と呼ぶには微妙すぎ、また、その意図するところは私にもよくわからなかった。ただ、わかることは、どうしようもなく下手糞で中途半端な演技だったということだけである。しかし、演技にしても文章にしても、芸というものは九割五分、当人の人格的な素晴らしさとは無関係に存在しているように思われ、彼女に才気がまったく感じれないからといって、失望するようなことはなかった。むしろ、彼女が演劇部部長のように、不自然にためらいを捨てた、こなれた演技をみせていたのなら、スポーツ刈りの、ジェルでちょこんとたたせた前髪部分をみたように、猪口才な印象をうけていただろう。
 柔原めいなは、徐々に下方に移動していったように思われる光の反射を顔にうけて、(さきほどの壁は消えさり、真っ白く飛んだ森の葉群れがみえる。)うつむいたままで、単調な走行音とともにみじかい間を(感傷的な表情を)つくっていたが、なにかに気づいたように突然笑い出し、「ミザサビテじゃない、間違えた」といった。その声は、彼女の喉から発せられたというより、バックシートの背もたれのうえ辺りの空間から発せられたようにも感じられた。そして、彼女の声があまりにおおきく変化してきこえたために、私は、柔原めいなとの距離が縮まるたびに、かえって深まっている、感覚の分裂症的な「誰だ」の波におそわれるようでもあった。この声質、この声のトーンは、いったい誰から発せられたものなのか。それは、視覚とあわせて理性的に考えれば、柔原めいなにほかならない。しかるべき音響研究所で声紋分析にかければ、やはり、間違いなく彼女のものなのだろう。しかし、私がいっているのは認識の問題であって、ものごとを事実的にとらえるのではなく、現象的にとらえる態度がそういっているのである。例えば、いつも遊びにくる両親の知人の男性が、トレードマークの帽子をかぶっていないために、子供には誰だかわからない。両親がなんど説明しても、子供は理解しようとはしない。しかたなしに男性は帽子をかぶりなおして、「ほらおじさんだよ」という。両親は面白がって、男性に帽子の着脱をくりかえさせ、「今は??おじさん??」ときくのであるが、それをみているうちに、最初は怪訝な顔つきで反応らしい反応をみせなかった子供がついに「帽子をとったおじさん・・・」と認めるのである。つまり、人は成長の過程で、現象的なもののとらえかたから、事実的なもののとらえかたに移行していくようなのだが、私が、柔原めいなの声に、それにかぎらず、切りとった瞬間の印象に感じる「誰だ?」という感覚は、現象が事実に浸食されていって、なお残った、屈服しない頑固な丘のようなものだった。私の感覚は、一度、徹底的に切りわけられて、まったく新しいものとして、ふたたびつなぎあわされることを望んでいるようなのである。また、そのようなとらえかたでなければ、頭のなかに柔原めいなの雛形をつくってしまい、彼女のあたらしい一面を発見しつづけることは不可能になってしまうだろう。

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 ところで、いまさらではあるが、「ミザサビテ」とはなんなのだろうか。姉の声をとおしてきけば、「ムササビテ」のようなニュアンスも混じっているように感じられた。それにひきずられたように、「ミザサビテわからないんだ・・・」といっている柔原めいなも、「ムザサビテ」といっているようにきこえ、最後の「ミザサビテじゃない、間違えた」で笑い出したときには、歯で舌を巻きこむようにいったせいか、「ミツァツァビテ」のような感覚をともなっていた。もちろん、これらは印象を誇張した話で、実際には「ミザサビテ」ときこえている。
 日の光の反射を白い顔に浴び、歯をむきだすようにしっかりとみせ、からだをまえに折りまげ、笑いころげるように、「なんだっけぇ?ねぇ?」と柔原めいなはきいた。「ミツァツァビテ」と舌をかむようなひびきの印象で発音していたように、彼女の口内の舌は、下の歯の堤防ギリギリまでたまっていた。一芝居おえてもまだうわついた気分は持続しており、「なんだっけぇ?ねぇ?」に無邪気な印象は感じられず、とくに「・・・ねぇ?」には、姉の反応が得られないために、笑いからすこし冷めた、すこし低い、すこし強いものがふくまれていた。また、その瞬間のまばたきには、自然に感情のあふれでる感覚とはちがった、意識のにおいがこびりついていた。姉は依然としてだまっていたために、走行音がむなしくながれ、谷底に落ちこんだ森をさえぎる鉄柵の景色もむなしくながれ、柔原めいながうら声で発した「教えてぇ!」の眉をあげた表情も、むなしく空すべりしているように思えた。私は、車窓にみえる森のなかに、こんもり茂った木々の奥にふと、「清流がながれていたらいいな」と思うのであった。曇り空は晴れたのだろうか。私の目には、昨日よりも、さきほどよりも、光がつよくなっているようにみえた。「教えてくださぁい・・・」と、おちゃらけた小学生が(柔原めいなも小学生なのであるが)、うら声でつくったようなかすれた声がきこえた。全国の小学生にみられるような、このような口調の元ネタの源流をたどっていくと、なんとなく、どこかのPTA会長の婦人にいきつくのではないか・・・と、私はだれにいうでもなく思った。今、あまり直視したくない表情の、柔原めいなの前髪をとめるピンは、たしかに、今朝とは変わっており、それは彼女からみてひたいの右側につけられた、ピンク色のリボンのうえにさくらんぼの芯をくっつけたようなものだった。彼女の服装が変わるのは一日一回でも、髪留めはわりと頻繁に変わるようなのである。
 森はどんどんふかくなっていく。まるで、山のなかを走っているようだった。とはいっても、起伏があるわけではなく、森のむこうに山がみえるわけでもない。たんに、道路よりも一段ひくいところに森林がひろがっているだけだ。さきほどまで視界をおおっていた木々が急にはれて空間がひろがったので、森林がより広大なものに感じられているようにも思う。柔原めいなは今、手のなかの珊瑚を投げ、姉のほうをちらりとみて、首をたてにゆらしながら、表情はリズムをとっているようでも、ガムを噛んでいるようでも、口をかぱりと開けて、空気を噛んでいるようでもあった。私はさきほど、この小説を書きだしてからはじめて、柔原めいなにいやなものを感じてしまったので不安だった。それが私の気分によるものなのか、彼女の気分によるものなのか、それとも、二日目の前髪によるものなのかはわからない。私が相手にしているのは現実であるから、このように突然、(今日は最初からいい印象ではなかった。)主人公がいやなものに思えてくることもあるだろう。それは人間関係でもよくあることだ。しかし、大抵の場合は、なにもかもがいやになってしまうところまではいかず、ながく付きあっている人の印象は、山と谷をえがきながら持続していくものだ。いや、そのように、わかった口をきくのはやめよう。私はどうも気弱になってしまったようで、こうなってくると普段のどぎつい比ゆもかげを潜めるようである。
 「ひとつおてだま」と柔原めいながいう。さきほど、縦長の放物線をえがいた珊瑚のことをいっているのだ。彼女はどんどん少年化していっているようで、さきほどまでは態度の端々が(とくにおちゃらけたうら声の芸が)、いまはもう完全に低目のビブラートのかかった声を発していた。姉をみる目も、すこし細目になっていて、うえからみおろすような、すこしだけ挑むような、ボールを片手にもった少年が「どうだ?やってみろ」というふうに仲間内にみせる態度のようでもあった。もちろん、ただ珊瑚を片手で放り投げるだけの行為にやってみろも糞もなく、彼女の稚拙な~回しにも劣る芸であるのだが、それでも彼女はシートとドアの隙間に珊瑚を落としてしまって、「あぁっ!いぁっ!」というガチョウが潰れたようなふざけた声をだした。そのとき、ほとんど黙っていた姉がひさしぶりに「んふふっ」という鼻にかかった笑い声を発した。柔原めいなは上体を斜め四十五度までおりまげ、シートの隙間に手をつっこもうとしていた。光の加減なのか、一度は真っ白にみえた彼女の顔色とはちがって、そのときみえた左の二の腕、まえにかがむことでひっぱられた黄色いシャツのそでからのぞいた脇は、ほとんど小麦色にもみえた。私は、さきほどまでの、芝居がかった、変に白っぽい顔色にみえた彼女よりも、いまの少年っぽい、健康的な肌の色をした彼女のほうが好きだった。珊瑚を拾おうと首をまえにまげているために、彼女のツインテールは、カニの腹をひらいたときにでてくる「いが」と呼ばれる白い房状のもののような形にもみえ、それは肩にぶつかってうえに、背中にぶつかってゆるくしたにはねていた。後頭部には真ん中でわけた髪の分け目がきっちりとみえ、車外の光をうけてなだらかな二つの丘をえがき、細かい髪のディティールがツインテールの結び目にむかって収束しているのだった。全体としてみると、この瞬間にみえた彼女の脇は、袖のみじかいシャツのうしろがゆるく浮きあがって、背中側がひらいており、その空間のなかに私の視線はすこし吸いこまれた。「どうしよう珊瑚がはいっちゃった」柔原めいなは、からだをおこして、一瞬だけふりかえり、ねずみのような歯をみせていった。たぶん、上唇をちいさくめくりあげるような表情をしたのだろう。困った表情をしていたようにも思う。あまりにも一瞬の表情だったために、感知することはむずかしいのだが、やはり、彼女が唇を強調する表情をみせるとき、異国的な趣をおびるように思われる。また、珊瑚を拾おうとする一連のうごきのために、ふたたびうしろをむいた彼女のツインテールのかたわれ(左側)は、曲線的に墨で描いたように、先細りになった幹に異常に発達した根をもつ木のように、乱れに乱れていた。
 「あ、手ぇとどいた、指とどいた」顔の大半をこちら(姉)にむけながら、柔原めいなは手さぐりで珊瑚を取ろうとしていた。私がこの場面を書こうと思った理由は、このあと彼女が珊瑚を取りだしてみせたときの「イェーイ!」の男の子らしい言いかたにあるように思われる。いままで「少年」と書いてきて、「男の子」に変わったのは、それだけフィーリングに直にうったえかけてくるものがあったからだろう。みわたす大森林はいつのまにかきえ、いまは名もない多種の海草をすべて薄緑に染めたような森が、茂みが、車窓のすべてをおおうかたちでみえていた。白く光った斜面は田んぼのあぜ道のようなものを連想させた。柔原めいなはあごをあげて、こちらからみると、したから顔をみあげる形になり、あごのラインは真っ直ぐにみえていた。彼女の視線は一瞬、姉のほうにむけられ、「あ、手ぇとどいた」のときには、視線は真上にむかってうごき、眼球の白い部分が強調された。当然なにかをみているわけではなく、ただ手先の感覚を感じているだけなのだが、私には、なんとなく、肘までながさのある手袋をはめて、泥のなかに手をつっこむようなイメージが連想されたのだった。ゴリっという音がして、彼女は右手で珊瑚を取りだした。そしてからだをおこすと同時に、手に取ったものを一度宙に放り投げて、しっかりひらいた両手で(片手おてだまよりも慎重に。)キャッチしながら「イェーイ!」と声をあげた。それは、スポーツの得意な少年が、強豪相手ではなく「ちょろい」対戦相手から追加点をうばったときに、仲間内で余裕のハイタッチを決めるような言いかただった。柔原めいなのなかには「可愛いものへの憧れ」があるのと同時に、「かっこいい少年への憧れ」もあるのかもしれなかった。それを、たかが珊瑚を片手で放るだけの一つお手玉で、しかも途中で落っことし、自分で拾いあげるだけの場面で発揮することは滑稽であり、彼女らしくもあり、可愛らしいものなので、私は、ますます彼女のことが好きになったのであった。」そのように、このしめくくりの文章で、胸をかすめた不安の暗雲のようなものを払拭しようと、急速に結論づけるようにも思われた。ただ、これで、月並みなものではあるが、「柔原めいなの好きな男の子のタイプ」が、彼女の憑依的な態度をとおして推測されるようにも思われたのだった。