19 合宿その2




-19-

 半年前の合宿中の二日目。柔原めいなの学校案内がおこなわれ、いくつかのものをみてまわった。図工室では、どこの町工場から借りてきたのかと思われる、人の指はかるく落とせそうなやたら先鋭的な機械や、まわりはすっきりと整頓されているのに、不自然にゴミ箱からあふれかえったゴミや、柔原めいながわざわざ発音しておしえてくれた「炉」なるものをみてまわった。「炉」というのは、私には鉄柵にかこまれた定番のストーブにしかみえなかったのだが、彼女が「なにをするものなのかわからない」というだけのことはあり、「今、炉に火がついています。近よらないで!」のものものしい貼り紙とは矛盾して、本来ならヤカンをおく場所のような、銀色の円柱型の炉の真上には、まるめた雑巾のような布がたくさんはいったボール箱がおいてあり、カーテンごしの日の光におだやかにあたためられているのだった。この学校には、いたるところに、そういうちぐはぐさが充満していた。
 また、夜になると、柔原めいなの視点は女子の部屋へとはいり、男子の部屋にくらべて、きれいに整頓され、布団は各個きちんとおりたたまれているという、なにか作為的なものを感じさせる対比がなされた。そこからは、一日目の夜の少女たちの生活ぶりをうかがうことはできず、入宿当初の、従業員によってすでに用意されたまるっこくおりたたまれた毛布と布団をみるように感じられるだけだった。柔原めいなが部屋のふすまをみながらいった、「ここをあけると、えーと・・・の、外じゃないけど、出ます」という意味深な発言には、やむなく削除されることになったが、男子の部屋の描写中にかかれた「高い窓のむこうのやみ理論」の錯綜した心理が、まだかげを落としているようでもあった。私は、そのように無意識的なひっかかりをのこしてくれる彼女の性格が好きだったが、困ったことに、それに慣れすぎてしまうと、素通りしてみすごしてしまうほどにささやかなものでもあった。
 例えば、誕生日のあつまりの直後には、このようなやりとりがあった。誕生日会の会場で、彼女の父親のぬけた感じともちがうが、それに似た、くだけた、若々しい、のりの良い親戚の男性が「あっ!(主役が)いた!」といいながら柔原めいなにちかよっていった。前回に記述したように、彼女は終始、不快なわけではなく緊張しているだけだが、かたまった対外的な笑顔をつづけていた。親戚の男性が「(誕生日会の)感想は?」と質問すると、柔原めいなは、気づいてみればシーサーをぬりおえた直後とおなじ感想なのだが、表情も、状況も、印象はまったくことなる「感想は、ちょっとつかれました」とこたえたのだった。彼女のうさぎの毛皮のようなタートルネックにはしみ一つなく、私が思わず物象の存在感を不自然に感じたほどに、髪型もみだれなくととのえられ、上品な顔立ちにおなじ笑顔をうかべつづけていた。そのような、先行する外見的なイメージにはんして、彼女のこたえはすこし素朴すぎるように、意外に感じられたのか、「素直だねぇ、わりと」といって、親戚の男性は笑ったのだった。私は、男性の言葉をききながら、そして、ほとんど表情を変化させずに、反応らしい反応をみせずに、「はい」という柔原めいなをながめながら、「そうだろう、素直なんだよ柔原めいなは」と心中で一人うなずいたのだった。徐々に理解されてきたことだが、この小説にとっては、某ウルトラマン少女のような奇矯な面白さなどは必要なく、夜の合宿で、少年少女がいりじまじってトランプをする場面のような、動的なにぎやかさも必要なく、ただ「疲れました」のような、ひねりも面白みもない、しかし真奥の率直さを感じさせるものだけが、じんわりとあたたかいまるいたまのように文中にしみわたって、私の理屈を、ひねくれた感性を浄化し、ほとんど錬金術的に、尊いものを現出させてくれるようにも思えるのだった。
 それにしても、癒し系のパパさんといい、目端のきく親戚の男性といい、なぜ、柔原めいなのまわりの成人男性からは、比較的に、むりのすくない自然体な、良い印象が感じられるのだろう。逆に、合宿中に、真ん中のこげたみたらし風のまるいもちを、うれしそうに黙々と食べつづける柔原めいなのまわりで歓談する母親たちは、なぜ、対外的で、日常意識的なことばかりを、矢継ぎ早に途切れなくしゃべりつづけなければならないのだろう。私の感性は、そこにくつろいだ楽しさをみるよりも、会話の切れ目に空白がうまれると、即、気まずさに変化してしまうために、総力的に穴のあいた船を修繕しつづけ、目的地もなく漕ぎつづけるような、あわただしいものを感じとってしまうのだった。そして、黒っぽすぎるために、もちではなくガトーショコラをほおばっているようにもみえる柔原めいなは、場の会話の卓球ラリーとはまったく関係なく、「ぷぅー。」という気のぬけた効果音をつけたくなるような、のん気そのものな顔をしているのだった。完全にぴったりと接着したジーンズの両ふとももの股間部分には、もちがぼろぼろとこぼれてもいいように、まわりが豹柄でなかが紅色のハイチュウの断面図のような正方形のタオルがしかれていた。回想の継ぎ目がみえないほどにさりげなく登場した「もち」であったが、この小説で、柔原めいなが実際にものを食べる場面をみるのははじめてである。ステーキの場面は、枯れ葉のようにつみあがった肉の切れ端をただ黒目で追うだけであったし、水族館のレストランでガラスのむこうの小魚をスプーンですくって食べるふりをしてみせたのも、ただの御伽噺的なフェイクである。また、合宿三日目の朝食(もちは合宿三日目の昼食)では、右利きの柔原めいなが、トレイのうえの飯をぱくつくすがたとともに、本小説初となる、これもまた右利きの友達のすがたが対面の座席にみられるのであった。
 普通の小説であったなら、ここでバースデーカードをかいた「山藤りるこ」が登場して、一話分ひっぱった伏線を回収するとともに、この小説の構成が完全なその場しのぎではないことを強調するところかもしれないが、おそらく、「山藤りるこ」の本体がすがたをあらわすことは未来永劫ない。むかいの座席にすわっている、すこし色黒の友達は「本谷びくに」といい、柔原めいなとは仲が良く、合宿中の行動をともにしているようだった。この合宿の目的は、結局、私にもよくわからないままに終わるのだが、柔原めいなと本谷びくには、朝食の席の(本谷びくにのほうの)うつわのなかのかき混ぜられた飯と納豆の関係のように、最後はむかいあって両手をくみあわせ、なんども顔をあわせあい、声をそろえながら一体となってしゃべる仲むつまじいすがたをみせたのだった。本谷びくにについておこなった長々とした説明は、あまり、尊いものと関係がないように思われたのでカットしたのだが、簡単に説明すると、彼女は目元のくっきりしたベトナムの少女のようでもあり、きている服は、かならずピンク系統の色がみられる柔原めいなとはことなって、黒と、白と、目をこらせば感じられるかすかな緑で構成されていたために、実際はまったくちがうのだが、私の頭のなかで攪拌されたイメージには、迷彩服をきているようにもみえたのだった。そして、顔のりんかくは三角ベースのようなかたちで、表情筋が主張し、痩せていて、柔原めいなとならんでたつと、拳一つぶん背がちいさいことがわかるのだった。
 また、それとは関係なく、私には、平べったいトレイの皿のうえにのせられた、皿の表面積のわりにちいさな、これもまた平べったい、長方形の一切れの魚が、「簡易宿泊施設の朝食」をあらわしているように感じられ、印象にのこったのだった。私がみた時点での、柔原めいなと本谷びくにの朝食の進捗状況はことなっていたために、茶碗のなかから視線をはなさず、小鳥のついばみのように小刻みに箸で飯をついばみ、すでに茶碗をからにした柔原めいなの食膳と、飯と納豆をかきまぜたまま箸を一時やすめて、朝食のにぎわいに視線をおよがせている本谷びくにの食膳の印象もことなっていた。私の意識にすこしひっかかった四角い魚の切り身は、本谷びくにのトレイにみたものなのだが、柔原めいなのトレイの、つぶれたテントのような、競艇場のモーターボートのような三角の魚の切り身しかみなかったのなら、私はなにも感じなかったことだろう。その印象のちがいは、一日に何度もおなじ髪型を結いなおし、結いなおすごとにかすかに変化する沖縄旅行二日目の柔原めいなのツインテールの印象のように主張のよわいものだったが、目端のきく芸術家の目には確実にとらえられるもののようにも思われた。例えば、三流アニメの食事場面の背景に、ベルトコンベアのうえをプレス機で成型されたチキンナゲットがながれていくような、すべて同型の、気のぬけた魚の切り身がえがかれているのをみれば、その部分にかんしては、そらぞらしさを感じるのだが、逆に、つくりこまれた芸術的なアニメの背景のように、一つ一つの魚の切り身に、パイナップルの木の場面で車窓にみえた、駐車場の車の配置の不規則さのような機微がみられ、それが場面の全体に溶けこんで調和して感じられれば、感動としてとらえられるようになるのだった。ただ問題は、それが視覚的に、ほとんど無意識におこなわれる場合には、こまかいほどに感動となり、文章的に、意識的におこなわれる場合には、こまかすぎることは退屈として感じられるために、表現の形式は本来的に自由なものだったとしても、人間の知覚は自由ではなく、それは形式の制約となってあらわれているようだった。
 それにしても、柔原めいなの友達である本谷びくにという少女を、その表情を、発する空気のようなものをみていても、私の感覚の食指はほとんど刺激されないようであった。柔原めいなにくらべれば、一段階か二段階は、堅実な意味での現実よりの存在に思え、その色彩はもっと直接的だった。また、柔原めいなの心理的な側面についても、徐々に、つっこんだ考えはおこなわれなくなってきているようにも思え、例えば、冒頭の教室の場面で、彼女が、「教室のストーブ」を「ストーブ」としてまったく認識しておらず、貼り紙の赤い文字を鵜呑みにして「炉」と呼んでいたことも、小説の最初の数話のような考察はおこなわれずに淡白にとおりすぎているのだった。
 いま、あらためて考えると、彼女は、「炉」にかんする認識も曖昧だったために、貼り紙の説明書きから「火をつけて使うもの」、「近よると危ないもの」、という情報をうけとっても、目の前の物体(ストーブ)の形状と、教室という場所をむすびつけて、一つのまとまりあるイメージを思いえがくことができず、「なににつかうものかわかりませぇん」といったようなのだった。もし、その辺りから神秘を感じる部分をさがすとしたら、それは彼女が、しっかりと区切って、ぽっと口火がともったような言いかたで発音する「炉」という言葉であり、おりに囲まれたスターウォーズの円筒型ロボットのような「炉」なるものの、用途、実態にかんして、彼女が「想像することも可能だった」はずの、こんがらがった奇怪なイメージである。しかし、直前に、「ゴミ箱あふれてますねぇ、ヒャハハッ」と、思春期にちかづいた少女に特有の、まだよわいが、嘲笑と残酷さの萌芽のようなうら声の笑いを発していたことからもわかるように、そのときの彼女の気分は、そのときの教室とおなじに、日光にぬくめられた色調のように弛緩していて、まったくものにこだわっていないのだった。たしかに、そのように心理を考えてみればいくつかわかることはないでもないが、私が心の奥底で「彼女はそこまで想像しないだろう」というようなものをフィーリングで感じとるようになっているので、私の想像と彼女の想像を完全にとりちがえる、想像の暴走のようなものはおこりにくくなっているのである。私はそこに「平然」という悪魔的な、不吉な言葉のにおいを感じとるが、なににもまして、私はむりをしてはいけなかった。
 おなじように、女子の部屋のふすまをみていった、「ここをあけると、えーと・・・の、外じゃないけど、出ます」という発言にかんしても、高い窓のやみ理論の簡単な応用問題のようにすませてしまったのだが、事実、「ここをあけると、廊下にでます」ときっぱりいいきれるほど、彼女の頭のなかには周辺の地理のイメージが明確に思いえがかれなかっただけのように思えたのだった。そこに空間歪曲的な夢を思いえがくことは容易いことであるが、おそらく、彼女の頭のなかに浮かんでいたのは、切りくずされたガトーショコラのような、廊下の消失した校舎の断面図の3階部分にその先の足場もなく浮かんだ四角い出口ではなく、「右、右、上、下、右、上」のような一定の道順でしか目的地に到達することのできない、マップ作成の労をおこたったゲームのなかの迷宮のようなものでもなく、一階の玄関の映像と、いくつかの廊下の映像と、階段の映像と、それらのイメージを論理的に配列できないという迷いの感覚しかなかったように思ったのだった。そう考えれば、ものごとはいかにも単純になってしまうかもしれない。しかし私は、彼女がたてつづけに形のちがうピンクの上着をきていたからといって、「めりはりがなく、記述もしづらいため」に上着の色を変更することはできず、また、その上着をまったくおなじものとしてあつかうこともできないのだった。それから、現在の印象をあらわす比ゆに、過去の場面の印象をもちだすことの一つの効用をみつけたのだが、それは瞬間の印象を、起こったそばから立てつづけに忘れていくのではなく、つねに「全瞬間的に」とらえようとする意志につながっているように思えたのだ。感性の老いた人は、いまをとらえるために過去のイメージを流用しつづけるために、連想はなにごとも昔語りにつながっており、「昔話○○さん」のような不名誉なあだ名を頂戴してしまい、逆に、いまを生きる柔原めいなのような少女は、おこったことも、沖縄旅行中の恥ずかしい挙動も、意識的にはまるでなかったことのように、つぎつぎとわすれ、脱皮をくりかえして、大人の顔になっていくように思えるのだった。「全瞬間的」なもののとらえかたとは、そのどちらともとおくはなれ、同時に、そのどちらでもあるもののように思われた。いわば、「完全な狂気」とか「悟り」と呼ばれるものなのだろうが、そのような呼びかたをつけるほどに、世俗的な、限定的なイメージが先行していくだけのものでもある。例えば、柔原めいなの黒髪が「さらさらしている」ことはいままでになんども感じられ、その毛先は、私の鈍磨した感性の鼻のしたをくすぐり、表現をひきだそうとしているようでもあったが、私は、一度も「さらさらした髪」と書いたことはない。それは、まったく注意力をはたらかせなくてもわかる、犬のぬれた鼻先につきつけられたパンのようなイメージにすぎないと思ったからだ。そして、最近思うのである。私の脱線は、柔原めいなとほとんど関係のないことのおおい、退屈な、欠点であり、悪癖でもあるのだが、もしそれを起こすだけの遊び心と、実力も実績もともなわない、過剰な信念のからまわりがなくなったときには、私は、叙述する機械のようになってしまい、この小説のなかにかろうじて息づく、はかない、生きたものは、完全に、「死ぬ」。それが、場面のなかをとおりすぎる、柔原めいなが、彼らが、誰が、どう生きたとしてもやがて死ぬことのように、はっきりとわかるのだった。
 そして、この話では、場面が順番にえがかれず、回想の輪廻転生のようにぐるぐるとまわっているように思うのだが、私の記憶はふたたび、誕生日会の柔原めいなへともどり、つるつるしたポスターの裏側にピンクのマジックで落書きをする彼女の左手が、やはり、合宿の朝食のときにみた本谷びくにの、黒っぽい、極端にいうと、爪のつけねの関節の部分で切断したような、指のみじかい、ちいさいが、全体にふくれているようにみえる左手よりも、はるかに芸術的に、美しく感じられるのだった。彼女がかいているものは、胴体の異様に肥大化したおたまじゃくしのような目をもつ猫のイラストで、これだけでは彼女の画才ははかれないのだが、合宿のしばらくあとでディズニーランドにいったときにみられる、宿泊したホテルのメモ用紙にかいたミッキーマウスのイラストは、例の鍵カッコでくくられるネタ化しつつある少女の絵よりは、ずっと上手なものに思えたのだった。
 その場面での、ホテルの窓からみおろす前庭の植物は緑あざやかに晴れあがり、それをながめる父親の目線をさえぎるようにイラストをみせる柔原めいなは、「うんふふふん、ふふふーん!」と、照れくさそうに、うれしそうに笑ったのだった。その笑い声は、腹から発し、鼻から漏れ、沖縄旅行一日目のベッドのうえの彼女の笑い声のように、喉奥をとおりすぎる声が若干あえいでいるようでもあった。着せ替え人形のようにお洒落な服をきて、可愛らしい格好をして、おおくの人のまえにでる場合には、こわばった緊張はしても照れはまったくみせない彼女であるのに、なぜ、たかが絵をみられそうになるだけで、顔を赤くして、重力が真横にかしいだ愉快なこんにゃくのように、机のうえに腹ごともたれかかるのか。私には理解できないことでもあったが、ようは、これは、みられることの慣れが足りていないことと、意識的洗練、感覚的洗練が足りていないことの問題にも思えた。しかし、不思議なことは、絵にしてもほかの表現にしても、表現の洗練によって、より「自分を的確に表現できるようになる」はずであるのに、逆に、人は、柔原めいなのミッキーマウスのような、自分の本来の個性的なものがまるで表にあらわれていない、不恰好な、つたないものにこそ、たんに「下手だから」という技術的なことをこえて、むきだしの顔面がそこにやどっているような自己投影的な羞恥をおぼえるように思うのである。このことをもうすこし突きつめて考えていってもいいのだが、私は、単純に、柔原めいなの、ながくみせようとはせず、すぐに紙をひらりとひるがえす手つきにあらわれる態度と、気になるところを加筆していったために、耳が、鼻の輪郭線が何重にもかさなり、手の腹の影響でメモ用紙自体がよごれた、「ミッ○ー」という文字のかかれた黒っぽいイラストが、可愛らしく、好ましいものに思えた。それに比べれば、書きつづけることによっておこるこの小説の文章的な洗練などは、当人にとっては、無感動な、無表情なつまらないことでしかなく、もし塗りつぶせるものなら、柔原めいなの、ひさしぶりのにやけた蒟蒻ゼリーの態度と、得意気な表情と、照れくさそうな表情と、嬉しそうな「ふふふーん!」の声と、ホテルのペンのインクで、もう文字など読めないほどに、この小説の輪郭をめちゃくちゃに加筆して、白い余白は黒くよごし、すべての記述を塗りつぶしてほしかったのだ。