22 キタキタキタ




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 柔原めいなは、狂人でもサイコパスでもない。したがって、長い髪はいつの間にか、この一週間のあいだにか、切られたのかというほどに、別人のように、隙なくととのえられ、まるで老いることも、突然テロリストに射殺されることも想像していないような、それでいて合宿のときとは顔立ちが変わってしまったかのような、表情をし、かなり裕福であることが判明した彼女の服装は、ぎっちり挟み込まれたハンバーガーのなかのレタスとチーズのように、きわめて常識的に、常備的に、デニム素材でかたまっており、彼女の普段の生活が規則正しく安定したものであることを余人に感じさせるのだった。このような文章はいくつかの要素が複合的にいりみだれてるために、よくわからないものなのだが、もっとずっとわかりやすく記述されたカラオケ~ショッピング~自宅初公開~恵方巻き~愛猫初公開の回が、機材トラブルによってなかば失われてしまっているために、その余波をうけて、後列のいくつかの情報のタスクがぎゅっと圧縮されるかたちになっているものと思われるのだった。いえることは、彼女は、徹夜三日目の泥酔者のような危ない顔つきでロブスターの幻覚を追いかける薬物中毒者ではなく、全身に南米産の高級で巨大な甲虫を這いまわらせて性的快楽を得るような変態でもなく、また、C・W・ニコルのような、柔原めいなの十数倍もすぐれた感性をもち、ゆたかな内面世界をもつ「物知りな男」でもないということだった。彼女の顔面や、デニム素材の上着の胸元には安全基準マークのようなものが貼られており、それが表面的なことにすぎずとも、まったくその前提によりかかったうえで、すこしだけ幼い似非ラッパーのような「調子こき」を混ぜたような表情で、ディズニーランドに向かうモノレールを待つ駅のホームに立っているのだった。髪を真っ直ぐにおろした状態は、合宿のときにもみたはずであるのに、なぜ印象がまったく違っているのか、本当に髪を切ったのか、珍しく黒系統で「悪く」あるいは「ハードに」決めているせいなのか、しかしなぜ、節分の日(カラオケの日)から一週間足らずで、いつものような表情の変化だけではなく、「顔立ちまで」変わってしまっているようにみえるのか、私にはわからず、もはや、わかろうとする気もおこらず、前回のショッピングモールをいく赤い上着のうなだれた男性のように、ただ無力に「被弾」しつづけることしかできないのだった。しかし、極端にハードにみえた今の彼女の黒い上着のプリントも、よくみれば「SWEET」の文字の「EE」のうえにサクランボのイラストが乗っている軟弱なものであって、左側に目をやれば胸ポケットに隠れるかたちで「GIRL'S」とかかれており、彼女の表情がいつもよりクールを意識したものであるなどとは、私の思い込みであって、左手にピンクのかばんをさげながら、運動会のダンスの振り付けがわからないためにホーム上をふらふらと回ったり歩いたりしているような彼女は、いつも通りに屈託なく笑っているようにも思えるのだった。しかし、動きまわる彼女にくらべて、モノレールを待つ周囲の人々は書き割りのようにほとんど動かなかった。ただ、そのなかに二人みえる子供のうちの片方の、すこしはなれた位置にみえる柔原めいなの半分強の背丈しかない子供が、意味もなく両足をふりあげて前進と後退を繰り返し、柔原めいなよりも上手に、主体的にダンスに参加しているようにもみえるのであった。しかし、いうまでもないことだが、このホーム上でのダンスの全体的なテーマは「静止」である。
 なぜ、柔原めいなの見た目がおおきく変わってしまったのか、それはたぶん、静岡から千葉まで一気に移動したために、「富士山」関連の地理的な突端部の減退の影響もあってか、気圧の状態が変化したためにおこった、顔面の「むくみ」のようなものが原因のように、私には思われるのだった。しかし思えば、彼女は「これから」ディズニーランドに向かうという車内の段階においてもおなじ顔をしており、おそらくは、南極の氷山の大規模な崩壊のようなものがおこって、その影響で、一週間前にくらべて日本全体の気圧が、あがるか、さがるかしたせいにも思えるのだった。私は、小説中で、些細な感覚のひっかかりから適当に推測してみたことが、あとで調べてみれば「本当にそうだった」ことが、今までに何度も体験されているのである。また、私の状態・気分によって、場面のもつ固有性とは関係なく、場面から発見されるものが、右にも左にも、蛇にもマングースにも変化してしまうことにかんして、見逃してしまった一切の微妙なことがらを「もったいない」と思うと同時に、C・W・ニコルのような人物は、北極海をロールスロイス製エンジンを積んだレモンの種のような船でいき、鯨の脂肪肉でハンバーグをつくり、密猟者を空手技で返り討ちにしてうっかり殺害するような、魅力的な、豊かな体験をもちながらも、全人生をまるごと「どぶに」捨て、そのことにかんして一切の痛痒をおぼえずに、逆に満足しきって、良い酒を飲み、美しい想い出をふりかえり、ときに俗世間への説教をたれながら、のん気に牡蠣のビン詰めピクルスなどを作っているようにも、私には思えるのだった。そして、柔原めいなの、小学生の作文のような、鍵カッコの彼女の祝福メッセージのような内面世界にくらべれば、感性の玉手箱のようにも思えるニコル氏の内面世界が、片一方で、なぜ、微笑ましくも、単純すぎるようにも、いつも手首一つ分とどかない寸止め空手のようにも、挿入一歩手前で勝手に射精する百戦錬磨の童貞の性行為のようにも思えるのか、そして、あらためて、なぜ私は、感性においてニコル氏よりもはるかに劣るはずの柔原めいなに驚嘆の念をおぼえているのか、急に、ものごとの尺度が狂ってしまったような感覚におそわれ、不思議に思われるのだった。
 モノレールを待つ柔原めいなの心情はいつもより浮き足立っているようだった。それは「今からのりまぁぁぁす」の「ぁぁぁ」が山羊の鳴き声のように震えてきこえたことからもわかる。合宿のストレートにくらべても真っ直ぐすぎるようにみえるせいか、間奏に髪をまわすすがたは、静岡つながりでいえば、針のようにとがった黒い「玉露」の茶葉がパラパラと落されるようだった。もしかすると、いつもは純粋な黒髪ながらも、副色をあえてえらぶなら、心理的補正で茶系統がえらばえるところを、めずらしく灰色がえらばれているのかもしれなかった。あるいは、銃身の金属にみられるような青みがかった黒のようにみえているのかもしれず、あらためて彼女の髪から「青」を見出そうとしたが、それは感覚的な先走りで、どちらかといえば、灰色と茶色が見出されるだけだった。いえることは、床も、ホームわきの転落および接触防止のついたても灰色であって、柔原めいなの服も例外的に黒であるために、この場の印象は、曇り空とはまたちがった、ごく平常の日の光に照らされた、明るい粘土のような灰色となっており、その影響は髪の副色にもおよんでいるようなのだった。意味もなく軽いスキップで父親にちかづき、顔面の光度を強調しすぎたような笑顔をみせ「はいっ、ばいばーい」といって去っていく、やや浮きあしだった、上機嫌の柔原めいなであったが、彼女はこのあとに、沖縄旅行におけるホテル到着時の、私の胸を痛ませた、「わーすごい!」の再来ともいえる表情を、今度は声だけではなく、本当の表情をともなってみせることになるのだった。確認したわけではないが、おそらく、「モノレール到着」という出来事にたいして、周囲の乗客、および駅員をふくめて、もっとも過剰な反応をみせたのが柔原めいなだったのではないだろうか。
 「皆さんおはようござーいまーす、皆さんに、お知らせします、ご乗車の際は…」という、灰色のしきりのまえに立つ、女性や子供が多くみられるせいか、頭一つ二つ飛びぬけて長身にみえる青い長いコートをきた駅員のアナウンスがひびいた。こちらに背中をむけて、ホームの奥、モノレールがくるはずの方向をみていた柔原めいなは、まず左方向に素早く頭を回転させ、口をおおきくひらき、右方向のややうえ(おそらく、母親の顔の辺り)をみて「キタ、キタ、」とちいさな叫び声をあげ、間髪いれずに父親のほうをみて「キタ!キタ!キタ!」と興奮した様子をみせたのだった。このときの「キタ!」の数は、素早く大量に発射されたために、それが5回であるか、6回であるか、私にも正確に数えきることはできなかった。このときの彼女の表情は、「再来」とはいったが、もともと妄想でしかない「わーすごい」の表情ともまたちがっていて、例えるなら、希少な限定商品を買いにショッピングモールに長蛇の列を作っている異様な熱気をもつ人並みのなかの人物が、限定された視界と情報網のなかで、前方にちいさく店員がなにかを撤去しているすがたをみて、つづいて周囲の人並みが動きだすのをみて、「(店が)あいた!あいた!」といいながら走りだすときの表情のようでもあった。そのような盲目的なあわただしさは、やはり私の心を傷つけるのだが、柔原めいなの表情は、高級ブランド商品のつかみ取りのような修羅道にくらべればずっと平和で、サンリオを熱愛するミーハーの子供が、サンリオの専門ショップをはじめて訪れ、店内にびっちり並べられた品揃え(バッジ、メモ帳、ペンなどの、それ単体ではたいしたことのないもの)に感動するようでもあったが、わざわざ「サンリオ」を引き合いにだす意味もなく、この場合、彼女が心待ちにしているのは「ディズニー」であって、「車体にミッキーマウスのかかれたモノレール」なのだった。いざモノレールが来ると、それは金属が剥き出しであるかのような銀色の車体に、三つの黒い円を融合させたミッキーマウスのシルエットが、窓と窓のあいだに、えがかれているだけの素っ気ないものなのだが、ゆるやかになっていくモノレールの速度とは逆に、「お客様とびらからはなれてくださぁ~~い!」といいながら、加速度をつけて前を駆けぬけていく駅員のいきおいとも、さらに逆に、柔原めいなは、さきほどとくらべれば完全に白けた笑顔で、駅員を目で追い、父親の顔をちらりとみて、ふたたび車体をながめて、一言も言葉を発しなかった。
 しかし冷めやすくまた熱しやすい彼女であるから、それがなにかの痛手になることはもちろんない。早口で、車内の雑音にまぎれているので、モノレール内の柔原めいなの喋っていることはほとんど聞き取れず、「…ねぇ?わかった?んふふ」「あ、みてみてあのねぇ、右が、右が…」「ほとんど…あれ?…のところで、皆おりたから、空いた、さっきは満員でぇ、満員だったけど、空いた」くらいしか聞き取れなかったのだが、その雰囲気、態度はやはりラッパーのようにも思え、立てつづけのお喋りと、ときどき不自然に目をみひらく表情は、彼女のテンションが高いことを意味しているのだった。また、この小説中に文字として書かれる彼女の発言などより、聞き取ることがまったくできないために書くことのできない発言のほうが、よっぽど「発言」をあらわしているようにも思えるのだった。なぜなら、車内で交わされる会話のようなものは、誰にとっても、たいして中身のない、耳を通りすぎていくだけの「雰囲気」に過ぎず、意味を抽出して取り出すような真似をすれば、たちまち「死に体」に変わるようなものだからだ。すっかり空いた車内で、柔原めいなは嬉しそうに、こちら側の座席から反対側の座席へと、両手をひろげて身を投げだすような素振りですわったのだが、私とて、「ディズニーランド」ときけば楽しみに感じないわけでもなく、というよりも、はじめはそれほどでもなかったのだが、こうしてモノレールに乗り、…空間的な制約から判別が難しいのだが、ハート型にくりぬかれているようにも思う窓から、おそらく海を、おそらく、シンデレラ城のような建物のあつまる敷地の一端を目にしたなら、自然と気分は盛りあがっていって、また、さきほどの車体のミッキーマークにしても、そういうつまらないことの一つ一つが、知らず知らず、徐々に気分を盛りあげ、期待感をつのらせる効果をもっているようで、柔原めいなとともに、ディズニーランドに入っていけないことを残念に思うのだった。そういう意味では、私は、出発前は冷淡にふるまい、さんざん腐してもいたくせに、現地に到着した辺りから徐々にテンションがあがって、結局は誰よりも楽しんでいるのではないかと思われる種類の人間に属しているのかもしれなかった。しかし、時空間的な制約から、私は決してディズニーランドに行くことができない。集中すれば集中するほどぼやけていく夢のなかの映像のように、モノレールの車内の時点で背景はぼやけており、気がつけば、ホテルの部屋まで飛ばされているのである。