24 ハイブリッド




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 水泳の後、柔原めいなは絵を描き始めたのだが、そのときは何も描いていなかった。メニューを取りにくる給仕のように、斜め下を向いて何かを書き足していたようだったが、それでも当人が証言するように何も描いていなかった。もしかすると、父親の傍によって書き足しをおこなうあいだに、その絵は人に見せるほど出来の良いものではないことに気づいたのかもしれなかった。まさかエア水泳に続いてエア筆記をおこなっているようには、そのような演技の素振りには、まったくみえなかったのだ。彼女がきているのは、水泳のときとおなじく、灰色の、フードのついた、首元までジッパーを引きあげた、左の胸元にピンクの細いペンを優雅にすべらせたようなサインのみえるパーカーで、それは、翌朝のチェックアウト間際の場面でもきているものなので、おそらく、今夜の寝巻き代わりに使うものと思われた。この時点(水泳の直後)では、まだアイロンの効果が継続しているように、衣服のたるみもないためにフラットな胸元と、すこし角ばってみえる肩をしているのだが、それは翌朝には失われており、チェックアウト間近の、まだ出かけるための着替えをおこなっていない、ただ後ろでまとめただけのポニーテールと、飾り気のないベージュのスラックスのせいもあるのか、パーカーは全体にゆるんでみえ、最初はおなじ色の別の服にもみえたのだった。柔原めいなの胸元のピンクの文字の、二段目の頭にすこし大きめの「y」か「j」の文字がみえることはもう書いただろうか。文字の右側に、緑色でふちどられた白いさそりのような図柄がみえることに後から気づいたことは、記述の一方通行な時間の制約から書かれなかった。また、彼女の胸元のジッパーは高速道路のように真っ直ぐ伸び、鎖骨と鎖骨の間に寝そべっていた。柔原めいなのもつ長方形型の黒いメモ板は、本当にレストランの給仕がメニューを書きつける板のようにみえた。それをみる、目を伏せた彼女の顔は、角度のせいなのか、低めの鼻筋が珍しく主張してみえ、大人っぽくというよりかは、別の誰かの顔のようにもみえたが、そのような瞬間的な印象は、当然のことながら、ペンを走らせている当人には意識されようがなく、また、父親の注意をひくようなことでもなく、誰の「所有物」であるのか、はなはだ不明瞭だった。彼女の左右の肩に落ちた、水泳の余波で乱れた、しかし全体の印象としては外行きの基調の残った、ただ結んだだけの翌朝のポニーテールよりも整ってみえる長い髪も、前述の灰色のパーカーも、誰かが「所有」しているというよりかは、例えば、「理念なき科学」がそうであるように、事物から引きだされ得られるものを、(この場合は、もっとも正当な所有者と思われる柔原めいなが)「利用」しているに過ぎないように思われるのだった。あらためてみれば、やはり、確実に、彼女は何かを書いているようにしかみえなかった。しかし、メニューを胸に押し当てて、ベッドの上に戻っていった彼女が「何もかいてないよぉ~」と言う通りに、何も書いていないようでもあった。彼女が最初に、ベッドに座りながらエア自転車をこぐような足つきで、「はいっ、いま何をかいているでしょ~、っか?」の「っか?」で立ち上がって、リズムでいうスタッカートのように「タッ」と両手を広げてみせた、このクイズの答えは、A.「何もかいてないよぉ~」になってしまうのだが、このふざけた答えにたいして、どのような哲学者も、どのような名探偵も、当然ながら私も、メモ用紙を覗きみることは叶わないために、たかがこんな事例一つとっても、何ら確証を得ることは出来ないのだった。しかし、ダンススクールの罰ゲームでは、「なにかのお笑い芸人の真似でもするのだろう」という私の予想通りに、他の二名の少女とそろって「そんなの関係ねぇ!」という一発芸をみせた、彼女の単純な思考と発想力から推測して、描かれているものは、翌朝のミッキーマウスのイラストの予行演習のようなものにも思われるのだった。今が曇っているという意味ではないのだが、不思議と真っ白な窓も、翌朝はよく晴れた外の景色をクリアに映しだし、その印象から、この擬似エア筆記を前日と仮定した場合の、運動会の「本番」には相応しい日取りにも思えるのだった。とはいえ、この時点で父親が答えた「…かな」という答えは、因果の制約から聞きとることができないのだが、もしかすると「ミッキーかな」であったようにも思え、つづいて、柔原めいなはペンを振って、図星ならまず有り得ないような素っ気なさで「ぶっぶー」と否定しているために、結局のところ、彼女が何を描いていたのかはよく分からないのだが、この際、ミニーだろうと、ドナルドだろうと、グーフィーだろうと、シンデレラだろうと、その推測は大した問題ではないようにも思えた。どちらにしても、私がそれをみることは未来永劫ありえないだろうから。今から、過去の虚像ではない「本体の」、もうほとんど大人に成長している「柔原めいな」をつかまえて(どこかに、いるのだろう。)問いただしたのなら、昔の些細なことであるから、明確な答えはもらえないまでも、当人にしか不可能な別角度からのロジックの推測がもらえるのかもしれなかった。しかし、おそらく、その推測は、当人のものでありながらも、銀河系のはるか彼方の惑星ほどに、過去の柔原めいなからは隔たったものに感じられるように、先んじて想像されるのだった。この場面で発せられた「何もかいてないよぉ~」というふざけた答えは、それが嘘であっても、何も明らかにされていなくても、それ以上でもそれ以下でもない「的確な答え」であるようにも思え、私が、それを重んじたいと思ったために、「どうみても何か描いているのに、彼女の発言通りに何も描いていない」という、この段落のダブルスタンダードな認識を生みだしたのだった。
 その夜、両肩に、冬篭りにそなえるうさぎの二本の耳を垂れさげたような、ピンクの分厚いマフラーをまいた、外行きの格好の柔原めいなが、おそらくホテル内と思われる場所を移動する際には、「かつ主」もしくは、「かう主」とも読める、正方形のチョコレートのような店の看板がみえ、それが唯一、周辺の情報に欠けるこのホテルの所在地をあらわすものに思えたのだった。店の窓ガラスは、すこしゆがんで黄色がかった、西洋の古いくすんだガラスを模したもので、誰に指図されたわけではなくても、ステーキ屋とおなじく、飲食店の多くが「レトロでお洒落な」雰囲気を、共通のデザインコンセプトとして持っているようにも思われたのだった。窓を通しみえる照明も判を押したように暖色系で、また、輝度をおさえた多数の間接照明というコンセプトもおなじで、はなれた位置からちいさな窓を覗きみているにもかかわらず、天井だけでも四つ、丸い光が縦に並び、くわえて、窓の傍の低い位置には、すこし傘のようにひらいた円筒形のライトが点っているのがみえた。このような灯りを点すくすんだ窓の傍に立つ、首元まで厚着をした柔原めいなをみると、雪の降り積もる北国の望郷的なシチューのコマーシャルが連想されるようでもあった。例えば、俳優の緒形直人が、子供(夢かなって女優となった柔原めいな)と一緒に雪だるまをつくり、家では、奥さんか、姉か妹か、幼馴染かは分からないが、わけ知り顔な笑みを浮かべる女性がシチューをつくって待っている。その山腹の暖色のコテージのような家に、日が暮れるとともに、雪だるまを作っていた二人は帰っていく、そのようなコマーシャルである。
 翌日、ホテルのチェックアウト間際にミッキーマウスの絵をかいたあと、帰りの車に乗りこんだ柔原めいなは、何事も、すべて何事もなかったかのように最初(ディズニーランドを目指し、出発した当初)の「顔立ち」に戻っていたのだった。車中の柔原めいなは、彼女が「プチプチ」と呼ぶ黄緑色の携帯ゲームで遊んでおり、それは連打すると、当たりをひいたような電子音が鳴り響いて、100回押したことの合図であるらしかった。八年とすこし前のことであるから、何かと情報が古いのだが、茶碗などのこわれものをつつむ、空気をふくんだ突起のたくさんついた緩衝用のビニール梱包材が、ストレス解消というコンセプトか何かで玩具化され、一時的なブームを引きおこしたことがあったようにも思いだされ、彼女が遊んでいるのはそれなのではないかと推測されたのだった。しかし、彼女の場合は、押す際の感触を楽しんでいるというよりかは、ただ素早く連打して回数を稼ぎ、電子音が鳴ることを楽しんでいるだけのようにもみえ、表面に六つばかりのボタンを並べただけの玩具で遊ぶという行為は、子供がストップウォッチや電卓を玩具代わりにして遊ぶ行為に近いか、それよりもさらに味気ない行為のようにも思えたのだった。おそらく、それは学校のクラスで少なからず流行っているものなのだろう。本谷びくにも、名もないクラスメイトも、押すたびに指の腹の細胞を多少は死滅させるこのゲーム機を、学校で、登下校中に、遊び場で、友達の家で、自宅で、寝る前に布団のなかで、それぞれが何万回、何十万回と連打しているのだろう。その動きはクラスだけではなく学校中に、そして、柔原めいなの平凡な気質と、商業的利益のからんだ小学生の流行という性質から考えると、例外的に局地的な流行というのは考えづらいから、結局は日本中にひろまっているようにも思われるのだった。柔原めいなも含めて、日本中の無数の人々の、半自動化された莫大な連打行為を想像すると、もはや個々の「連打」の意味や動機などは消失し、それをはるかにこえて、総体としては、さざめき、うねり、宇宙にむかってたちのぼっていく一つの巨大な「願い」のようなものにも思えてくるのだった。そのイメージには、幾千万の屋根や、「ミーム」という言葉や、日本列島が身をおこし龍となって天にのぼっていく(すべり落ちた地表がばらばらとこぼれ落ちる)「YAIBA」という漫画の一場面が付随して想起されるようだった。これは「前書き」に書かれたことと似ているところもあるが、重要なのはスケールのおおきいイメージそのものではなく、そのイメージが極小の(等身大の)柔原めいなから敷衍して発されたことにあるように思われるのだった。
 今朝のホテルの時点でわかっていたことだが、この日は今までになく天気が良かった。「プチプチ」をやる柔原めいなの手元の袖口には日の光のラインがくっきりとみえ、また、彼女の下半身には、火の海のなかに飛びこもうとする貴婦人のきこんだ耐熱スーツのような厚手の布がかけられていた。うっすらとにじんだ薔薇のようなものがみえるそれは白く、長袖のシャツも白く、日の光も白く、反射光をうける柔原めいなの顔も白かった。彼女が車中で下半身に布をかける意味は、露出した太ももを隠すためのようにも思われていたが、行きはジーンズをはき、今朝は寝巻き代わりのスラックスをはいていた、夏でもスカートはあまりはかない「お堅い」彼女が、今、この真冬に、ブランケットの下ではスカート、あるいはショートパンツをはいているのかどうか、判別はつかなかった。もし、彼女が行きの車中とおなじく長ズボンをはいているのなら、この膝掛けはたんに「柔原家の慣習」なのかも知れず、あるいは足を隠す意図でしつけられたことを彼女自身が理解していないか、理解はしたが、それとは関係なく習慣化してしまったのかもしれなかった。そのような指図を下しそうな例の人物はといえば、珍しく助手席ではなく、柔原めいなの奥(左隣)に座っており、微動だにしないからだがすこしみえていたのだが、その左手はなぜか「はい、鍵。(ちょうだい)」あるいは、「はい、金。(よこして)」といわんばかりに、指を不自然に真っ直ぐ伸ばし、差し出した状態のままかたまっているのだった。その人物は、今朝の場面では機械的な手つきで出発の準備をしており、父親の「めいちゃん、今なにかいてる?」の声に反応して、ごくわずかに顔だけを(背も、首も真っ直ぐのまま)柔原めいなの手元にかたむけたときにも、まったく覗きこむことはせず、無言で、すぐに関心を失ったように準備を再開させたのだった。そして、イラストに沈みこむように前傾で(椅子の左の肘掛けに太ももの付け根で腰かけて)没頭状態をつづけていた柔原めいなが、誰かにみせようと思ったのか、メモ用紙を左手にとり、晴々した、室内の光と息を同時に吸いこむように浮かびあがった笑顔で、まず「その人物」が「いるはず」の方向に顔を向けたようにみえたのだが、そこには最初から空気しか存在していなかったようにもみえたのだった。というのも、柔原めいなはすぐに、真横からの父親の注視に気づいて、そちらにむかって「おおっ」という声をあげ、以前にいった「重力のかしいだ蒟蒻」のように、机の上にソフトなヘッドスライディングを決めたからだ。ようするに、平常、柔原めいなにたいしてあまりにも無関心すぎるように思える母親の話をしているのだが、同時に、その冷たい空気をまったく感じていないような、気後れのない、明るさ純度100%の素振りで、かといって後追いもせず、絶妙に「なかったこと」のように受けながす柔原めいなの態度も不思議なもののように思われるのだった。前回に反省したばかりなので、意図や一方的な解釈をまぎれこますことは本意ではないのだが、柔原めいなが、(おそらく、まず母親に)絵をみせようと顔をあげたときに、「すでに母親は席を立っていた」のではなく、視線の先に、母親はまだ「いた」ように、私は思うのだ。しかし、今、車内の奥で死後硬直中の母親のように、その態度からコミュニケーションの「コ」の字の、糸口さえも見出せなかったために、柔原めいなは、最初はそちらに笑顔をむけながらも、「ねぇ」と口をひらく素振りさえみせず、父親のほうに意識を移したのだろう。
 車内に話を戻すと、後部座席には、左から、母親、柔原めいな、そしておそらく姉の順番ですわっているために、沖縄旅行の姉妹二人がけのときよりも、座席の距離は縮まってみえていた。本谷びくにの服が強引に「(ベトナム戦争時の米兵の)迷彩服」に結びつけられたように、柔原めいなの白い長袖のシャツは、私の頭のなかで「アメリカの国旗」に結びつけられてもいた。それは胸元の濃紺の、ちいさな白い水玉模様のはいったリボンが、星条旗の、州の数だけきざみこまれた星の部分を連想させたからである。胸の中央にはピンクの円(この赤系統の色も、星条旗の連想に関係しているように思われた。)が描かれ、そのなかには、両手をあげたバレリーナのシルエットが踊っているのだった。行きのモノレールの頃の髪型の印象に戻って、やはり、前髪を切りそろえたばかりにみえる、柔原めいなの頭のうえには何かの髪飾りがのっているようで、それは彼女の発言から推測して、ディズニーランドで買ったもののようだった。それがどのような品であるのか、正確なところはわからない。私の記憶は、ディズニーランドとは相性が悪く、そこに退魔の結界が張られているように近づくことができないばかりか、ときには買い物の品までぼやけてかすみがかってしまうのだった。「本当は、あのー、帽子みたいのが欲しかったんだけど、」という柔原めいなの背後の車窓には、珍しくあざやかな緑(形状ではない、たんなる色の群れ)がながれ、発言の内容の中身のなさとも、しつこくみえつづけている地蔵の左手とも無関係に、彼女の表情もまた、両方の黒目の真ん中に光の点をともす、「あざやかな思い出の一瞬」を印象づけるようなものだった。そして、つづく発言も妙にためが長く、途切れ途切れで、あいだには、五本の指をひらいてみせる手振り(「帽子みたいのが・・・」)や、唾を飲みこむようにシートベルトのかかった肩をすくめる動きや、かすかに「アヒル口」にもみえるつややかな唇がさしはさまれていた。