s1 エアポケット




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エアポケットというのは航空用語のように思うのだが、それは小さな航空機ではなく、ジャンボジェットのような、巨大な、安定した機体に関わる語のように思えた。冬の、風の強い寒い日に部屋の窓を閉め切って、静かな、停止した空間のなかで外界の音を聞くような印象を、エアポケットという語から感じるのだ。普段は無意識的に聞き流しているにしても、注意深く耳をすましたなら、思う以上に多くの音が聞こえてくるだろう。例えば、電車が一方から一方へと移動していく音が聞こえたりするのだが、その際に頭に思い描かれる地図空間はやや錯乱しているので、車両は、家々の只中を重なるように移動していったり、橋もなく土台もない数メートル高い空間を移動していったりするのである。また、電線が風を切る音も聞こえてくるかもしれない。電線というものは、電信柱から電信柱へ、また次の電信柱へと、どこまでもつながっているものなので、振動の媒体となって、聞こえるはずのないずっと遠い場所、どこかの山を切り開いた野原のような空間、の音を運んでくるようにも思うのである。そのような感覚を、私は「心のエアポケットに入り込む」と呼び、翼面の角度的な影響を受けて、多方面から吹きすさぶ気流の、打ち消しあった緩衝地帯を思い浮かべるのである。それは真空を閉じ込めた非常に小さなビンのようなものでもあった。例え、このような話を柔原めいなにしたとしても、相槌をうつ、賛同する、ということはないだろうから、彼女にエアポケットは存在しないのではないか、と思うとともに、もしあるにしても、そこはKEEP OUTと書かれた黄色いテープのはりめぐらされた、余人の立ち入れぬ廃墟のような場所にも思うのだった。その場所には、かつて彼女が捨てていった、あるいはふと立ち寄った誰かが捨てていった、さまざまな品が山盛りになっているようにも思うのである。その品々の目録をつくるにしても、書かれていることはただ一行、さまざまな品、それだけであって、子供が両手の指をひろげて「いっぱい」と叫ぶような微笑ましさといじらしさが、さまざまな品、の一文字一文字からにじみだすようにも思うのだ。つまり、それがある意味で彼女の本質であり、服を脱がせた裸の彼女よりも、服を着た彼女のほうが自然に見えるという人間的な感覚である。例え、私の手に、分子すら切り分ける特殊なメスが握られていて、ある既存の柔原めいなを細かく切り分けたとしても、見出されるのは細かく切り分けられたある既存の柔原めいなではなく、ある既存の柔原めいなを別角度からみたときに発生した、既存の柔原めいなを包括しない、新しい柔原めいなであるようにも思うのである。魔術的な手品の本質が、手品のたねではなく、観客の錯覚と驚きにあるとすれば、観客の錯覚と驚きもまた魔術的な手品である。そして、観客は、錯覚と驚きのたねを知らないからこそ、錯覚と驚きを感じるのであって、錯覚と驚きのたねを知ったときには、錯覚と驚きは消えてなくなってしまうのだ。これもまた、威容を誇る豪奢な箱のなかには価値ある宝がはいっていると決まっているのに、箱をひらいて中身をたしかめたとたんに、箱そのものがみすぼらしく変化してしまい、中身も箱にふさわしく変化してしまう魔術のようである。このように考えると、柔原めいなの本質は、柔原めいなというオブジェクトにではなく、錯視のアルゴリズムにあることは自明なのだが、錯視のアルゴリズムは自己言及によって変化する性質をもっているために、分析不能なものにも思えるのである。いわゆる、観測することによって観測の対象に影響をおよぼしてしまうために観測は不可能である、という矛盾的な、トートロジーという語感に含まれるにおいの、量子物理学の世界観のようでもあって、分析不可能な、霧につつまれたおとぎの国のようにも感じられるのだった。その感覚を利用して、私は都合よく柔原めいなを不思議の国のアリスに見立てようと思った。この心理的作用は、人が神を信じるにいたるプロセスに似ている。信仰心の希薄な日本人は、神を信じるにいたった人々の気持ちに理解しがたさや疑問を感じるかもしれないが、人それぞれの、これ以上は考えようがないというラインにいたったときに、知性は無力となり、無力化された知性の世界で覇権をにぎるのは願望や不安なのである。まわりくどいこの話の命題は、「自己を把握することによって自己全体を変化させるプログラムが、自己を把握していないときの状態をたもったまま、自己を把握することは可能か」であるようにも、また、「見ているときには存在しているが、見ていないときには存在していない風景の、存在していない状態を見ることは可能か」という、えんえん素早く後ろをふりむきつづける仮想世界の住人のようにも、比ゆ的には思うのだった。まわりくどさは、それを表現するために有効なアルゴリズムであるようにも思うのである。しかし、このような自己言及をくりかえすたびに、かつて柔原めいなの内部に見たような、かわいたペンキのような、何かが剥がれ落ちる音を聞くようにも思うのだ。さて、沖縄の丸いつぼのなかをのぞきこむと、柔原めいなはベッドの上で死んでいるところだった。わりあいにうるさかったようにも思い出される沖縄の夜の、外気から隔絶された密室空間において、彼女は静かに、呼吸を停止させ、心拍を停止させ、二度と帰らない生命の、最後の余波、霊体の蒸気のようなものを身体から立ち昇らせているところだった。空間を、一部だけ切り取って観賞可能なジオラマと考えるなら、このホテルの部屋は、動かないエレベーターのように、ある階層に位置する高所に、支えもなにもなく闇夜に浮かびあがっているように想像された。他の部屋のことは何も知らない。階上が、階下が、隣室が、どのようであっても、それは知れない、というのが都会生活の常である。わかることは、枕元の灯りがぼんやりとともって、この部屋になにかしら落ち着いた、ことさら静けさや隔絶を強調したくなるような雰囲気を演出しているということだ。事実はどうだろう。たしかに、光を受容する目という器官がなければ、世界はまったく違う様相をしめしたのかもしれないが、この場では目が空間の一部となって空間以上に空間の特性を決定しているようだった。桜の花弁のような色の、ゆるんだパジャマをきて、尻や股のあたりが特にしまりなく、全体としてめりはりのない死体は、巨大すぎるベッドの海を横断する途中で力尽きたようでもあったが、その実、彼女は死んではおらず、眠ってすらいないのだった。つまり、高等な動物は嘘をつく。下等な動物であっても擬態をする。柔原めいなであっても死んだふりをする。その意識は明晰に「どうしたんですか!?」という姉の声を聞き取っていただろう。あるいはつねにそうであるように、非常にぼやけた、オブラートで何重にもくるんだ世界にひびく真実の声として聞き取っていたのかもしれない。今試しに、手元に空のボールをつくりだしてみると、寝ている彼女のあたたかい鼻息がはいりこんでくるようだった。直前に彼女が「ねむーい」とたいして眠そうにみえない調子で言っていたとおりに、眠気もはいりこんでくるようだった。もし彼女が元気そのものであったなら、ベッドの上で泳ぐふりをするのだろう。そして今、眠い気分だからこそ、死んだふりをしたのだろう。なぜかといえば、死ぬ、という行為が、現在の眠いという気分に類似していたからで、いうなれば惰性である。純主観的に先んじて言うなら、もちろん彼女は永遠に死なず、どのような危機的なアクシデントであっても、死の危険性を感じさせる段階にとどまるだろうことは言うまでもない。したがって、不死身の彼女に死を模倣することはできず、この場合の死んだふりとは、刑事ドラマで見られるような役者の演技の模倣である。そして数秒の間、柔原めいなは大脳の働きをやすめ、本当に眠るような気分におちいっていたようだった。演技をするときに特有の、まぶた(長い睫毛が目立っている)や鼻先がひくつく様子はなく、筋肉が弛緩し少し老けたように見える顔をシーツに沈み込ませていたからである。時刻は午後10時を何分かまわったところだった。「10時、2分」と言っていたようにも思う。柔原めいなは、沖縄という新奇な環境下でけっこう生活しているようだった。人と環境は密接な関係をもっているものだから、静岡を無理やりにひきはがされた肉体の、酸素すらしみる生の傷口で沖縄という異空間にほうりだされ、不安と緊張、あるいは飛躍して破滅、のような状態を、私の感性は先んじて想像するようだったのだ。しかし、彼女は、人形たちとその住居がセットになったシルバニアファミリーの一員ではなく、また、静岡はかたつむりの殻でもなんでもなかった。彼女を育んだ環境はすでに身体のなかに溶けいって混ざり合っているのだった。もし環境が容赦のない借金取りのように、移動中の柔原めいなからきびしい取り立てを行っていたのなら、彼女は羽をむしられた瀕死のひよこのような姿で沖縄に立たなければならなかったのだろう。ここで私は、飛行中の機体がその場にとどまろうとするために、スピードに対して相対的に、外側からはがれ飛んでいく様子を思い浮かべる。また、血のにじんだ赤い毛穴でいっぱいのひな鳥を思い浮かべる。実に寒々として、寄る辺もない。人が環境から得たすべてをむしりとられるということは。しかし、人は環境から得たものと自分自身を区別しない。柔原めいなもまた、木の股から生まれたような顔をしているだろう。さて、この、目をつむって死んだふりをしている柔原めいなは何を考えているのだろうか。ここでは明確な答えの捏造が許されたのだった。おそらく彼女は、全体的知覚性、を問題にしていたのであって、今日一日の出来事を自動的に反芻していたのだ。あるいはもっと以前の、数ヶ月前の出来事まで、もしかすると、暗闇に光をもたらす彼女の意識の誕生の最初の一打から、私のキーボードを乱打する雨だれのような音に至るここまでを、黙想していたようにも思えたのだった。全体的知覚性と大仰なことを言ってみたが、この場合にかぎっては、消化である。胃袋がその内容物を消化するように、脳は未処理の問題を放っておけない。例えば、一日が終わって晩酌で吐き出す言葉がそのようなものだと考えられている。眠っているときに見る夢がそのようなものだと考えられている。眠っているときに見る夢の意味づけの一つとして、記憶の整理、という言葉が使われるのだが、きれいに角ばった言葉の感じとはうらはらに、実際はものぐさが形だけやってみせる片づけのようなものにも思えるのである。目をリスザルのように真っ黒(部屋が暗いのだ)にして、完璧な狂気の内側で死んだふりをした柔原めいなは、私の言ったような全体的知覚性などまるでとんまな的外れであると断言できるような顔をあげてみせた。そして、旅行一泊目ののん気な子供が夜の10時過ぎにホテルのベッドの上でみせるように、それ以外の意味などなにもないというふうに笑った。それは姉妹でたくらんだ擬態に過ぎないのかもしれないが、かもしだされる温和な平凡さから、たくさんの子供たちの残像が彼女の周囲につらなってみえるようだった。腹ばいになって、あれれれれぇ、と笑う彼女の表情は、確実に文化的意思たるミームを宿しており、その声はらせん状につたい垂れ落ちた一滴の液体のようだった。私の精神は、まだきわめて平常な状態をたもっていたが、それでも部屋のいたるところに涙が、すすり泣きの声が聞こえてくるようだった。例えば、読んだばかりの漫画の内容が頭のなかをぐるぐるしているということはよくあることである。そんな気分を他者と共有するということもよくあることである。柔原めいなもまた、なにかしらの気分を姉と共有している最中であるようだった。それが彼女の赤褐色の肌の色であり、パジャマのゆるみ具合であり、この場にただよう空気であった。その空気を私は受け取り、両手にかかえて、生産者の紹介欄に柔原姉妹の写真が載っていることを冷静に確認するのだ。しかしまた、私の色眼鏡が、気分が流出して、この場の空気とはまるで関係のない意味づけをおこなうようなのだった。私の頭のなかから取り出された多数のイメージファイル、遊びくつろぐ子供たちのやわらかく小さな笑顔、それが目前の柔原めいなの笑顔とあまりにも似通っていたため、ミームという言葉でもいいが、DNAという言葉でもいいが、なにかしら同一の根源を感じさせるのだった。その根源をさかのぼっていったとき、なにに行き着くのだろう。根源から枝分かれした無数の柔原めいなたちは、今、どうしているのだろう。どこに行ってしまったのだろう。寄せ集めの科学知識で思い浮かべるような、それらの連想がどこまで正しいのかはわからないが、ある聞きかじりの、思い入れなど皆無の情報が、意外に認識の基盤を形作っていたりするということである。柔原めいなの若々しい無邪気な生命力の源泉を神話に求めようとも、単細胞生物に求めようとも、私には了解不能、かつ操作不能のなにものかが存在し、視線の先の奥底でうごめいているということに変わりはないようにも思える。この場合のそれは、"神秘な"というよりかは、"不気味な"と付け加えたくなるものだった。私の感性は、瞬間的にわきあがった子供たちの笑顔の幻影、それもたんなる平面図ではなくいくぶん迷宮的で鎖のような構造をもったそれらに圧殺され、霊となって室内に涙を点在させたようだった。突如としてこのホテルがオカルト的な霊の住む屋敷となり、それに不思議と気づかない柔原めいなが霊とのツーショットを決めながら狂気的な笑顔を浮かべている、わけではないのだが、まるでそのようでもあった。例えばこのような一言、「実はこの子、亡くなってるんだよね。」をつけくわえることによって、平和な話も不穏な色彩をおびてくるように、紙一重のところで踏みとどまる脆くもたくましい彼女の遺影を前にして、この夜の、黒い立方体の先端部分と背後の夜空との静かな均衡を前にして、考えるのである。