s2 てんびん




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にこはらめいなの周りにはとてつもなく世界がひろがっているようだった。そのはずだった。私の視点におさまるのは、興奮してはしゃぐ彼女と、流れ込んでくる外気と、立てかけられたメニューか地図のようなもの、多数の種類の宝石か飴細工のような光(オパール、トパーズ、サファイア、ルビー)、ウッドチップ風の重い光沢をもった、丸い船窓のついた、どこかへつながるドア、そして救急車の音、などである。私は試験的にはさみを取り出し、この空間を、立方体状の、閉鎖的な、独立したものとして切り出し、暗闇のなかに浮かび上がるアルバムかバインダーにしまい込んで、観賞しようと思うのだが、そのような切り出された世界のなかで、不思議なことに、外部との連絡を絶たれているにもかかわらず、外気はどこからか吹きつづけ、電力は供給されつづけ、救急車の音は聞こえつづけ、にこはらめいなは存在したはずの誰かの影にむかって、嬉しそうに話しかけているのだった。心理的なさじ加減によって、眼前の光景を、より広大な世界に向かって開放することもできれば、それそのものが世界であるように閉鎖させることもできる。開放を行ったときには、私はにこはらめいなともども世界の内側に位置する、世界の一部となり、巨大な不可知にとりかこまれることとなる。その限定的な視点にとって、ある道は、どこまでも果てしなく伸びているように思え、ある海岸線は、水平線上に遠い見知らぬ国や島々の幻影を映し出すようにも思える。しかしその感じ方は、グローバルという言葉であらわされる、あけっぴろげの、俯瞰的な、行き来のスムーズな、本当の開放とは異なり、無限という言葉が無限の仕組みを図式化した有限であるように、開放の仕組みを図式化した閉鎖であるようにも思えるのだった。例え、どこまでもつづく道(というタイトルの絵画)の道が、額縁のところでぷっつり切れていたとしても、遠近法的に、視野の制限的に、やはり道はどこまでもつづいているように感じられるのだ。それは、どこまでもつづいているように感じられた、長い一本道を、飛ぶ虫の音を、その瞬間の熱気を、思い出すからだが。そして、私が世界の拡散的な騒音に耳をかたむけることをやめ、にこはらめいなの空間を一つの枠組みのなかに閉じ込めようと、精神の自由を信じ、外側から両手で圧をかけたときに、急に、彼女の存在の固有性は増し、その服の黒い色も、店のなかからただよってくるであろう、に・お・いは増し、背後のうす暗がりのなかに逆行をつくりだすライトは、意味するところを変えて、名のある大きな白い天体の光のようにも見られたのだった。月並みな連想を働かせてみると、一つの村から出ることなく一生を終えた古代的な田舎の老人や、デュマの小説にあるような、幽閉された石牢の内側しか知らずに育った人間の見る世界はどれだけ狭いかと、自分勝手な優位者の視点から、率直に想像されるのだが、精神の枠組みは、実際的な尺度とは関係なく、見えるもののなかに宇宙的な展開図を配置するように出来ているのではないか、とも思ったのである。そして、空間上では、にこはらめいなが何かをしゃべり続けているようだったが、それは最初、単純な環境音に、まるで無関係な方向に方向性を決め込んだ私の思考に、かきけされ、ちぎれ、「す」や「じょ」や「し」などの子音のこすれる単音を散らしているだけだった。彼女の腹のなかで溶解する牛肉(時系列的な推測である。)、黒い衣服の胸元に鎖骨を強調した、小柄な身体をいっぱいに躍動させ、私が表現できなかった、引用符つきの光り輝く"体験"を表現しようとする素振りを見ると、たしかに十数分前か、数十分前に、彼女はそれに見合うだけの表情をしていたように思われた。視覚に、聴覚に、嗅覚に、体感に、そして味覚に、総合的にうったえかける、思った以上に大量の煙をはきだし辺りの闇を白く変えてしまった夏の噴射式花火のような興奮があったように想像されるのだ。思い返すと、あの真っ黒い鉄板は、にこはらめいなに比して特に巨大であったし、ヘラを操る男のとめどもない秘密の技術の流露は、完全に受身のにこはらめいなに、一瞬の思考の隙もあたえなかったようなのだ。人は誰でも、自らは何も働きかけずとも、労力を意識的な苦労をまったく必要とせずとも、魅惑と快楽が向こうから次々にやってくる、途切れのない終わりのない理想郷を夢見るだろう。にこはらめいなが味わったのは、商業的な趣はあるにしても、一時的と分かりきったものにしても、そういった快楽なのだろう。むきだしの食欲、そのものは後を引かない、豊かな味わいに欠ける、心を満たしきらない貧弱なものかもしれないが、根本的欲求、それに感情は、つよい誘引力をもっていて、周辺の些細などうでもいい事柄をも巻き込み、印象の星雲を形成するように思えるのだった。そして不思議なことに、あとあとになって印象を想起する鍵となり象徴となるものは、中心よりもむしろ、些細な、枝葉のことの一つとなるのである。この夜の、にこはらめいなの前におかれた、尺度をまちがえた縦長の巨大なグラスになみなみ入ったパイナップルジュースや、その後ろで、深夜の冷蔵庫のような青白い灯りの前に、そろいの制服で立ち動く影絵芝居のような男たち、吊り下がった、かわいたバッファローの骨にもみえる何本もの投げ縄状のロープなどの小道具が、彼女の生き生きとした認識へと、ほとんど検問をうけずに流れ込んでいたのだろう。その間、彼女の心的状態はあまりにも受容にかたむいていたために、何も言葉を発さず間抜けに唾を飲み込むだけだったのだが、今、店の外(冒頭の空間)に出てきて、ステーキハウスを舞台にした一連のショーが終わったことを理解すると、空白化した受容の状態だった胸のスイッチが切り替わり、溜まりに溜まった感嘆があふれ出したようなのだった。空間にひびく、私の精神がかろうじて聞き取った、「すっごい・・・すっごい・・・」のこだまは、そういう意味を含んでいるように思うのである。にこはらめいなの、はなやいだ、若々しい、はちきれそうな笑顔は、主語よりも、はなやいだ、若々しい、という形容詞によって存在を既定されているように、動作の端々に至るまで、そのような存在であるように純然と感じられた。彼女の個性的なものとは無関係に、外見上は、万人にとってそう見えるだろう、という話ではなく、内部的な作用も含めて、細胞の一つ一つまでもが、そうであるように感じられるのだった。おそらく、私の一方的な想いが、私は彼女ではない、私と彼女は質的に異なっている、という距離感をともなう幻想の想いが、そう思わせるのだった。外見と内面のギャップという平均的な観点から言えば、美しく澄ました表皮の下に、老成や、陰惨や、独創性をもつ人物もいるにはいるのだろうが、にこはらめいなの場合は、肉体と精神を分けてとらえることが出来ないほどにエネルギーの塊であるようにも感じられる。それほどまでに、にこはらめいなは、いわゆる大人から見る子供のように、常識人から見る妖精のように、活発かつ無意識的だったわけだが、しかし、ここである閃きとともに、私は、にこはらめいなの世界から遠くはなれた、専門外のことなどまるで分からない、狭いのマニアでありながらも、何と彼女に似ていることだろう、と思うのだった。彼女の愚かしさ、盲目さ、憎めない純真さ、とことんまで即時的な様は、私と何と似ていることだろう。狭量な人間界の差異、格付けにやっきになっている人には分からないことかもしれないが、私とにこはらめいなはたしかに似ており、ともに人間だった。その恐ろしいほどの世界観の隔たり、隔絶は、片一方では、次元の断絶、という言葉を想起させるようでもあったが、同時に、同じフラスコのなかで揺られる、共同体の、共鳴の、微生物かほこりのような存在にも感じられるのだった。それは無力とか埋没とかネガティブな意味ではなく、唐突に湧き上がった彼女に対する愛情であり、無防備である以上どのような可能性も許されているという、ゆったりした世界に身をゆだねる安心感であるようにも思えるのだ。例えば、水棲生物の図鑑を開いて貝殻の絵を見るときに、異様に緻密で完成された文様のなかに、隠された同じ規則の、反復、ついで拡大のような、気の遠くなる、病的な、自然の理を感じるものなのだが、そのような皮肉な視点で見る彼女の平凡さの発露とはまったく別に、私のなかにある種の飛躍が起こるようなのであった。しかし、どうだろう。天恵とか、インスピレーションとか、電撃に打たれるような一目惚れの衝撃とか、論理的飛躍、発想の飛躍のようなものについて考えると、それは論理的に複雑な過程をもちながらもほとんどが無意識的に行われているために結果的には飛躍のように思える、ということなのか、それとも本当の意味で論理をすっ飛ばす、論理の麻痺(パラリシス)にあたる状態なのかと、あらためて思うのである。それはおそらく、どちらの側面も併せ持った両面性そのものに思うのだが、そのような愚かしくも輝かしい感覚にうたれてはじめて、過去も未来も捨て去って、現時性のただなかに溺れる、背後の店構えに落ち着いたブラウンの配色を従える、上気した心に涼しい夜気の流入を感じる、「すごく美味しくて!!」のにこはらめいなとの、厳密な意味ではない、同一性を感じられるようにも思うのだった。彼女の言う「すごく…何かすごくって…」とは、短い謎めいた言葉のなかに真理を内包する禅の不立文字のように、自画自賛のみが並べ立てられ、思想や根拠の核については何も語らない仏教の独善的な経典のように、現代的、合理的なアプローチを拒否する原始的な熱気と呼ぶ他ない何物かにささげられた無心の供物のようにも思われるのだった。それは、それが立ち昇るときにはこれほどまでに自明のものはないと感じさせ、それが立ち昇らないときには空気より希薄なものになり、いかなる理解も死に体になるといったものではある。そして、理解、と意識の産物のように言ってはみたものの、ふと、理解や解釈もまた熱気なのではないだろうか、と思うのだ。にこはらめいなの熱気と、私の熱気が完全一致することなどないのであろうし、厳密な意味ではない同一性、という言葉の意味は、ボルテージ、大きさ、質、深さ、などの要素において、少なくとも劣るところはない、という意味を内包した感情の高まりのようにも思うのである。どのように熱気を解釈するにしても、大きく高揚させ歪めるにしても、小さく卑近に歪めるにしても、ある熱気の肌触りを、自らの内部の、固有の熱気の形に移し変えることしか出来ないのではないか、とも思うのであった。そして、もはや私にとっての、内容を把握出来ていないにも関わらず既読のしおりだけは途中にはさみこまれた、悲しい既成事実のようなにこはらめいなは、彼女のことを知らない他者の遠い視点にとっては、どれだけ未了の、未遂の存在に見えるだろうかと、この夜にあるだろう周囲の人並みとともにあらためて思い浮かべてみるのだ。第三者の視点に移ってみれば、意識的に差異を察知するほどでもない彼女の特徴的な体つき、服装の印象、内面とは無関係にたんに他所他所しく見える目つき、電撃のような素早さで一瞬こちらをうかがう目線などは、つねにのぞき見ることの出来ない領域においてのみ存在していると想像される、反転した世界から送られる意味ありげなシグナルとも、あるいは、見えない檻に守られた異物をはねつける圧力とも映るように想像されるのだった。その入り口の先には、たしかに彼女の生活があるのだろう。私も知らず、彼女も知らない生活が、夕食の匂いや、庭先にひびく声の残響のようなものが、内部に多次元的な日々の習慣をぎっちり詰め込んで、飴色に途方に暮れた空の、正確な座標は分からないが、無数の家並みのすがたのどこかに必ずあると想像されるのだろう。本来、そのように抽象的な存在に実態があるはずはないのだが、大半の人々にとっては、抽象的に想像されるにこはらめいなこそ、具体的な一挙手一投足よりも実在であり、ある他者から見た、膨大な他者のすべてもまた、膨大な事物のすべてもまた、そのような虚構の実在のあり方で、世界の根源を形作っているのであった。その距離感を縮めた先に、にこはらめいなの実態があるというよりかは、距離感ごとにことなるにこはらめいなの虚像が、延々折り重なっているようにも感じられるのである。