暴力的なシーサー

さて、場面はとうとつに暖かい暖流につつまれる。いわゆる転調というやつである。季節は冬でもあり夏でもあった。現時点ではひどく寒い初冬をむかえているのだが、にこはらめいなの格好はひどく夏のそれである。そでもなく、ふともももむき出している。例え酷寒の真冬であってもふとももをさらけ出すことにつとめる原初的な、セックスアピールにやっきになっている、にきびづらの、肉付きよく太った女子高生はさておき、にこはらめいなは真冬であれば真冬に相応しい格好をするのだろう。しかし今は初夏である。そして沖縄は常夏とまではいかないまでも、本土よりもずっと気温が高い。なので彼女は非常に夏らしい格好をし、目につく暖房器具といえば太陽の光、それで十分であった。きわめて奇妙な、不思議なことであるが、例えテキスト化され反実在と化したにこはらめいなであっても、彼女がある時代のある場所を実在として占めていたことは事実であり、へだたった時代、はなれた位置にいる人々はさておき、彼女の周囲の人は誰しも、ふと歩道をすれちがう人も、レストランの給仕も、にこはらめいなを無視できない状態にあった、ということである。老いというものは徐々に進行していくものであるが、「急激に老け込む」ということも往々にしてある。にこはらめいなはといえば、通常比較的緩慢な老いに比して、急激に成長しつつあった。あと二、三年もすれば彼女は別人のようになるだろう。この子犬のような鼻面も、失われるだろう。現在の彼女を絶妙に保たせている美的均衡を失って、ほおに林檎をつめこんだように、笑みが不自然に作られているように、彼女を見せることだろう。端的に言って、彼女は現在の可愛らしさを失うだろう。しかし、人の目にどう映るかといって、彼女は私達が思う以上に彼女のまま、のはずである。二年という歳月は成長期にある彼女の容貌に大きな変化を与えるかもしれないが、内面的にも同様であるとは言いがたい。しかし、私達の目に見えるのは彼女の外見ばかりである。ある若い、美的にすぐれた人が老いていく。若さを、美を失っていく。人はそのさまをみて無常感をおぼえたり、なげいたりするかもしれないが、当人にとってみては、それほど自分は内面的に変わっていないつもりでいる。にこはらめいなの場合は?私の視力からでは、二年後の彼女の内面について語りうることは何もない。もしかすると、二年後の彼女は案外、外見的な変化をもたないのかもしれないし、それに対して内面的に大きく変化するのかもしれない。そうであるなら、人は、彼女の表情、ちょっとした言動、習慣的行動、などから彼女の内面的な変化を悟ることだろう。そして、当初、変化としてとらえられたものは、次第に慣れていくことによって定着化し、「彼女はこうである。」という認識を私達に与えることだろう。そのようにして、流転のなかで人はめまいをおぼえずに済むのである。近年の商業的なソフトウェアでいうなら、たえざるアップデート、上書き保存の力によって、延々とつらなる過去の膨大な蓄積を、いったんはなかったことに出来るのである。しかし今、にこはらめいなはにこはらめいなである。この名の、空々しい響きとは無関係に、あるいは、私、そして読者とにこはらめいなとの関係性の空々しさとは無関係に、彼女は彼女である。その細胞はびっちりと詰まり、体液は、神経は、体中を流れ、彼女を支配している。そして同様に、私の精神状態、胃の状態、腸の状態、脳の神経回路の活発さなどが、この小説の流れを決定づけている以上、「にこはらめいなは私の腸である。」ということも、また事実なのであった。二年後の彼女!それを彼女自身も、彼女の父親も、母親も、姉も、また名も知れぬ友達たちも、想像できないにちがいない。上手に笑顔をつくれるひと特有の、白い前歯を適度にむきだしにして、笑っている彼女の二年後、その肉付き、アン・ナチュラル、ある種のバランスの崩壊を、ある種の凡庸化を、誰が想像できるというのだろう?あらためて、彼女の歯の白さは極端にみがきこまれているようでもあった。あるいは、骨自身が若々しいのだ。人間の身体のなかで唯一露出している骨、それが歯だ。火葬場で焼かれるずっと以前から、人目にさらけ出されている骨、それが歯だ。暖かな暖流、というと、危険が危ない、のような言葉の重複に感じるが、私がこの場面から感じ取ったのは「暖かな暖流」である。にこはらめいなの母親が、「できた?シーサーできた?」と聞く。にこはらめいなは目を大きく見開いて、一度、母親の声が聞き取りにくかったのか耳を近づけてくる。おそらくは絵の具をかわかすドライヤーのような音が響き続けていたのだろう。にこはらめいなの母親の声は優しく、なんとなくなつかしいような印象があった。それがこの場面に暖かさをあたえている。暖流とは?おそらく、シーサーを無事に塗り上げたという達成感や満足感によるものだろう。「魔よけ。魔よけみたいに怖い顔にした?」と母親が聞く。にこはらめいなは当然のように、かぶりをふって、笑みを含ませながら、答える。「可愛い顔にした。」それは、私にも、母親にも、おそらく万物にも、古代のソクラテスにも自明のことだったのではないかと思う。私はこう想像する。もし、この小説が、万がいち脚光を浴びるような、重力が逆転し鉄球が空に跳ねあがっていくような異常な事態が発生したのなら、数万の読者が、そろって首を縦にふることになるだろうと。パッチリとした二重の、単純きわまりない性格のにこはらめいなは、当然の如くシーサーをその本来の性質とは間逆に「可愛く」仕上げるだろうと。また、そうすると、悪魔、悪霊のたぐいは、世界観のギャップから、かえって彼女のシーサーをよけて通っていくのではないか、とも思われるのだった。彼女のシーサーが悪霊にとりつかれ、そのファンシーさを不気味さに転化させる、B級ホラー映画のような展開がありえるだろうか?まったく馬鹿げた想像だが、昔の人々は大真面目にそのようなことを考え、魔よけのために鬼瓦やシーサーや狛犬を作りあげたのである。それは無視してはならないことがらだ。なぜなら、"科学的"や"合理的"と呼ばれる私達の住む世紀は、暗闇と妄信のなかの人類の数千年のほんのうわずみに過ぎないからである。私達は思い巡らさなければならない、人類はながらく闇のなかにあった、と。手探りの闇のなかに秩序をつくり、法をつくってきたのだと。それを、にこはらめいなの絵筆はめちゃくちゃにぶちこわしたのだと。それがこの眼前の落雁のようなピンクの不気味なシーサーという物質の意味するところである。もしこのシーサーを私が手ですくいあげ、その輪郭をきっちりと手肌で感じ取り、重量を、質感を、匂いを感じ取ることができたのなら、たんなるテキストに過ぎないこの小説もいささかの現実味をおびてくるだろう。"ノン・フィクション"という卑属なひびきをもったこの小説ではあるが、なんら事件性をともなっていないために、その存在たるや希薄である。にこはらめいなは虚構以上に虚構の存在にも思えてくる。しかし、今、このシーサーはどこに存在するのだろう?とっくに捨てられ、燃やされ、灰となって現在の現実を構成する微粒子の一要素となったのだろうか?左には姉の、右にはにこはらめいなのシーサーが並べられている。どちらもピンクがかっていて大差はない。そこに私は「姉妹」というひびきを感じるのだ。これが「姉弟」、「兄妹」であったのなら、事情は少し異なっているだろうと。にこはらめいなは言う「両方とも、左耳、左耳に、OKIMAWAって描いてありまーす」と。しかし、これは向かって左側という意味で、じっさいは右耳である。また、筆の太さ、硬度の制約から、どちらもNAWAの字がつぶれて読みづらくなっていた。その他には?これもまた、稀代の名馬が出走するGⅡのレースの結果を予測するのと同じほどに単純、簡単きわまりないことである。シーサーの両頬にはハートマークが描かれ、耳元には花が描かれていた。ハートは心臓の形状を象徴化したものである。花は植物の性器である。あらがいがたい本能が、にこはらめいなを淫売に仕立てあげているようでもあった。これはもはや魔よけなどではなく、雄をひきつけるために工夫のこらされた、きわめて若々しい、女性的なシーサーであった。そのようにして、彼女は数年後か十数年後、雄をひきつけ、妊娠をし、出産をし、子供を育てていくことだろう。万事、無事に済むことだろう・・・。にこはらめいなの母親からにこはらめいなに手渡されたバトンは、そのようにして後代に引き継がれていくのだ。その不断の、脈々たる運動が心臓であり、新たに咲き誇る生命が花である。私のような神経過敏、現実ばなれした存在にとって、それは一種の暴力である。にこはらめいなのはなやいだ笑顔も、自然現象を超えて超自然現象的ともとれる髪のほつれも、私にとっては無神経な、無粋な、暴力のようにも感じられるのだ。このような旅行、家族イベントでとどこおりなく行われたシーサーの着色という、単純些事の不断の連続によって、にこはらめいなの人生は成り立っていくのである。また、彼女の母親も、父親も、姉も、人々も、私も、そのようにして成り立っていくしかない運命を背負っているように思うのだ。それがにこはらめいなの瞬間的にぐっと強調した眼力に、それにつづく屈託のなさに宿った、この場面の、暖かくもはかない暴力である。