11 パイナップルの木




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時間の針は少しさかのぼって、時系列的には、空港から移動中の車内で柔原めいなが、ねこちゃんポーチを紹介した直後に戻る。このような南国ではなくても、例え、都会のまんなかであっても、幹の途中にほとんど枝のない、頭のてっぺんに鋭い葉が放射状に飛びだしているヤシのような植物がみられる。それは厳密にはヤシではないのだろうし、もちろん、ココナッツのような実がなることもない。しかし、もしこのヤシモドキに実がなるのだとしたら、それは、ココナッツ、バナナ、パイナップルのような南国の果物がイメージにちかいように思われた。この場面においては、柔原めいなと姉の会話のなかでパイナップルの話がくりひろげられていた。柔原めいなの言い草を聞いていると、沖縄にはその辺にパイナップルの木がはえていて、パイナップルの実がなっているようにも想像された。パイナップルはそもそも、その見た目の特徴、植物的な龍のもつうろこのようなゴツゴツした幾何学模様的な表皮や、頭にはえた放射状の葉のようなものがヤシモドキと似ていた。私が、柔原めいなの声の印象を縦にひきのばして姉の声の印象とくらべたように、パイナップルもまた、形状をそのままに縦にひきのばしたのなら、パイナップルの木のような見た目に変わるように思われた。車内にて会話する柔原めいなと姉、この場面にふくまれる要素は、縦一列というよりかは、まず横一列に分類できる。パイナップルの木にかんする私の想像のようなものは、次元断裂した縦一列のよけいな飾りであって、重要な要素にはふくまれない。ただでさえ脱線のおおい、全体の五割以上を勝手な想像と思考で埋めつくされているこの小説を、柔原めいなの手にかえすために、本来なら、想像の要素はおさえるべきなのだろう。私はそう意識して、例えば、パイナップルの木にかんする想像の記述にしても、大胆にかどを切りおとされたデパートのカットフルーツのように、余計な描写をそぎおとそうと、ゴリゴリと、ぎこちなさのなかに固い皮革の手ざわりが感じられるように思われた。しかし、この小説もどきの、「柔原めいなの沖縄旅行」を語るのはどこまでも私であって、その口に絆創膏を十字にはりつけて封じてしまったなら、もはや、柔原めいなにかんする貴重なことがら、彼女の二度とかえらない体験さえも、封じられてしまうように思うのだった。柔原めいなは、ねこちゃんポーチを紹介したあとに、いちど空腹の奈落の底までおちこみ、ふたたび浮上してきた。そのさまは、テレビの鳥人間コンテストで、一度は落下しかけたグライダーが、その慣性をもったまま浮きあがる、スーパーマリオにでてくる羽マリオの「ぎゅいんっ、ぎゅいんっ」の効果音でおこなわれる、下降と上昇の運動をくりかえしているようだった。柔原めいなの言動や挙動は、別場面で「はじけるこんにゃくゼリー」と表現されたように、ほねをぬかれた、それでいて率直なエネルギーをもったもので、この場面の態度にもおなじようなものがみられるのだった。さきほど横一列と表現されたものは、彼女自身と、彼女をとりまく環境の分類で、例えば環境であったなら、車内の様子、車外をながれる景色、姉の声、カーナビの機械音声、しずかな走行音、シートの感触、車中の匂い、それらのものが場面を構成する要素としてあげられるのだ。柔原めいなをとりまく環境と、彼女自身をきりはなして考えることはできないだろう。もし、きりはなすことができたなら、モデリングソフトで作成したデーターのなかの人間のように、真っ白の空間のなかに、みえないシートに腰をうかばせて、笑う、動く、一人芝居をつづけている、そんな彼女を取りだしてみることができるのだろう。
この小説のかかれている形式、テクストファイルはちいさく省エネ的だ。本一冊分であってもデーターのサイズは小さいのだが、もし、視覚情報や聴覚情報を完璧に、あますところなく細密にすべて文字で記述することができたなら、結局は、映像、画像、音声ファイルとおなじファイルサイズになってしまうように思われた。テクストファイルは、一行のながれをずっと目で追ううえに、感覚的なことであってもすべてが意味として強調されているので、脳が情報をのがしづらくなっているのだが、ほかのファイル形式に比べれば、もっている情報の絶対量が少ないということがいえた。また、現時点ではデーター化できない、ひとの体感、嗅覚、味覚、それらのものがデーター化できたなら、どれくらいのファイルサイズになるのだろうか。それは既存のテクストや画像ファイルとくらべてどれだけ多い、あるいは少ない容量になるのだろう。私はそれを知りたかった。なお、この思いつきは、体感者の主観、という要素をまったく無視していっている。
私は、この場面においてもすべての体感の情報を「量」ではからなければならないように思えた。「質」では切りすてられてしまうものがあるからだ。例えば、柔原めいなの胃袋の状態が、どれだけ彼女の発言に影響をおよぼすのか、口から胃カメラをおくりこんで観察する必要があるように思えた。彼女の胃の内壁の様子、胃液の分泌状態、未消化の残留物を観察することが、その心理を把握することにつながらないと、その必要性が絶対にない、と誰がいえるのか。私のなかの冷徹な視線をもつ科学者は考えるのだった。それに対して、私のなかの常識人は、それはまったく科学の皮をかぶった趣味的なものにすぎないとあきれるのだったが、基本的にまっとうな彼は彼で、物事を原子にまで分解してとらえようとする視線が欠けていた。だから私は、例えどのような欠点があったにしても、多重人格者ビリー・ミリガンのように、狂科学者、放恣にながれる芸術家、型どおりの常識人、とほうにくれるだけの子供、そんな欠落のおおい登場人物たちの力を借りるほかないのだった。
小説というものは、一つの要素ではなくて、複数の要素が同時にからみあいながら話がすすんでいくように思える。しかし、古い小説には、冒頭に風景描写をもってきて、作品世界の足がかりをかためてから、馬車をゆっくり走らせてドラマがはじまっていくといったような、場面場面がべつの特色をもった、役割の分担のようなものも存在している。小説の関心のおおくはドラマにむけられていて、作中の人々の関係性の変化によっておこされる、人物の発するつよい、あるいは、精妙な感情をあじわうことに感動があるように思われた。なので、人間をとりまく環境というのは舞台の大道具、小道具にすぎなくて、ひとたびドラマが加熱していったなら、それらへの関心は最小限になって、台詞や、人物の内面描写がえんえんとつづいて、うねるような感情を読者にあたえていく。また、人物の個性にもつよい関心がはらわれているのだが、個性的な人物をを登場させることが最大の目的ではない。例えば、能力的に傑出した、それでいて先鋭的に狂った、世知にたけた変態の自信家のような人物が登場したなら、つよいインパクトをあたえられるのだが、それはパクチーのような料理にそえる癖のつよいアクセントにすぎない。そのような人物は最初の威勢は良いが、作中の時間がすすむにつれて、徐々に本性があきらかになっていって、内面的なわびしさ、根本的な部分での人間的なむなしさのようなものが感じられるようになってくるのだ。それはそのように意図して書かれているからだ。作者が表現したいのはもっと尊いものであって、例えば、作者自身の青年期を投影したような、未熟で自意識がつよいが、高い理想精神をひめた主人公、あるいは、作者自身の願望を投影したような、平凡だが飛びぬけて清い一途な心の美しさをもったヒロインのような人物が、最終的には、その存在感で暗雲のように作中をおおっていた個性的な人物の頭をとびこえて、舞台の中央の一番かがやかしい場所におどりでるのだ。そのような、古い、高級な小説にあっては、まず雑多な欲求をみたすような俗世の描写がおこなわれて、下世話な読者が満足したあとに、甘いものを食べつづけたから、くちなおしに少ししょっぱいものが食べたくなった、そのような気分にさせたあとに、作者がいちばん尊いと思っている感情を提示するように思われた。そうすると、読者はしたのくちを満たされたあとにうえのくちを満たされた女性のように満足して、最後に、作品の印象を決定づけるものを一番尊いもののように思うのである。フィクションのなかでは、あるいは現実においても、いかなる残酷も、不幸も、娯楽になりうるし、卑劣なおこないに怒りを燃やすこともまた娯楽のように思われた。小説は、そのように矛盾を許容する雑多な感情を満たしてくれるばかりか、人間心理や時事問題にかんする、作者の明察な考察で知見をたかめることまでできる。そして、もっとも尊い感情に自分自身を仮託することで、自分はそのような感情を楽しんだ、と感じることができるのだった。それが、私が、古い時代の小説にみるものだ。
このような話をしたのは、ただ、「小説では風景描写と人物描写が区別されていることがおおい」と言いたかったからだ。それはつねに総合的に知覚される現実とはことなっているが、区別という態度もときに必要だと、学ぶべきものだと感じられた。全体を総合的にとらえることによって、はじめてとらえられる現実を、あえて切りわけて考えるのは、スポーツの初心者が、目的の動作をパーツに分解してパーツごとに練習することに似ている。現実の多大な情報量は、情報量のおおさが豊かなものをあたえてくれるどころか、凡人が聖徳太子のまねをして複数のはなしを同時に聞こうとするように、脳のオーバーヒート、感覚の混乱、感覚の停止となってはたらくからだ。
さて、そのようなことは中華屋のマーボー豆腐に混入した、店主のはなくそ程度に気にしようがない柔原めいなだった。きわめて物理的な現実が、一秒もやすむことなく彼女のまわりをとりまいていたからだ。彼女が窓の外に顔をむけると、後頭部に、青い、透明の、ハート型の髪留めがはっきりと確認された。それは後頭部の中央に一つだけつけられた大きなものだったので、ほとんど意識してこなかったのだが、どうやら、彼女の髪型はポニーテールになっているようだった。髪留めはぜんぶが青いというわけではなくて、透明なハート型のなかを、ほそいビニール管のなかを循環する青い液体のようなものが、これもまたハート型にながれているのだった。彼女の発する雰囲気、ことさら静かな車の走行音(まっすぐな、なめらかな道なのだろう)、のせいもあるかもしれないが、車外の景色はおだやかなものに思われた。この場面も、かつて私の生きていた現実とひとつづきにつながっているはずなのだが、柔原めいなをとりまく世界には、まさに、戦争も核兵器もこの世に存在しないようだった。それは、母親が、庭のベンチでねむる小さな子の頭をなでてすごす午後のようだった。まだほかに手のかかる子もいない第一児が、手のかかる乳児期を脱したばかりの、めくるめくスピードでながれる雲間から一時さしこんだ日差しの瞬間のような安らかさだった。柔原めいなの背後、車外に何台も車のとまる駐車場がみられたときに、車同士の相互的な角度が、ほうりだされた数片の積み木のようなかすかなちぐはぐさ、違和となって胸に感じられたせいか、おだやかさは少しだけ乱されたが、淡い黄色の団地のような建物がみえたときには郷愁となって、車内のフレームを構成する枠組みから(姉の目をとおして、柔原めいなのむこう、車外のそのまたむこうまで)、団地のほうへとつづく四角い立体望遠鏡をのぞきみるように、おだやかさの奥行きはふかくなった。柔原めいなの表情と態度、エネルギーの動きは、けむる灰色の雲のなかをこくこくと形をかえる山脈のようにとらえがたかったが、この場面でみられることになるもっとも印象的な彼女の表情にあらわれているように、空腹の不快感が、もはや心を害さないたんなる脱力感に転じているように感じられた。過度に考えることをやめるなら、快くもなく、不快でもなく、間歇的な風の気分にあおられて張ったりゆるんだりをくりかえす旗のように、心情の張りがうしなわれるたびに、ふにゃふにゃした動きとなってあらわれているのだった。後部座席には、柔原めいなとならんで姉がすわっている。ついさきほどの、ねこちゃんポーチの場面で感じたのと同様に、二人のまわりにある空間は広々としてみえて、私のなかの、三人すわればいっぱいとなる狭くるしい後部座席のイメージとはちがっていた。あわただしく出発する車内のおりまげたひざが、フロントシートの背中とぶつかりあう、座席をひとつ飛びこえて荷物いれからお菓子をがさがさひっぱり出す窮屈なイメージはどこにもなかった。「木にパイナップルとかがなってたりしたんですよ。木に。パイナップルが。」パイナップルにかんする一連の会話のあとに、もう私にはおなじみのものとして判別できるようになった姉の声が「パイナップル好きですかぁ?」と柔原めいなに聞いた。この声にもまた、口内の唾液のたてる音が少しだけまざっていた。また、このあとの柔原めいなのしゃべり声にも、そのような音の混入はきかれた。素人のしゃべり声には、訓練された声優のしゃべり声とはちがって、気のぬけた日常会話ではとくに、耳をすませばかすかにそんな音が混ざってきこえる。しかし、そのように意識することは神経質な種類のもので、そんな音に誇大に集中するほどに、頭のなかでどんどん大きくなっていくようにも思われた。あらためて思い出してみると、柔原めいなの姉の声は自己主張のよわい声で、私のイメージする姉としてのつよい立場のようなものとはちがっていた。柔原めいなのほうがずっとのびのびと、半径数十センチの自らの気分の世界を生きているように思われた。姉の声は、やりとりをつづけるうちに、スカイプではじめて聞くことになった地味で内向的な女性の声のように、したのほうからまだ低めの中空を平行にちかい角度であがっていくようだった。それは一番てっぺんのところが少しかすれて、(声というものを中心にいくほど密度の高くなる粒子のロープのようなものと想像して)、声の中心にも芯の張ったところがなかったので、姉が、例えば、演劇で朗々と台詞をはいたり、アルバイトの接客ではなれたところの客にむけて言葉を飛ばすような、別の場面は想像しづらかった。私は、姉という立場だけでなんとなく、もう、ほとんど大人になりかけているように思っていたのだが、柔原めいなはまだ11歳で、それより一つか二つうえに過ぎなかったとしたら、まだ中学にあがったばかりか、それどころか、小学生なのかもしれなかった。しかし、一度つくられてしまった姉のイメージは、(漠然としたものにすぎないのだが)、簡単にはあらためられず、想像上の姉の背丈を両手ではさんでちぢめていっても、中学一年生くらいの、まだほとんど子供の状態にもっていくことはむずかしいように思われた。
柔原めいなは手にもった帽子をもてあそんでいた。その色を思い出すことはむずかしいのだが、私はピンクだったように思う。彼女が好きな色だからという理由で、ほとんど適当な態度でその帽子をピンク色に着色しても、じっさいの現実はそのとおりにはまってくれるような気がした。むずかしいのは、現実がほとんど型どおりに進行していて予測の範囲内と錯覚させるくせに、頭のなかだけでわかった気持ちになっていると、絶妙であってとても大きな、小さくもあって決定的なずれが生じてくるということだ。それはもどかしく、ずれの按配をうまく言いあらわすことはできない。そのずれを把握するどころか、感知することすらできない場合が多いのだ。だからこそ誰も、現実の平凡さそのものに(主観的な屈折の世界ではなくて)、特別な注意をはらうことはないのだろう。私は今、ゆったりとピアノをひくような不思議な気分でこの文章を書き、ときどき引っかかる日本語的なただしさというのもなぜか、小さなことのように感じられて、催眠的なものを優先してしまっているのだ。そのようなスローモーションな、沈滞する精神の記述とはちがって、本当の場面上では、柔原めいなが手のうえでもてあそぶ帽子のように、ぽんぽんと会話のながれがつづいている。その帽子はキャップと呼ばれるような、前面にひさしのついた野球少年のかぶるようなもので、別の場面で記述される、柔原めいなのファッションのスポーティーな側面、子供らしい健康さの側面をあらわすようなアイテムだった。しゃべりながら帽子をいじくっている彼女に、手遊びの傾向があることは、旅行中に何度もペン回しの芸を披露することからもわかっている。練習の痕跡がみられるその芸でまわしてみせたのはペンだけではなく、クシ、箸、また空港の案内書のようなものまでふくまれている。人を驚かせるほどすごいわけでもなくて、反応に困らせるほどに微妙な行為でもない、ペン回しという芸を得意気になんども披露することは、とても彼女らしいといえた。柔原めいなにはそういう、外見の想起させる優雅な雰囲気にくらべて残念なところがあった。
柔原めいなは頭をふって、視線はフロントガラスのほうへと、そして、かたわらのサイドガラスのほうへとながれた。いつも口角があがったまま固定されているような楽しげな表情だったが、姉から視線をはずすときだけは、あがっていた口角が少し弱まって、真面目な表情になるように思われた。それは人とつれだって歩いているときに、日陰にはいった瞬間に、その人の表情がすこしかげってみえるような微妙な変化だったが、視線が姉へともどると、また元どおりの笑顔になった。「パイナップル好きですかぁ?」と聞かれて、少し考えるようなそぶりをみせたときにも、彼女の視線は車の進行方向へとそそがれていた。もちろん、みるべきものがあったからではなくて、人に笑顔をむけながらでは、自分の気持ちをうまく確認できなかったからだろう。柔原めいなの「パイナップルぅ・・・は」という発言にかぶるように、前の座席のほうから「およそ700メートル先、左方向です」とカーナビの女性の音声がきこえてきた。その音声は、二人の会話のながれを邪魔するような大きな音ではなくて、もっと心地のよい、車の走行音や揺れと同じように場面の基調音となって、背景になじみながら全体に調和しているようなものだった。本当は、一本調子な、機械的な音声にすぎないはずだったが、「左方向です」の部分はとくに、声にはださないがほほえんでいるような印象がふくまれているように感じられた。古い映画では、舞台の影響をつよくうけているために、レストランのシーンであっても、ほかのテーブルの客のはなし声も食器のふれあう音もまったく聞こえない、周囲が完全に無音な状態で登場人物の台詞のやりとりがおこなわれることがある。それを現代の映画のなかにみたなら、さすがに不自然に感じられるかもしれないが、古い芸術のなかでは、かつての人々は、そのようなノイズを遮断することに違和感をおぼえなかったのだ。
柔原めいなが「パイナップルぅ・・・は」と少し考えた理由は、彼女のなかに二種類以上の感覚のイメージが存在しているせいだった。それは過去のなんらかの体験によって定着したもので、もしこのとき、彼女の心のなかをのぞくことができたなら、それらの体験が視覚的なイメージとなってみえたのかもしれなかった。しかし、それは視覚の形として浮かんでいなかったようにも思われるのだ。卵のなかで、まだひなの形になっていない鳥のように、それは漠然とした感覚的な、色のついた光る玉のようなものとして、浮かんでいるように思われた。今、彼女のなかには複数の光る玉が浮かんでいて、それぞれがちがう大きさ、ちがう色をもっているように思われた。そのなかには、ネガティブなものも混ざっていたのだが、それよりも少しだけ、ポジティブなもののほうが大きく、野球の球とソフトボールの球くらいのちがいで、ふたつの印象は比較されていたのだ。それらの光る玉のなかには、かつて彼女が体験した過去の世界が、規模をひじょうに縮小された形で、生きたまま丸ごとはいっているように思われた。柔原めいながつぎに口をひらくまでのあいだ、顔の角度はゆっくりと姉のほうへと戻っていくのだが、そのときの表情の変化は、口角をしっかりあげている状態とはことなって、また、前をむいている状態ともことなっていて、今までにみてきた彼女の、どの表情とも微妙にことなっているように思われた。とはいえ、柔原めいなの表情の変化を、誠心誠意の注意でもってみていたのなら、どの表情にも独特の印象の機微がみられるのかもしれなかった。それでも、やはり印象に残らないみなれた表情はあって、その表情はきっと最初だけは注目されていたのだろうが、以後のほとんどは印象を刺激しないまま通りすぎるのだった。それは、判をおしたように象徴化された表情といえて、表情のパターンにとぼしい人、特定の演技にのみたけた演技者のように表情をつくりなれた人は、そのような象徴化された表情をいくつかもっているだけなのだった。柔原めいなであっても、人前でつくった表情をみせるときには、表情のバリエーションは極端に限られるようになった。それはそれで、全体からみれば一つのことなった特徴にはちがいないのだが、あまりにもそれ一辺倒だと、その表情に、彼女の生の感情が生き埋めにされた痛々しい棺おけをみるような思いがした。柔原めいなの場合、自然な状態こそが一番うつくしいように感じられるのだが、悲しいことに彼女自身はそれを自覚していなくて、徐々に、まったく無防備に、つくられた世界を身につけようとしている最初のきざしを感じるのだった。皮肉なことだが、彼女が自分の自然な状態のうつくしさを自覚するようなことがあったなら、そのときすでに、本当の自然さは失われてしまっているようにも思えるのだ。つまり、その特質は無自覚であって、無自覚であるということは、価値のひくいものをあつかうように、簡単にどぶにすてることも、新しい仮面をうえから塗りかためることもできるということだ。
人間のかぎられた表情筋の組みあわせがつくる、表情の豊かさ、多様さには驚かされる。しかし、それは鑑賞者の能力に依存しているものであって、なによりも、人間の表情をみわける能力のたかさ、精妙さに驚くべきなのだろう。柔原めいながみせた、かげのさしたような表情とも、笑っている表情ともちがっている、独特の表情をむりに言葉でいいあらわすなら、それは、はにかんだような、ほおを赤らめたようなものだった。かといって、実際にはにかんでいる表情、ほおを赤らめている表情とは、空を飛ぶ鳥と鳥が落とす影、実際に走っている車のすがたと音だけで思いえがく車のすがたほどにちがっていて、ただ、気配のようなものを感じるだけだった。そのとき、彼女の丸っこいほおが少しへこんでみえるように思われた。前髪のサイドにとびでた部分が、表情のうえに乗せられた前髪としてではなくて、表情の一部になって混ざりあうようにも思われた。それはバーコードのような、まっすぐな縦に細い線のつらなりをながめていると、湾曲してみえる騙し絵を、アニメのセル画のように表情のはしに重ねているようだった。彼女の表情は、くまのぬいぐるみについて話しているときのようでもあった。しかし、ねこちゃんポーチのときのように、好き一辺倒の感情であったなら、このような表情はみせないとも思われるし、実際に、そのときの表情とはまったくちがっていた。また、はにかむという表現もまちがっていた。彼女のパイナップルに対する感情は、はにかむような、うれし恥ずかしいようなものではなかった。それは、このあとで柔原めいな自身が明言しているのだ。
細部への関心から、私は、このような表情の描写をこころみている。しかし、概略をわけいった細部、それもまた概略であって、細やかなことも荒がきにすぎないということが、たびたび感じられる。細部にわけいってみれば、それは、より細部なものを包括する概略であることに気づくのだ。例えば、柔原めいながパイナップルの印象について考えたときに、彼女のなかには、印象の光る玉が浮かんでいた。そして、その印象のなかには、体験の世界がふうじこめられているようだった。結果的に、微妙な表情としてそとにあらわれたものは、そのなかに、いくつもの体験の世界を包括していて、私は、その体験のなかにはいっていかない限り、彼女の表情を、それらの体験の概略としてながめることになってしまうのだ。また、体験のなかを想像すれば、規模を縮小されているとはいえ、この世界のうつし絵になっているようにも思われるのだった。ほとんど無限のあわせ鏡のようなものが、細部のなかの概略として、その概略のなかの細部として存在している。しかし、どこかで究極的に分割できないものに到達することもあるように思えた。それは、一昔前の物理学でいうなら原子のような概念だ。どこかで必ず、0と1に分割できるようにも思われるのだ。情報科学的に、わりきったものごとの考えかたをする人のように、魂の神秘性をはいして「人間の心もコンピュータと同じ、0と1のような情報でうごいているにすぎない。」と言いきるためには、人間の心を、完全に0と1になるまで分解しようとする姿勢がともなっていなければならないように思われた。でなければ、それは都合のいいときだけ神に願かけをするような、自分の願望や不安をおしつけて、宗教やオカルトを小さくゆがめたかたちに解釈して利用するようなものに思われたからだ。柔原めいなの表情ひとつとっても、その表情を構成する要素のひとつひとつが、超極細の繊維が密集してたばになったカーボンファイバーのようなものといえた。それをとらえるということは、アフォリズムや格言のように、たった一言で、情報量をおしんで、脳のちからをおしんで、手間をおしんで最大限のリターンをえようとする怠惰なやりかたでは決してできないように思われる。例えば、「大衆は女だ」のような概略の言葉からなにがわかるというのだろう。それは大衆のなかにある女のような側面を発見するというよりも、女という側面の箱のなかに大衆を丸ごと放りこむような荒っぽいことに思われた。
車窓の端を二本の赤い標識がながれていった。景色を描写することから物語を再開させようと思ったのだが、次のような景色、「沖縄の、島のようなイメージとはことなって、平野の印象を強調しつづける景色の全体、その全体からは、都会の平野とはちがって退屈で荒涼とした印象をうけない理由、その理由として、心をやすませる緑のはたらきをみせながら、ときどき切れ間をみせるひくい植物のつらなり、その切れ間から、あらわれた建物の一つがコロッセオのようにかたむいてみえた、その断片的な瞬間、」そのような景色の印象と、それに集中しているうちにあらわれる、別の景色の印象をあとに控えているにもかかわらず、二本の赤い標識は、私に、またたきのような印象のひっかかりを残した。それは、「なぜ?」を問わせようとしているようにも感じられた。その印象のひっかかりには、最初に強調されていた、この場面のやすらかさがおおきく関わっているように思われた。やすらかさ。音楽。リズム。断片。それらのキーワードが、この場面の風景には、くりかえしあらわれているようだった。赤い標識が二本であることは、最初は意識されていなかったが、車の進行するスピード(ながれていく景色のスピード)とあわせて考えると、それは、つらなる植物のきれまに、わけいっている一つの道路をはさんで、両側にならんでいるように思われた。このように、景色に集中して、その世界に没入するような感覚におちいっていると、まるで、柔原めいなをのせた車内の空間とは直接関係のない、車外に実在する空間について考えているように錯覚された。しかし、この場面で描写される、どのような景色であっても、それはすべて、後部座席の四角い車窓にえがかれた、一枚の絵画のようにみえているにすぎない。最初に、赤い標識に意識を集中させたときにも、それは車窓の右端のうえのほうに、赤いまたたきとなってあらわれた。またたき。この言葉から、標識が二本であることがわかったのだが、それはほとんど灰色がかったくすんだ色彩ばかりの景色に、点滅するリズムのような感覚を残したのだった。そして全体に、ゆったりとながれていると感じられる、音楽のような、おだやかな気分を楽しんでいるところに、突如、その気分が、視覚的なリズムとして車窓にあらわれたので、私の感覚は驚いたのだった。つまり、二つの赤い標識の間隔と、景色のながれる速度のくみあわせによって、偶然うまれたはずのリズムが、私の気分を、私以上にはっきりと、あらわしているようにみえたのだ。そして、そのように驚いたのは、描写のために景色にわけいっていくことで、車窓の景色をぼんやりとした心象風景としてではなく、実在の世界のように考えていた矢先だったからだ。これは、ある考えごとをつづける人が、その話を一切していないにもかかわらず、考えているタイミングで、偶然おなじような言葉を他人の口から聞いて、心中を言い当てられたように驚くことに似ている。はっきりいって、赤い標識の印象には、それほどの驚きが、感動があったわけではない。それは、全力で集中することで、ようやく小さな違和としてあらわれるものにすぎなかった。しかし、この場面にかぎっても、一万ピースパズルの一片のようなものにすぎない、背景の、一瞬の赤い標識であっても、そこには、この場面の全体にただようながれの影響がはいりこんでいるように思われた。それは、赤い標識もまた全体に影響をおよぼす一要素である、というよりかは、赤い標識のなかに全体の気分がふくまれているのをみるような思いだった。しかし、同時に、私は不安になるのであって、なぜなら、この小説は「柔原めいなの沖縄旅行」であって、「沖縄旅行の赤い標識」ではないからだ。想像だが、後列では柔原めいなが「パイナップルぅ・・・」という口をひくひくさせながら出番を待っているというのに、彼女のまえには多大な景色のつらなりが列をつくっていて、作中の時間はまだ、この段落の一行目で止まっているからだった。


sage