16 二日目




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 二日目の朝。柔原めいなの髪型と服装が変わった。もし車窓のうつりゆく景色とおなじように、髪型と服装も瞬間ごとに変わっていくものなら、描写の手は途方もなく忙しくなるだろう。しかし、平常、見た目に変化がないからといって、「髪型も服装も変わっていない。」と考えることはおごりであって、なぜなら、それは、ものをとらえるのに様々な角度からみて得た平面情報を、同一のものとして、立体情報に結びつける、人間の詐術的な能力によって、かろうじて同一のものとみえているだけかもしれないからだ。したがって、名を呼べばそのものがあらわれると信じ、一度そのものを描写してしまえば、以後もそれはそのものでありつづけると信じる、心理の怠慢を許してはならず、言葉がそうであるように、すべては「便宜的に」とらえられていることを忘れてはならないのだった。そして、今、柔原めいなのうしろにある真っ白い壁にしても、それは完全な白ではなく、また、すべてが均一な白でもなく、超高高度から大陸として眺められたもののなかに、国境があり、民族があり、人々の生活の細部があるように、一見して白い壁にみえるもののなかにも、そのような機微がふくまれている可能性を、つねに忘れてはならないように思うのだ。
 「でゅ、めいなさん説明お願いします。」やたら発声の悪い、暗い、気持ち悪い男性の声が言った。この発言のまえには、想像上のフロア中央の階段を大気の一団がながれおちてくるように、「ねね、キキちゃんどこ、キキちゃんどこぉ」と子供の声がきこえてきた。男性の声にも、子供の声にも、知性が欠如しており、まるで解凍に失敗したためにうまみがすべてドリップとしてながれおちてしまった味のない、くさみばかりが残った刺身のような声でもあった。冒頭だけに注目すれば、この場面の細胞壁がぐしゃぐしゃに破壊されて、知性と霊性がすべてながれだし、あとは中身のないイクラの皮だけがのこっているようにも感じられるのだった。しかし、場面の中央に、こちらにななめに背をむけて立っているのはまぎれもなく柔原めいなであり、もし初見であったなら、男性と子供の声の印象とともに彼女もクソガキ認定されていたのかもしれないが、もはやそこにいるのは、「ナナぢゃんとキキちゃん!」という懲りなく追加される俗世の風にも微動だにせず、ガラスケースのなかの猿にみいる(静かに、観察するように。)、この小説の主人公なのだった。
 主観を排していうと、男性の声はあまりにも気持ち悪かったが、しかしこの旅行に同行する成人男性といえばパパさんしか思いあたらず、性格系癒しキャラ筆頭のパパさんであっても、起きぬけの声にはまだ肉体本来の制約がかかっているのかもしれなかった。彼が和みの性質を発揮するためには、精神の覚醒と活発化が必要のようなのである。男性の声はそのように肯定するとしても、キキちゃんとナナちゃんを追いもとめる子供の声はどうしても知能障害にしか思われず、言葉を発すれば人の返答をろくに待ちもせずにまた「ねね、」と切り出し、あとは「キキちゃん」と「ナナちゃん」と「どっち?」のような単純な言葉の組み合わせだけで無限の言葉を創造し、くりかえすようにも思われたのだった。また、その子供のすがたは、別角度で柔原めいなをとおしみるガラスにうつりこむ形で一時みえたようにも思うのだが、足をひきずるように左右に体重移動をしながら歩くすがたは、水兵シャツをきたゴブリンにしかみえなかった。時間をかけて、忍耐をもってつきあっていけば、その子供も新しい人格を獲得するのかもしれないが、平素は偏見のかたまりである私にとっての初見の印象はそんなものであった。実際、柔原めいなであっても、初見(ネコカフェ)では無感動な、つまらない少女にみえ、それを「忘我の瞬間」などと意味不明なとらえかたをしていたのだが、あの頃の私は空間に餅を描こうと無理をしていたようなのである。
 ここは、ザビーチタワーオキナワの一階と思われる。なぜ猿がいるのかというと、部屋の内装はビジネスホテルと大差ない簡易なものであっても、リゾートホテルだけのことはあり、室内をガラスで区切った簡易動物園がおいてあるようなのだった。また、一階といったが、私の目からみたかぎりでは一階部分である保証はどこにもなく、ただなんとなく、客がホテルを出入りするついでに動物を眺めていく光景が想像のなかに浮かび、それがホテル側にとってもいちばん効率的な出しものの見せかたのように思われたのだった。
 現在時刻は八時五十分で、昨夜の十時二分にベッド上でおこなわれた柔原めいなによる新しい芸「死んだふり」、クイズ形式のたのしいお勉強の時間は飛ばしてしまったのだが、もはやそんなものに期待をよせるものはこの世に肉片も残さないと信じ、パジャマパーティの思い出は、私の記憶のバインダーのなかにしまっておくことにしよう。柔原めいなの今朝の服装は、黄色いプリントシャツに薄いピンク色のショートパンツ、そしてスニーカーという簡素なもので、昨日の黒白二色で統一されたフリルのおおいお嬢さまスタイルよりも、より身軽に、よりアクティブになり、描写の手間も省けてすこしだけさみしい思いになるのだった。「でぁ、めいなざん説明をお願いします」という、鼻の穴にしけった煎餅をつめたような男性の声を柔原めいなが背中できいているとき、彼女の黄色いシャツの背面のプリントがみえたのだが、それは映画「AKIRA」の影響をつよくうけた、とあるゲーム内における円筒型のガラスケースのなかにはいった人体のような色合いをしており、黄色い布地にオレンジ色の文字が、赤っぽい文字が、黒っぽく描かれたJOYという文字が、大小ごてごてと描かれて模様のようにみえ、全体の印象としては、中間色を極力なくした極彩色のピザのように感じられた。また、彼女の髪型は、二日目全体をおおう悲しい前髪現象と称されたように、前髪をわけた状態できっちりピンでとめ、生え際のラインにぴったりはりつくようになって、おでこが完全にまるだしになっていたのだった。そしてあまった髪は、二門の砲台に全出力を集中させる宇宙戦艦のように、ツインテールとなって彼女の耳のうしろから放出されていた。それを止める髪留めは、ゴムに桜のような花を二つかざりつけたものである。さらに、前方向からツインテールへと、髪のながれを補佐する形で、髪の色と同化しない色のピンを耳のうえに縦につけているのだった。なぜかはわからないのだが、彼女のツインテールはエネルギーを二つに分散しているにもかかわらず、昨日のポニーテールもどきより質量がおおく、存在を主張しているようにも思われた。猿を眺める彼女が前かがみになったために、それにあわせて二つの髪たばも前へと移動したのだが、その際には、髪たばが背中のほうですこしほぐれ、いちばんおおきなたばが肩をすべり、それにひきつられて細かいたばも移動していき、胸のまえでふたたび大きなたばに再編集されるといった具合だった。それは、一つのものが肩をとおりぬけていったというよりも、鏡をさかいに二つの対称のものがならんでおり(柔原めいなと猿をさえぎるガラスにも、柔原めいなのドッペルゲンガーがうつっている。)、つねに、片方がすがたをあらわしはじめると、もう片方はすがたを消していく、そのような仕組みをもっているようにも思われたのだった。それは白い鏡のなかを屈折する光のシーソーのようにも感じられた。また、柔原めいなのツインテールの複雑な形状とうごきはイメージの多様さを生み、私は、ほかのいくつかの矛盾した印象を切りすてなければならなかった。例えば、「コンピューターグラフィックにおいても、風にたなびく髪のようなものは表現がむずかしいと言われるのだが、それはたしかに、奇妙に意思をもって動く生き物のような複雑さをもっているようにみえた。」そのような平易なイメージは許せるものである。しかし、「柔原めいなのツインテールを疑生物化していったなら、いつか彼女をしめ殺さないとも限らないだろう。」そのような考えからうまれるイメージには、もっと不安なものがある。私として捨てがたかったのは、「もっと無邪気な、かわいい元気な黒い子馬の尾のようなものである。」、という印象で、それは当人と切りはなされたほかのイメージとちがって、柔原めいなの印象とも一体化できるのだが、それだけでは、髪たばのもつ繊細さや複雑さが表現できないことも事実であった。例え一つの対象からであっても、様々な矛盾した印象をうけとることは可能なのだが、それは、場面が動くたびにものごとの印象が変化していくというよりも、私が比ゆを思いつくたびにものごとの印象が塗りかえられていくようであった。したがって、最初は「なんの変哲もない黄色いシャツ」として思い返されていたものも、ひとたび比ゆの網をくぐりぬければ、「極彩色の人体パーツのような黄色いシャツ」の色合いをおびるようになり、今後そのようなイメージをぬきにして、それを思い返すことは不可能になってくるのである。
 「でゅぁ、めいなさん説明お願いします」という、聞こえているはずの男性の声にも、子供の雑音にも一切反応をみせず、無言で、ガラスに指先をあてて猿とともにすこし移動する柔原めいなの代わりに、私が説明すると、文章中で一言「猿」と説明されたものは、顔面の白い、ちいさな、横文字のながい学名をもちそうなもので、体長以上に尾がながく、おそらくはアフリカ辺りに生息しているのではないか、そのようにも思われるのだった。それは、ショウルームのような白い清潔な部屋のおおきな植木鉢の木のうえを、細い枝をほとんどたわませることもなく器用に移動していた。全体に灰色っぽい焦茶色の体色をしているが、手の部分は皮手袋をはめているように、赤みがかって、一回りふくれているようにもみえた。ながい尻尾はちからなく垂れさがり、猿の移動とともに枝の形をなめるようにやわらかく動いたので、ガラスの反対側にたつ柔原めいなのツインテールの動きとも対比されるようであった。猿は、頭のおおきさにたいして顔面のしめる割合がちいさく、白塗りに浮かびあがった真っ黒なあざのような目と口を、頭部の下半分、その中央に凝縮させているようにみえた。また、この猿はニホンザルのような純粋な猿のイメージとはことなって、リスやフクロウなどの別の動物のイメージを混在させたタイプにみえるのだった。猿などを丁寧に描写してみたところで、この小説にどういう影響があるのか、私にもわからないのだが、柔原めいなが男性への返答もわすれて、目を奪われていたのはそのような猿だったのである。しかし、目を奪われていた、というわりには、彼女の表情はいままででいちばん無表情にちかく、そこからどのような感情を推測することも困難なように思われるのだった。しかし、またしても、なぜ彼女は、男性の「説明お願いします」の声を平然と無視するような真似をするのだろう。女の子らしい嬌態をつくってみせるさまと、身近な人間さえも意識の視界にはいらなくなるさまが分裂しているのである。もちろん、私がさいさん発する「なぜ?」は、「そういうものだ。」の一言で片づけられるものばかりなのであるが、「そういうもの」が「どういうもの」であるのかを的確に理解し、表現することはむずかしいようにも思われる。また、人は年をとるにつれて様々な経験をつみかさねるのに、その経験にみあった成長がおこらないことを不思議に思っているのだが、その理由は、「それ」を「それ」にまで落とし込まず、つねに「そういうもの」としてとらえつづけるから、そのようにも思われるのであった。「それ」と「そういうもの」のちがいは、「それ」と「あれ」ほどには(台所まわりの使い勝手の問題と、スペースシャトルの技術的な問題ほどには。)ちがっているように思われず、わかりにくいものなのだが、私にとっては、同様に曖昧な問題である「生きている」ということと、「生きていない」ということほどもちがうように思われるのであった。
 「でゅゎ・・・」本日、何回目かのウルトラマンが鳴き、時刻はすでに八時五十分であった。ガラスにふれる柔原めいなの指は、ルネサンス絵画にみられる、中指と薬指をくっつけ、人差し指と小指をはなす、そして甲に近い指の関節はとがった山なりをえがき、爪のつけねの指の関節は谷のように折れまがる、そのように古代ギリシア的な調和の人工的なうつくしさに、自然のもつランダムな要素を付与したものであった。それは最初、あまりにも曇り一つないガラスを汚さないために指先のみを押しあてる配慮のためとも思われたが、かと思えば一瞬、遠慮なく右のてのひらを押しあてる瞬間もあり、ガラスの存在にはほとんど頓着していないようでもあった。例えるなら、考えごとをしながらピアノをまえにして意図せず「月光」のような複雑な曲をかろやかに弾いてしまうが、周囲がそれに注目して聞き耳をたてるころには、本人は演奏をやめて別の考えごとをはじめてしまう、そのように無意識的な手の一人遊びのようにも思われたのだった。もしかすると、この場面では、彼女の表情がほとんど変化しないために、変化の質量保存の法則のようなものが働いて、ツインテールに、ガラスの表面を移動する手先に、本来起こるべき生き生きしたゆたかな変化が起こったのかもしれなかった。例え、指先で語っていたとしても、集中状態にありながら(眠いわけでも疲れているわけでもない。)、顔の表情すらものいわぬ彼女というのは新鮮に感じられ、「でゅ」や「キキぢゃん」の日常的な俗っぽさのむこう側に歩きでたようにも、いつもよりすこし浮世ばなれした存在にもみえ、彼女が指先でガラスのうえを移動していく様子は、宙に浮かんだ雨だれの水たまりのうえを、波紋をたてながらそろそろとすすんでいくようなものにも感じられたのだった。
 ここで、すこしはなれた位置から彼女を眺めることにしよう。なぜなら、完全に無視された傷心の男性が、私にそのように促したからである。ガラスのむこうには(閉じ込められたわけではなく、ガラスケースの角をまわりこむようにして)、腰のうえあたりをおおきくまげて、前かがみになり、ひざに両手をあてた柔原めいなのすがたがみえていた。視野狭窄的なこの小説で、彼女の全身をとらえることは意外とめずらしいことで、今、彼女のすがたはスニーカーの足のうらが接地する床の隅にいたるまではっきりとみえている。また、彼女を透かしみるガラスには、ゴブリンの子供のすがたとその父親と思われる男性のサンダルばきの足が(ぺこっぺこっと音を立てている。)、また、すこし間をおいて、バッグをさげた女性二人組の通行人のすがたがうつりこんでいた。ガラスのなかには、馬糞のようにまるまった猿の背中が地面に落ちており、柔原めいなの視線は、さきほどみた木のうえの猿にそそがれていたが、ちらりと馬糞のうえにも視線が落ち、あまり動きがなく猿の表情もみえないためか、視線はすぐに木のうえへと戻っていった。彼女は、頭をあげたまま顔の表情も変わらなかった。ひざのうえに両手をあてているのだが、完全に体重をかけているわけではなく、ひざは小刻みにもじもじしており、そのたびに、てのひらがひざのうえをなでるように微妙にすべってみえた。それはなんとなく、両ひざを蚊に刺されてしまったためにパウダー式のかゆみどめを塗ったのだが、まだほんの気持ちだけ気になっていて、つい触ってしまっている人のようでもあった。「パウダー」にこもるゆるさのようなものは、両足を内向きにかるくひらいた、彼女のひざをまげる角度のゆるさにもつながっているようだった。そのゆるさにくわえて、黄色いTシャツの下腹部にしわをつくりながら上体を真横におりまげた角度と、スニーカーの足首からふともものつけねまでがまったく素足であることは、視覚的にバランスの不安定さを誘発するようでもあった。しかし、倒れそうなわけではなく、むしろ、ひざうえにつくられる逆三角形(ひざからお尻へ、お尻から肩へ、肩からひざへ。)は高度な建築のようにうつくしく安定しており、強いていうなら、ひざとてのひらの間にボールベアリングを遊ばせているように感じられたのだった。すこし表現を変えていうなら、彼女は絶対にまわってこない馬飛びの順番まちをしているようにもみえ、意識のなかで列をつくる馬のどこにも飛び手は見当たらないのであった。そして、眺めていた猿が尻尾を残像のようにのこし、枝から飛びおり奥へと消えると、いれかわるように、帽子をうしろにかぶり袖なしのシャツをきた「ひぐらしの鳴くころに」のカメラマンのような男性が、ガラスのなかにしゃがみこんだ。男性は空間を無視して床にめりこむように、熟練の雰囲気でカメラをかまえ、柔原めいなはそちら(虚像ではない本体のほう。)に目をむけると、表情がすこし変わり、ようやく、馬飛びの飛び手のすがたがみえたように、両足のスタンスをがに股気味にひらいたのだった。それによって、彼女のまわりの白い空間に平均的な重力が戻ったようにもみえ、まだ、馬糞を眺める素振りはつづいていたが、彼女の意識のみだれた部分に、猿への集中以外のものが生じていくのがよくわかるようになっていた。


sage