23 エア水泳




-23-

 柔原めいながどこに寝ているのかといえば、ホテルのベッドの上なのであるが、彼女がどのような体勢で寝ているのかといえば、体育座りのまま左に横倒しになって、肩から上を仰向けにした状態で、首だけは両膝のむこうの真っ白な窓の方向をみている、そんな体勢なのであった。つまり説明が面倒なほどに不自然な体勢なのだったが、彼女はリラックス仕切った様子で、腰側にまわった右手でベッドの上をポン、ポン、ポンとかるく叩いているのだった。ディズニーランドでは気持ちばかりが高揚して、からだを使う機会がなかったのか、この場面ではやたらとからだを持て余しているようだった。「ベッドの上でからだを持て余している」ときけば、なにかが起こりそうな気がするが、これから彼女がおこなうのは健康的な「エア水泳」である。この小説には暴力やセックスのような不健全な描写が欠けており、もしかしたら、私はそれを続けることによって、現実を間違った、ひどく不完全な形でとらえるようになってしまうのかもしれない、と憂慮も焦りもしたのだが、私が現実をとらえそこない最終的に世界に「敗北」することになったとしても、柔原めいなの健康的な世界と道連れであるならば、それも良いような気がした。私のいっていることは度々矛盾しているが、それはとりあえずこの場面とは関係がない。
 ここはディズニーランドにちかいホテルであるとすでに推測はすまされているのだが、柔原めいなのみている窓は本当に真っ白で、景色の影も形もなく、わずかに反射すら、「質感」すらなく、完全な無の世界か、光のみで構成される天国のようでもあり、ここがどこなのか、ディズニーランドの敷地内に併設されたホテルなのか、近隣のホテルなのか、この段階では明確に推測するすべもなかった。それは似非万能神たる私が、うっかりホテルの外を創造しわすれた、その労を省いたという意味ではない。例えば白いブラインドがおろされている、例えば白い曇りガラスである、そのようにも考えられるのだが、話せばくどくどしい幾つかの要素によってそれは半ば否定されており、ベッドを水面に例えた場合の、喫水線より深く沈みこんだこの窓は、合宿の男子部屋の、闇のむこうを想像することが困難な「高い黒い窓」の対になる存在のようにも思えるのだった。それは性格的に穏やかな天使のすがたをした双子の妹と、性格的にはげしい悪魔のすがたをした双子の姉が、相違を強調されながらもおなじ性質をもつものとしてセットであつかわれるような、使い古された発想ではあるが、この場合に問題にされているのは四角い、色むらのない、純色にして、もっともわかりやすいモノクロの「窓」であり、私には古代ギリシア的な対比と調和のような極度に単純化された美としても感じられるのだった。
 これ以上書けば柔原めいなのベッドをタップする右手が突然「バン!」と苛立たしく打たれるようにも感じるので話を戻すが、このホテルの内装はくだんのがっかりホテルと大差なく、目にみえてちがう部分はといえば、部屋がせまいこと、平べったい枕がなぜか二段重ねになっていること、そして、柔原めいなの寝ているベッドカバーが群青を基調とした黄色と白のタイル模様になっていることである。時刻は16時10分で室内の照明は点されておらず、真っ白い低い窓からの光が部屋全体を照らしている。私は、ねずみ色のトレーナーをきた柔原めいなの今の体勢を「オットセイ」もしくは「アシカ」に例えたいと思ったのだが、彼女は背中をそらしているわけではなく、むしろ逆に、顔と両膝の距離が30センチほどになるまでからだをまるめている。肩をあおむけに寝かせて、腰と尻を横にひねって、折りまげた膝をむこう側(窓側)に投げだしているために、彼女の右肩が「頭部」に、傾斜をつけてひろくなっていく腰骨が「胴体」に、折りたたんだ膝は「尾びれ」に、全体として、砂浜か氷上を腹ばいに寝そべったオットセイが、尾びれをむこう側に投げだして休んでいるようにみえるのだった。気がつくと父親が、(あまり親近感をもちすぎることも、意図的な肩入れにつながるために良くないと思い、呼び方を変えたいと思う。また、柔原めいなにかんしても、「めいな」などと呼ぶべきではなく、一定の距離を保つべきだと思うのだ。ちなみに、消失が確定した恵方巻の回に発表した公式の呼び名は「ニコさん」となっている。「にこはら・めいな」という仮名の「にこ」は「柔」の正しい読みかたではないのだが、「柔毛・じゅうもう」と「和毛・にこげ」がおなじ意味をもつためにそう読ませている。)
 気がつくと父親が部屋にはいってきて、それに気づいた柔原めいなはゴロリと転がって、顔を真っ直ぐこちらにむけて、右手で右足を、左手で左足をつかみ、今度は正真正銘のオットセイのようにそりかえったのだった。そりかえるといっても、それはさきほどの前屈と比較した印象であって、まだ中途半端に足をつかんでいるに過ぎなかった。限界まで開いた逆「ハ」の字にみえる茶色っぽい靴下の足のうらが、頭からはえ、すこしはなれた位置にテレポートしたうさぎの耳のようにもみえ、彼女はその状態ですこしだけミッキーマウスの影響をうかがわせる「ンハハハッ」という笑い声をあげた。父親も知性と最初期に想像された美貌を取り戻したような声で「フフッ」とちいさく笑った。私が最初にイメージした父親の外見とは、くっきりとした二重で、痩せ型で、比較的若い、お洒落な男性である。また、母親は、髪の毛で顔の輪郭を隠すようにおおった、顔の肉も目鼻だちの造詣を隠すようにすこしむくんだ、内向きの印象のある女性である。姉にかんしては後ろすがたをみているために、そのイメージ以前のことはよくおぼえていない。姉の首は細くしなやかで、短めの髪をちいさく後ろで結んでいて、えりあしの生え際がよくみえていたのだった。今、窓際のベッドの荷物をとりにいった、腰の左右から二本のベルトを膝上まで輪のようにぶらさげた女性が、母親なのか姉なのかは、体格だけではうまく判別ができない。その手前のベッドのうえで、柔原めいなは、両足をつかんだまま、腹部までしっかり立ちあがったきれいなえびぞりをみせて、すぐに倒れこんだ。柔原めいなの身体能力にかんしては水面下で何度か議論がなされ、結論をだすだけの判断材料が足りていない状況なのだが、彼女の柔軟性だけは、たしかなものとしてすでに評価が確立している。
 このとき、柔原めいなと父親間の微笑ましい空気とは無関係に思える、おそらく母親の「ほらぁ、さっきもそうだった…」という声がきこえ、声の出所から、荷物のなかの洋服を確認しにいった下半身は姉であるようにも思えたのだった。無碍にあつかわれることもありながら、やたらと仲の良い、節分の休日はほとんどべったりで過ごした、幼稚な柔原めいなと父親のコンビと、一方、今のところはあまり主張のない現実的な母親と姉のコンビで、日常的に派閥ができているのかもしれなかった。しかし、考えてみれば、柔原めいなが父親に冷たい反応をみせていたのはすべて半年後(合宿から二ヶ月経っているので、正確には四ヶ月後)の沖縄旅行の話であって、また、今の柔原めいなと父親の関係性よりは距離を感じるが、柔原めいなと姉のコンビが中心的にみられるのも沖縄旅行の話であって、それを考えると、私はこれ以上は詳細をのべるのもはばかれるほどの、必然的な悲しい物の道理を察してしまうのだが、この段階(2月)では、まだ、かろうじて父と娘の蜜月期がつづいていたのかもしれなかった。つづいて、「うっ!」「んーぃゃ!」といいながら、今度は両手をはなして、柔原めいなは楽しそうに小刻みなえびぞり運動をくりかえした。準備運動がおわると水泳にはいるのだが、しかし、このとき、所在なさげな様子で荷物をあさっていた姉が、柔原めいなをみまもる父親の手前に戻ってきて、そのすがたがみえなくなると、同時に、なにかを叩く「ボスッ」「パシン!」という音がきこえて、聞きとれないが、母親のなにごとか文句をいうような、低いうねるような声がきこえたのだった。
 私はさっさと「ぶーーーん!」といいながら、ベッドのうえで大きな手振りの平泳ぎをはじめる柔原めいなを書こうと思っていたのだが、あらためて注意深くきき、考えてみると、おそろしい事実に気づいてしまったようにも感じたのだった。姉がすこしだけ「所在なさげ」にみえたというのも、その気づきのあとに書きくわえたものであって、いわば私の推測の意図のはいったものである。私は「パシン!」という音と、無理に言語化して例えるなら、「っ加減にしろよぉもう」と言い捨てるような調子の、母親のちいさい声をきいて、姉がなにか失態をやらかして見つかるべきものが見つからないために、母親が姉を「叩いた」のではないかと推測したのだ。それは誤った当て推量に過ぎないのかもしれないし、仮にその通りだったとしても、親が子供を叱ることなど別に珍しいことでもおかしいことでもない。しかし、私のみえないところで、かすかな推測の予兆だけを残しておこなわれたそれは、他にも様々な当て推量をうみだす余地を残しているようで、平和一辺倒にみえたこの家族にあっては特に、おそろしく後ろ暗い感覚をともなって感じられたのだった。
 思えば、私は最初から、母親を「蛇のような」と明確な根拠などなにもなしに決めつけていたのだが、私とて、なんの材料もなしに先入観だけでものごとを決めつけるような真似はしない。理知的ではないまでも、かすかな声、かすかなイントネーション、様々な要素の総合の、かすかな空気感から「印象」を感じとり、ものごとを判断しているのである。その鋭敏さは、過信はまったくできず、不安定でもあり、ときに偏見もおおいのだが、それでも、一般の人よりははるかに優れているということは理解できるのだった。それは、犯人を追跡しにでても、打ち捨てられたビデオテープのようなものばかりを的確に見つけ出してしまう警察犬のように、脱線した、無駄な精度しかもたない、肝心なところでは鈍感な、役に立たないものでもあるのだが、「ボスッ」「パシン!」という遠慮のない音と、内容は聞きとれないが「べらんめぇ口調」のように一定のうねりをふくんだ母親の声に、たんに親が子供をしかったという事実以上の、なんらかの弱肉強食の業界の裏側をのぞいたときに想像以上と感じるような、放りなげるような、吐きすてるような、殺伐としたものを感じたのだった。それは、私の想像する「家庭」の範疇の、さらに「下の家庭」の範疇をしたまわっているようでもあって、生活臭のほとんどしない広い裕福な自宅をもつ柔原家の、陽光に照らされたような柔原めいなと父親の雰囲気にはまったくそぐわないものだったのだ。しかし、ただでさえ「サゲ」過ぎている母親のイメージを、これ以上下方修正するわけにはいかなかった。私は、フェアにいきたいと思うからこそ、柔原めいなを「めいな」と呼ばず、パパさんを「父親」と呼びなおしたいのである。したがって、今さらではあるが、この推測は、判断材料がそもそも足りていないこともあり、私の一方的な妄想ということで一時保留にしておきたい。私のなかの感性のコアは、セックスも暴力も、陰湿で殺伐とした世界観も、それを見なければならない局面では目をそらさないように努めるつもりなのだが、それを見出す必要のない場面では無理にやぶをつつくような真似はしたくないと考えている。
 さて、まるで、ショッピングモールのときの柔原めいなと、その背景の半ゾンビ化した老年の男性のように、世界観の次元断裂をおこすホテルの室内ではあるが、「パシン!」の音のあと、柔原めいなは「ぷーーん」といいながら、ほとんど腕だけの、足は足先を垂直に立てて暴れた円をかくばかりの平泳ぎをみせ、「泳いでる」といった。父親は元気なく「うぅん」と相槌を打つだけで、水泳のあとの柔原めいなが絵をかく場面でも、「おぉ…良い」といいながら、気のない素振りで景色を眺めていたのだった。ぶつかる場所などなにもないベッドのうえだが、どこかをつったのか、制御をうしなったヘリコプターのプロペラのように伸ばした両足をバラバラに投げだしたまま、柔原めいなは「いてぇぇぇえ!」を二回繰りかえした。大げさに痛がっているわけではなく、どこが痛いのかもよくわからないのだが、この形だけは粗野な、それでいて内面的な柔らかさの色がにじみでてしまう言いかたは、小学校高学年から中学のはじめ辺りの少女に特徴的な言いかたで、合宿のときの「ゴミ箱あふれてますねぇ、ヒャハハッ」の言いかたに通じるものがあった。これが成長とともに男性的に、男性よりもかえってえげつない言いかたに変化していくのだが、際限なくえげつなくなっていくわけではなく、十代の後半辺りがピークで、二十台を過ぎるととかえって落ちついてくるようにも思われるのだった。いわゆる「花盛り」の時期と、「えげつなさ」のピークが一致していることは、外面と内面の相反のようなものをうみだしていて不思議にも思うのだが、突っこんで考えていけば、男性の怨念と皮肉を刺激しそうなこの辺りのことがらにかんしては、まだ柔原めいなには関係がないし、私もこれ以上は知らない。先回りしていっておきたいことは、この小説では、女性専用車両を攻撃したり、痴漢冤罪被害について熱く議論するような、合宿のときの「男子、女子」の区分についてまわる連帯と格差意識のような、性差対立を煽るような真似は、現代的な政治談議とおなじように回避したい問題に思えているのだった。以前に私がかかわったある人物の短編小説では、その辺りの問題がじつに毒々しく、憎々しげに語られていたのだが、私は「男性」にも、「女性」にも、尊いものを見出したいと願っていることはおなじで、それは合宿のときの青いセーターの母親であっても、柔原めいなの母親であっても、もし、そこに光明を見出す余地があるのなら、決して先入観だけでそれを塗りつぶしたりはしないだろう。逆に、「柔原めいなだから」とか、「子供だから」とか、「何々だから」という理由で、手心をくわえることも一切しない。というのが、一つの理想論である。


sage