27 空腹とこうもり




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 柔原めいなのもつ可愛いねこちゃんは、目の奥に狂気をにじませた、冷徹な復讐者のような表情をしていた。その丸いボタンのような瞳の白目の部分は濃い紫で、左目は角度がずれて、紫のなかを反射によって白い輪が輝き、義眼のようにもみえるのだった。私が最初、「オクトパス」という言葉を連想したのは、手の部分に吸盤のような肉球がついているからではなく、中央に黒目を配置した丸い紫の瞳が、生きた海洋生物の吸盤のようにもみえるからである。このようなふてぶてしい、あるいは、とらわれの悲しみ(今、平べったい胴体を、柔原めいなにつかみとられている)が一巡して、どす黒い虚無の諦念に変わったかのような表情のポーチは、可愛さのストライクゾーンをボール気味に外れているようにも思える。しかし、レターセットの端っこに貼りついた、存在は黙認されるが注目もされない、毒にも薬にもならない(ローマ字をよく読めば、名前は一応あるような。)キャラクターとはちがって、少女の寵愛をうけるこれら二流の動物キャラクターたちは、不気味さ、不可解さのような特質を、「破調の美」の個性として、もちあわせているようにも思うのだった。そのデザインは、「キティちゃん」のような一流キャラクターに比べれば、美的神経の洗練にむらのある、若干「出たとこ勝負」のようなものにも感じられる。サンリオの、シンプルではあるが、頭からつま先まで、また、すべてのキャラクターに、極小の、極大の「サンリオ」の判を押してあるかのような、特色と統一性をもったデザインは、好き嫌いはあるが、結果的におおくの人の支持を集めるものである。それを、キャラクター界の、計算された魅力の「アイドル」のようにとらえたのなら、このような二流の動物キャラクターは、人が、路傍の石のような、そして、「出たとこ勝負」の個性をもつ異性にたいして、志向性を発揮して恋愛状態におちいる(つまり、一般的な恋愛の形)の、「あばたもえくぼ」の「あばた」の特質をもっているようにも思うのだった。
 そういう意味では、柔原めいなの「可愛いねこちゃんの魅力の紹介」は、伝達という意味では、自分の片思いの相手の、あるいは最愛の恋人の魅力を第三者に伝えようとすることと同様に困難なものである。それは、「キティちゃん」のように最初から「えくぼ」であるものを紹介することとはちがって、厳然とした「あばた」をみせながらも、同時に「あばたがえくぼに変化した過程」を第三者に追体験させなければならず、その過程をなかったことのようにすっ飛ばして、早急に「えくぼ」を強調してみたところで、やはり、「あばた」は「あばた」のようにしかみえないのだ。例えば、ライトノベルにおいて、「十人中、八人が振り返るほどの美人」という表現が多用されるのは、面倒な「過程」にページを割かない工夫なのだと思うが、いっそ「十人中、十人が振り返るほどの美人」といいきらないところに、好みは人それぞれ、というリアリティのさしはさみがあるように思われるのだった。そして、それが結果的には、奇妙なことに、自分は「十人中、八人」の「八人」に属するだろう、とそろって考える「十人」の読者を満足させることになるのだ。そのような話を引き合いにだすほどには、不細工にも悪趣味にもみえない「ねこちゃんポーチ」で、その可愛らしさは、私にもわからないことはなかった。しかし、柔原めいなの浮かれた、感興におぼれたテンションと比べれば、もはや触れただけで相手を倒す拳法の達人(彼女)と、まだ基本の型も身につかない小僧(私)ほどの差があった。私がいくらそれらしい理屈を並べてみたところで、「愛する能力」にかんしては、彼女は遥か先を行っているのである。
 ねこちゃんポーチの場面では、まだ昼食を食べていないために、柔原めいなは空腹を感じているはずだった。しかし、徹夜のテンションが「眠気」から「覚醒」の山へと、中途に様々な状態をさしはさみながら、一晩で何度も上り下りするように、空腹もまた様々な気分となってあらわれているようだった。というのも、最初(「空腹とお菓子」の場面)は、若干の「減退感」と、訴えかけるような「不満」となってあらわれていたものは、母親に我慢を強いられることによって、不満をちいさくし、一時的に減退感をおおきくさせたようなのだ。それは、首をがっくりとうなだれさせ、シートに斜めに伸ばした足のすねを触る動作にあらわれている。しかし、姉と会話(「お、な、か、す、い、た!」)をつづけるうちに「身体の気分」から「心の気分」へと関心がうつっていき、つづく「ねこちゃんポーチ」の場面では、逆に高いテンションをみせているのだった。それは、腹の底から出てきた元気ではなく、好きなものへの感興を呼びおこして気をまぎらわすことによって、一時的に空腹を忘れた状態にすぎない。それはポーチの紹介を終えるとともにすぐに思い出され(「ところでお昼は…?」)、柔原めいなは、不満をあらわにもするのだが、冗談混じりにもなっており、気持ちはすこし元気な方向に、前向きな方向に変わっているようだった。ここまでは理解できていたことなのだが、よく思い出してみれば、つづく場面は「パイナップルの木」なのだった。その場面では、私が「おだやかさ」を強調していたように、彼女の表情、口調は、妙にやさしい、大げさにいえば、ある種の瞑想性さえ感じさせるものだった。これは空腹の減退感がすっかり定着して、虚脱とまではいかないのだが、普段の元気の角をとるように、和やかに、良いふうに作用した(「楽しみです、色んなことが…。」)ことのようにも思えるのである。
 普通、小説で問題にされるのは心理的なドラマであって、登場人物の心理状態に作用するものは「出来事」や「性格」や「関係性」と相場が決まっている。だから、動物園の檻にかこまれた怠惰な生き物をあつかうように、単純な「眠気」や「空腹」で、すべての心理状態を説明するような真似は、逸脱しているというか、奇妙であるようにも思われる。しかし、事実、生半可な感情よりも、人は眠気や空腹によって精神状態を左右されており、よほどのことでなければ、それを忘れないのである。例えば、心理解剖をおこなう小説や、分析口調のおおい芝居に影響されて、それらの分析的な視点を日常生活のなかにもちこもうと試みたとしよう。すると、「ある人物がいつもよりも不機嫌にみえるのは、なぜなのか?」、というような問題が目につき、人はそれを心理的なアプローチで考えようとするのだが、その答えというのは、小説や芝居でみた劇的な要素、探究心を満足させる要素など皆無な、眠気、空腹、疲れ、血圧、ホルモンの分泌状態、そんなものが原因であったりするのだ。これは単純に「面白くないから」という理由で、創作物、あるいはそれに準ずる心理学からは閑却されている、現実的な事実である。人間にはたしかに心理的な側面があり、創作物はそれを一時的に切り取ってはいるのだが、それはいわば、味付けされたダイジェストであって、現実の、長い、退屈な、沈滞した時間の流れ(何気なく取り出した今この瞬間。)にはほとんど適用されないのである。
 パイナップルの木の場面の後、車外に出た柔原めいなはなぜか黒い傘をさしながら、「やっとお昼が食べれます、今」といった。その顔は、フルラウンドをたたかいきって疲労困憊になりながら控え室に戻っていく、顔面を打たれすぎてまぶたのつぶれてしまったボクサーのようにも、あるいは、まだ目が開かない新生児のようにもみえた。パイナップルの場面の冒頭でも、窓の外をしずかにじっと眺めているところを、姉に声をかけられて、眠気から覚めたように目をこする仕草はみせていたのだが、そのように、空腹が目におよぼした筋肉の弱体化は、いまや完全に二つの目をふさいでしまったようだった。やる気なく、手首を洒落っぽく折り曲げて野球のバッドをかまえるように、斜めというよりはほとんど真横にさしている黒い傘は、必然的に「こうもり」というイメージを喚起し、暗闇に生息する視力の退化しきった、柔らかい体毛のなかで眠ったような生き物と、今の彼女自身を混同させるのだった。車内で、手のなかでもてあそんでいたピンクの帽子は、ここにきてはじめて彼女の頭におさまっていた。「唯二無一」の(まったくおなじものを二つもっている)帽子と、登場はこの場面が唯一の傘と、目のつぶれた、あごのあがった表情の組み合わせは、この場面を、ほかのどの連続体にも属さない異質なものにもみせていた。柔原めいなの表情は、黒いぼやけた影と化した目元がふくらみ、口元は、白い前歯の下に唾液のひいた隙間をあけるように、だらしなく開かれていた。それは、まぶしい日差しに目を細めながら、ネット上をみあげる女子ビーチバレーの選手の顔のようにもみえたのだが、このように虚脱しきった状態でコート上に立ったのなら、顔面にスパイクを決められることは必至だった。このような、平常の元気も可愛さも、衰弱のなかに没した表情をみつづけたのなら、これが「柔原めいな」であることを、私は忘れてしまうようにも思えたが、これが、腹を空かせきってぐだぐだになった、真実の柔原めいなのすがたなのだった。そこにはもう、直前の場面での、おだやかな、良い雰囲気の彼女などは微塵もなかった。
 つまり、彼女の空腹は「可能性」によって現出するようで、最初は「お菓子が食べられるかも」という可能性によって、そして、可能性の消失とともに空腹は抑えられ、抑えられてはいたが完全に消失したわけではない空腹は、「これからお昼が食べられる」事実によって、むきだしの、本来の、暴力的な性質をあらわにして、彼女はそれを、全身の毛穴から垂れ流しているのだった。いわゆるガス抜き、愚痴をこぼすという行為は、不満がまだ軽度の場合には有効なのだが、人は、どうあがいてもくつがえしようのない現実にはかえって開き直り、沈黙の、受容の態度をみせるように思えるのだ。それは気持ちを解放することによって、処理されない気持ちがブーメランのようにかえってきて、苦しみを増させるために、先んじて心にプロテクトをかけるためである。逆に、今の彼女にみられるのは「空腹をどのように解放しても、それは満たされるだろう」という予測への信頼、安心感からくる、空腹の全的解放のようだった。すべての可能性を奪われた「絶望」はたしかにつらいことだが、目の前に希望をぶらさげられて、心を解放したとたんにそれを取り上げられることは、ある意味で絶望以上につらいことである。そういう意味では、柔原めいなは、「もしかしたら、お昼はまだ食べられない」という可能性の「二の矢」を考慮した、意識の抑制をまるで放棄しているようだった。おそらく、「着いたよ、お昼食べられるよ」というような、母親か誰かの言説を、これ以上ない明快なロジックとして鵜呑みにしているのだろう。
 現実的な母親や姉にはわかっているものと思われるが、「目的の店が混雑していて1時間待ちだった」あるいは、「臨時休業だった」というような現実的な不測の事態にたいしては、例えどんなに正当な理があっても、「そんなに混むなんてきいていない」、「案内書には、今日やっていると書いてあった」のような、こちら側(柔原家側)のロジックは通用しないことのほうがおおい。例えば、店主が急病に倒れたのかもしれず、突然、団体客が訪れたのかもしれないからである。にもかかわらず、柔原めいな、及び彼女のような子供は、または、考えが足りないか、柔軟性が足りないか、どちらにしても視野の狭い人物は、簡易な、便宜的でもあるロジックを盲信しており、ロジックの破綻を考慮にいれないとともに、それが現実的にねじ曲げられた場合には、それを容易く認めようとはしないのだった。しかし、例えば、柔原めいなが「お菓子を食べても良いといわれていたけど、急に「やっぱり駄目」っていわれた(お菓子を買い忘れたのかもしれない。)」ことには、不満の表明と不正の糾弾をおこなっても、「お菓子を食べたら駄目っていわれてたけど、「やっぱり良いよ」っていわれた(貰い物のお菓子があまっていたのかもしれない。)」ことには、無邪気な喜びしかあらわさないであろうことを思えば、ロジックの厳密性にこだわっているわけではなく、たんに個人的な不満を噴出させる拠り所として、ロジックの正当性を利用しているだけのようにも思えるのだった。そのように指摘されれば、誰であっても思い当たる節はあり、ばつの悪い、あるいは、すこし開き直ったようなずるい含み笑いを浮かべるかもしれない。しかし、そのような余裕は平常のものであって、「今まさに不都合と不満に直面しているときには」、自らの主張するロジックの公正明大さばかりがつよく感じられて、それをねじ曲げられることは、奸臣の裏切りにも等しいものに思えるのである。人は本来、ロジックなどはどうでもいいはずなのだが、考えなしの柔原めいなであっても、不満にだけはそれを適用せずにはいられない。それは「悩む人ほど考える」ということも同様であって、もし、(たんに平和ということではなく、負の欲求さえも考慮にいれた)すべての不満と憂いを神がかり的に排した天国があったのなら、そこでは人間は、よく食べよく眠った柔原めいなのように、なにも考えない動物へと退化していくようにも思うのだった。
 かすかに雨がぱらついているのだろうか。風がつよいのだろうか。横断歩道をわたりながら、手首にも声にも表情にもまったく力の入らないままに、傘を揺れさせる柔原めいなだった。姉が、他人事のように、やや同情するように「今からですかぁ…」といった。姉も、空腹にかんしては同条件のはずなのだが、柔原めいなにこらえ性がなさすぎるのか、姉の自制心がつよいのか、二人の朝食の量がちがっていたのか、姉はみえないところでなにかを食べていたのか、それはわからないが、わりと元気な様子だった。いえることは、柔原めいなは正直すぎるということである。なにも昼食が1、2時間おくれただけで、ここまで空腹の気分を全面に丸出しにした態度をみせなくてもいいように思われた。それは声の端々などではなく、表情の端々などではなく、挙動の端々などではなく、サンリオの行き届いたデザインのように、傘のてっ辺から、みえない靴のなかの足の指のつま先まで、「おなかすいた…」という判が押してあるようなものだった。かつて「どっち?」の場面では、文章の表現能力は、本心をいう能力なのか、嘘をつく能力なのか、と考えたことがあったが、おそらく、柔原めいなが夢みるような「女優」であったのなら、それはやはり「嘘をつく能力」であるようにも思えた。残念なことでもあるが、彼女は正直すぎて、そこには一切の意識的な操作をさしはさむ余地もないようだった。その率直さは、私にはわかるが、「よーい、スタート。」ではじまる、台本のあるドラマの、スクリーンの向こう側にいる観客には決して伝わらないことなのだった。その真実性は、日陰の花であって、まぶしいスポットライトの下ではしおれてしまうものなのである。
 それにしても、柔原めいなは、なぜ傘をさしているのだろう。やはり、どうみても雨は降っていないようにみえ、雨をしのぐ気はまるでないように、寝かせた傘をふりまわしているだけである。これが日傘であるにしても、日を避ける気概も感じられず、第一、今は曇りであって、ほかの場面で日除けの傘はさしていない。母親、あるいは姉が外に出るときに日傘をもちだしたのをみて、真似をしたくなった柔原めいなが、日傘は二本ないので、車内にしまわれていた、黒い飾りのない日傘らしくない傘をもつことになった、という可能性も考えられるが、空腹に倒れそうな今このときに、そのような遊び心のおこる余地はないように思うのだった。であれば、これは彼女の意思というよりかは、車内で足を隠す膝掛けをかけている(かけさせられている)ように、母親の意思の結果であるようにも思えた。今の、柔原めいなの空腹丸出しの顔が、母親の目にはあまりにも放送禁止のものにみえたので、すこしでも世間の目から隠しておこうと、配慮してささせたものなのではないかと思ったのだ。しかし、そのような意思は、(いつものように)柔原めいなには伝わらず、散歩中に子供がひろって、いつまでも惰性でにぎっている棒切れのように、シーティングゲームの、本機のあとについてまわる小型の「オプション」のように、柔原めいなの関心とは無関係の、ただてのひらにくっついて後につづいているだけのものになっているのだ。しかし、柔原めいなの顔が、たくましさをまるで感じさせない、放っておけば三日で死ぬストリートチルドレンのようにみえるからといって、世間に「食べるものもろくに食べさせていない」と思われることを危惧して、母親が「傘で」それを隠そうとしたという考えは、いくらなんでも非現実的な考えにも思われるのだった。また、よくみれば、傘の内側の骨の一箇所は内側に折れまがり、若干こわれているようにもみえるのだった。やはり、この傘は、柔原めいなのお気に入りでも、誰かが常用しているものでもなく、車内に置いてあったものを引張りだしてきたという、その推測だけは正しいようだった。となれば、もっとも現実的に「ありうる」話は、雨が降っているわけではないのだが、空模様をみて今にも雨が降りだしそうに感じられたか、知覚過敏的に、かすかに冷たいものがてのひらに感じられたのかもしれなかった。もう先を知っている私には、「沖縄旅行をつうじて雨は降らない」ということは自明のことなのだが、登場人物たる柔原めいなたちには、そのことはわからないのだ。羽田空港にむかう行きの車内では、思いのほか日差しがまぶしくみえたが、沖縄は曇天であり、那覇空港からレンタカーの車内へと、車内からむら咲むらの飲食店へと、曇天のなかを徒歩で移動するのはこの場面が二度目のはずだった。みることはできなかったが、一度目のときも傘をさしていたのかもしれない。そして、この後の場面で傘をささなくなる理由は、「曇り空は相変わらずだけど、雨は降らないみたい」という認識を、時間の経過によって浸透させたからのように思うのである。
 このような話は「言わずもがな」のことであるが、意外な事実、あたらしい発見のおおくは、「言わずもがな」のなかに隠れているものである。そうでなければ、一体どこの酔狂な人物が、「りんごが枝から離れると、地面にむかって真っ直ぐに落ちる」ことを、あらためて、さも重要なことのように考えるというのだろうか。私はきわめて概略的に考え、概略的に記述しているにすぎないのだが、余人は、この程度であっても、「細かい」「しつこい」「機械的」と感じるように、そして、ほぼ十割の情報が「捨て」で構成されている現実を、まるごと放り捨てるように、「世間」という、遥か遠い宇宙のざわめきから想像されるのである。私が、柔原めいなが、人が、そのように概略的にものごとをとらえて、現実のほとんどを「いらないもの」として遮断しているとするなら、丸ごと投げ捨てた「現実」の代用品として、一体どのような世界を生きているというのだろうか。それはおそらく、ゲームのようなものであって、広義の意味での「ロールプレイング」のようなものである。この小説にしても、「ここまでは考えるが、ここから先は考えない」という不文律があり、完全にルール無用というわけではない。もし、現実の本当のすがたが、完全にルール無用な、途方もない、乱脈的なものだったとしても、人はその上に、例えば「オセロ」なり「カルカソンヌ」なりの特定のゲームのボードを置いて、ルールの内側では様々な複雑なことを考え、驚くような工夫もするのだが、ルールの外側のことは決して考えない、という生き方ができるのである。また、「ロールプレイング」のように、状況におうじて定められた役割を演じ、その役割から外れたことは、決して考えないし、決してしない、という生き方ができるのである。すこしものを考える人なら、自分よりも「型にはまって」「視野の狭い」人物をみて、そのように感じることもあるかもしれない。それにたいして、自分は「とらわれない」自由な人間であるように意識することもあるだろう。しかし、そのような、内側と外側の生き方は、YES、NO、のように、二極化した生き方ではなくて、どこまでも段階的に、どこまでも幅広くおこっていることなのである。つまり、私であっても、誰であっても、ゲーム的な、ロールプレイング的な、視点と視野にとらわれていることはおなじであって、そこにみられる度合いの差は、(例えどんなに逸脱した人物を考慮にいれても)、小人の背比べにも等しいのである。このような言い方は、芸術の分野にしろ、哲学の分野にしろ、おおくの「偉大な人物」はしてこなかったように思うし、彼らのおおくは「自ら」と「人々」を明確に区切っているようにみえた。なぜなら、彼らは「世界(荒唐無稽な)」を相手に単身たたかっているような素振りをみせながらも、相手にしているのは、比較しているのは、「社会」であって、「他人」にすぎなかったから、その尺度は、人の領域におさまっていたのである。人は、「人のなかの極北(例えば、とてつもない狂気、孤独、絶望。)」を「世界の極北」のように感じるのだが、それは、自分の住むちいさな街の最北端のようなものにすぎず、本当の「世界の極北」にくらべれば、遥かに南の、温暖な、湯飲みのなかのぬるまった茶のようにも思えるのだった。しかし、一体、私が再三にわたって問題にしている、(おおくの人が「?」マークを発し、首をかしげるか、最初から気にもとめないであろう)、「本当の現実」とはなんなのだろう。場面のなかで、突如ふいた風にあおられて、肉薄で幅広のきのこのようにふらふらと傘をさした(情けない「今からです…」)柔原めいなの世界にも、そんなものは存在しないように、いつも疑わしく思われてもいるのだった。


sage