5 空腹とお菓子




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まず、この場面の背景に着目したい。場所は沖縄を移動中の車内、おそらく暑いのだろう、柔原めいなは、扇子をパタパタと動かしている。車外の日差しは白く飛んだ光を見せて、気持ちがいいくらいに、「晴れ!」、であることを教えてくれる。なんとなくだるいような柔原めいなの喋りに、「うだる車内」のような温度が感じられる。しかし、そこまでの高温ではないだろう。時刻は午後1時だ。この段階では、窓の外がほとんど見えないため、彼女がどのような場所を移動してきたのか、全体像を思い描くことは難しい。漠然と、閑散とした道路上に背の高いヤシの木が、間隔をおいて並び、また建造物、服飾の随所にアロハシャツのような原色の色使いが見られる、そのようなイメージが浮かぶ。しかし、私には、沖縄と言われて人が思い浮かべるような、賑やかなイメージを、土地全体に広げるほどの力強い感覚は持っていなくて、柔原めいなが移動した空港からの道筋は、テキサスを沖縄版に縮めた程度に荒涼としていて、そこに点々と、隙間だらけの、極彩色のイメージや、花や、観光の歌い文句が、しらじらしく飾られているようなものとして想像されるのだ。
時刻は午後1時である。しかし、なぜ、柔原めいなはまだ昼食を食べていないのだろう。それは、少し考えてみれば、簡単に推測できる。始めから、昼食を取る場所を選ばなかったなら、空港内に飲食店はあったはずで、空港を出てからの移動の際、ロードサイドにもその手の店はいくらでも並んでいて、そこに入れば良かったのだろう。しかし、昼食をとる場所はあらかじめ決まっていたので、習慣的な生活リズムよりも、彼女の空腹感よりも、移動スケジュールが優先されることになったのだ。パンフレットや旅行案内書のようなもので、目指す店まで決めていたのかどうかは分からないが、少なくとも、昼食は現地についてから、という取り決めはあったように思われる。この場合の現地というのは、当夜の宿泊施設周辺、もしくは、第一目的地とされる観光名所のことだ。
少し場面が変わって、車外の様子が見えるようになった。見切れた窓に対向車線と中央分離帯、その向うにもう一つ道路を挟んで見える、変わり映えのしない木の連続がある。第一印象で、晴れ渡っているように思えたものも、ガラスが反射して光っていただけで、風景の色彩の平坦さ、陰影の退屈さから、曇り空であるようにみえた。柔原めいなは時間的にもっと後になる場面で、傘を差すことになる。それは、彼女の持つ雰囲気のせいなのかもしれないが、普通に指すビニールの傘よりもずっと優雅に、日傘のようにも見えたせいか、私は気にも留めなかった。今思えば、曇り空であるどころか、その時、小雨がぱらついていたのかもしれない。
この場面において、錯覚していたことがもう一つある。それは、彼女の母親の存在だ。柔原めいなが言った、「ダメ!って言うしぃ」が、「ママがダメ!って言うしぃ」のように聞こえて、推測でも想像でもないつもりで、母親をこの場面の、姿の見えない登場人物に勝手に組み込んでしまったのだ。時間的には散々想像をめぐらした後で、柔原めいなは一言も「ママ」とは言っておらず、また、母親の姿も声も、影も形もないことに気づいたのだ。この家族旅行の登場人物は、柔原めいなと、その姉と、その父親と、その母親(も後になって存在が確認されるのだが)、おそらく、その4人であるものと思われる。この場面において、彼女に間食を禁じた存在は、姉ではなく、両親のどちらかと考えるのが自然に思われるが、なぜそれが父親ではなく、母親であるかのように、事実、そうであるかのように思われたのだろう。その理由は、他場面における父親の扱いが影響している。例えば、空港でちょっかいを出してくる父親に対して、柔原めいなが「歩いてるときはいいよぉ、もう止めて!」という風に邪険に扱っていること、それに対して、父親の態度が全体にヘラヘラしているように感じられたことがあるだろう。また、車内において、おそらく運転席から聞こえてきた、父親と思われる男性の、「出口ってのはどっちだぃぃ・・・」の、困惑した、情けない声の調子があるだろう。それらのイメージから、「パパ」と呼ばれるこの父親は、声の若い、現代的な物分りの良い、くだけた調子の、洒落っ気のある、ある意味で芯がない、愛されはするが今ひとつ尊敬はされていないような人物に思われたのだ。つまり、娘に厳しいことを言うタイプではないように感じられたのだ。仮に、この父親が、娘の間食を止めるとしたら、やんわりとした言い方をして、「ダメ!」、というような、一方的な言い方はしないように思われる。つまり、実際に手綱を握って、旅行の方向性や、教育の方針などを決めているのは、母親の方なのだろう。
姉や父親の、わりと無防備な露出(主に声だけなのだが)に反して、母親はあまり場面には出っ張って来ない。これは、うかつに表には出て行かないようにと、自らの振る舞いを抑制しているようにも思われる。わりと無邪気に振舞っているように見える、姉や父親と比べて、母親は現実をマネジメントする能力が高く、父親とは別次元の責任感も持っているのだろう。しかし、母親からは、物事を律する厳しさがあるというプラスイメージよりかは、もっと湿ったもの、陰性なもの、皮肉な視点が感じられた。女性において、性的な欲求不満がヒステリーの形で現れると言われるように、その感情をつねに屈折した形であらわすものに特有の、濁ったもの、澱んだものが感じられるのだ。これは後になって見られる、ヤンバルクイナを発見した場面での、母親の低い、口元に薄笑いを浮かべたような「ほら、ほら、ほら、ほら、ほら」という声にも現れているように思われる。もしくは、このような見方は偏見であって、現実は全く異なる母親像を見せてくれるのかもしれない。
この場面において、母親の言うことが「食べるものがないから、我慢して」という分かりやすいものであったなら、柔原めいなも仕方なく思っただろう。あるいは、他に気がまぎれるものがあったのなら、そちらに集中していたのかもしれない。しかし、沖縄についたという新鮮さ、喜びが、活発さとなって肉体に現れた後に、その活発さが、車中の待機時間という、行きの車中であれば眠気に襲われたような、本能的な自己主張を始める心理の空白地帯に、空腹と結びつき、腹の中でリズムをもって活動しているのだ。母親から「お菓子(食べるもの)があるのに、食べてはいけない」という婉曲な理屈を聞かされて、柔原めいなが「…ダメって言うんですよ」と読者に不満をもらしたのも当然のことだろう。
彼女はもっとシンプルに、「お腹が空いていて、食べるものがあるなら、食べればいい。」、というふうに物事を考えている。それは大人であっても、そう考えることのほうが多い。「昼食が食べられなくなる」、「間食癖がついてしまう」、という事態を想定していても、多少のズルやフライングは本来、許容の範囲のことなのであって、目下の空腹状態、「その現在的に迫る感じ」に比べれば、往々にして、瑣末なこととも捉えられるのだ。しかし、そこに教育という観点、子供の成長への責任という観点が加わると、まるで、ドミノ倒しのように、一つの小さなブロックを倒す行為が、連鎖的に全体の崩壊につながっていき、子供の洋々たる未来へと続く道筋のすべてを、破壊してしまうように捉えられるのだ。


sage