Neetel Inside 文芸新都
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 由美が、メフィスト・フェレスを初めて目にした時に感じた感情は恐怖ではなく、歓喜でした。
 ようやく、自分にも世界を幸せにするチャンスが巡ってきたと言う歓びです。
 「どんな願いでもかなえて差し上げましょう。ただし、ひとつだけ。あなた様が死んだ時に、その魂をこのメフィスト・フェレスにいただけはしないでしょうか。これは、とても幸せな条件なのですよ。人は皆死に行きます。そして、死に行く後にあるものなど、どんな誰であっても、大差など無いのです。だからこれは、悩む余地などあるはずの無い話なのですよ。」
 メフィスト・フェレスは、もう何十回、何百回と繰り返した同じセリフをいま一度、由美と言う少女の前で語りました。
 この話をすれば、たいていの人間はこの後、「本当にかなえてくれるの?」「魂を渡すとどうなるの?」など予定調和な疑問をぶつけてきます。メフィスト・フェレスは、その不安をまるでドアトゥードアを実践する訪問販売の営業マンの如く、一つ一つ解消していく事で、魂を手に入れてきました。
 しかし、由美はその予定調和を崩すように、メフィスト・フェレスに語り掛けました。
 「あたしは、敬虔に神を信じてきた。そんなあたしの前には、きっとあなたは現れてなどくれやしないのでしょうね。と、少しばかり、悲しみにくれていました。でも、あなたは、あたしの目の前に現れてくれた。それは、とても幸せな事なのです。ありがとう。ありがとう。」
 そうして、由美はその穢れない右手で、メフィスト・フェレスと握手をしました。
 初めての反応に少しだけ面食らったメフィスト・フェレスを横目に、由美は、静かに語りかけました。
 「この世界に溢れている悲しみを無くしてください。そうすれば、あまりにも意味のないこの命なんて、あなたの好きにしていただいて大丈夫ですよ。・・・そうなのです。例え、私が生きていたとしても、それによってこの世界に溢れている悲しみが減る事は無い。なぜなら、あたしに出来る事は、ただ、祈る事だけだから。」
 そういって、由美は頭を下げました。
 「分かりました。貴女の願いはきっと叶えましょう。ただ、その願いが叶った暁には、自分以外の幸せを真剣に願い、真剣に訴える美しい貴女の魂はいただきますよ。」
 「もちろん差し上げます。ただし、一つだけ条件があるのです。」
 「それはどのような条件なのでしょうか?」
 「本当にこの世界から悲しみがなくなってしまうかどうかを確認できるようにお願いいたします。」
 「出来る限り、ご希望には沿いたいと思いますが、果たして、どうすればこの世界から悲しみがなくなったと言う事を確認できるのでしょうか?そもそも、悲しみとは感情と言う質量なのです。無くしてしまう事など出来やしません。出来る事は、その感情をその人の元から引き離し、どこかに隠し置く位の事なのです。」
 「それは、丁度良かった。実は、あたしの理想もその通りだったのです。不況のあおりを受けて、屋根についていたアーケードの維持費すら捻出できず、とうとう青空市のようになってしまったもの悲しい商店街があります。その商店街の外れには、所々が、風雨にさらされていた影響で、少しだけ黒ずんでいる古びたコンクリートの2階建ての建物があるのです。その建物、父の所有するものなのですが、実は、もう何にも使っていなくて、しかも、その商店街がもうほとんど機能していないものですから、近々、取り壊そうかなんて話まで出ているわけです。その建物の中に、悲しみを溜め置いていただきたいのです。」
 「随分と失礼な質問かも知れませんが・・・それはなぜ?」
 「この世界から、悲しみがなくなったとき、全世界のあまねく人々に、過去には悲しみと言う感情があった・・・と言う事を、教え伝えていく為にです。悲しみを知らない世界では、きっと新しい悲劇が数多く生まれる事でしょう。悲しみを遺産として残す事で、誰もが知っているが経験していない悲しみと言う感情だけが残れば良いのです。それで、世界中は幸せになるのです。つまり、この建物の中では、悲しみをどんな人にだって閲覧できるようにして下さい。場所の名前だってもう決めているんですよ。全世界の悲しみが一同に会す場所なので『中央悲劇閲覧センター』なんてどうでしょうか?」
 由美の嬉々とした願望とキラキラとしたその眼差しに、メフィスト・フェレスは気がつけば、ただ、この少女の願いをかなえる事ばかりを考えるようになっていました。

       

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