Neetel Inside 文芸新都
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 木は、その少しだけ前にやってきた男の事を思い出していました。

 その男は、今から春が2回くらい過ぎる前にここへやってきました。
 それは、「手のひら収集家」の男。
 彼は、すでに、50年をはるかに超える時間をこの世界で過ごしておりましたが、そうであっても、ここに来て、永の年月ライフワークとして行い続けてきた「人の手のひらを収集する」と言う、少々狂気染みたその趣味を捨てることを決意しました。
 男は名前を「可螺間 エリ悪」と言いました。
 その名前が果たして本名だったのか、今はもう分かりはしませんが(それ以上に、木は名前などに興味を示してはいなかったのです。)とにかく、男は、名前をエリ悪と呼ばれたく希望していました。木も、その男の気持ちを尊重し、男の事をエリ悪と呼びました。
 エリ悪は、その5000年に近い時間の中を生きてきた、雄々しい木を乾いた左手でさすりながらつぶやきました。
 「生きとし生けるものすべての命には、二通りの保存方法がございます。ひとつは、そのものの中身を全てかき出し、そうやって皮と骨組みだけを残すのです。特殊な溶液など使いまして・・・そうそう、中には、綿など入れなければ、形(なり)を留める事など出来ませんが・・・そうやって、最後には縫い付けてやる事で、中身がすげ代わりはするもの、元と同じ様相は、触る事さえ許される至極の存在と相成ります。もうひとつは、そのままに、これまた特殊な溶液など使いまして、いわゆる防腐処理を施すわけであります。そうやって、漬け込んでやる。以降、触る事は叶いませんが、そのヌメヌメとした様相は何とも艶かしく、艶やかにして繊細。まるで、母親の羊水に浮かぶ胎児の如く。こちらも、至極の存在としか言いようはありますまいて。前者を剥製。後者をホルマリン漬け。・・・と俗には、言います。」
 木は、エリ悪の言の葉に静かに耳を傾けました。
 「かつて、私、可螺間エリ悪は、そのうちの後者。詰まる所のホルマリン漬けにひどく傾倒し、そうして、数限りない人間の手のひらをホルマリンに漬け込み収集し続けました。手のひらには、その人の人生が色濃く。それはそれは色濃く残るわけでございます。それを、こう・・・眺める事が好きでしてね。ライフワークとでも言うのでしょう。収集は、止められなかったのでございます。いや、それには、少しだけ訳があるのです。」
 エリ悪は続けます。
 「実は、人間の体中の細胞は、1年立てば全て一新してしまう・・・と言う、現実をご存知でしょうか?つまりは、1年も立てば、今この場に立っている、私、エリ悪も、ひとつとして同じ細胞など持ち合わせていない人間となり、再びこの場に立つ事になるのです。それを、別人・・・と呼ぶ事を人はしませんが、生物学上には、別人なのです。ただ、魂が同じなばかりに、それを、同じ人間として、我々は考えるでしょう。私、エリ悪も同じでした。」
 エリ悪は少しだけ、昔を眺めるような目をし、「どうしようもなく愛してしまった人がいたのですよ。」とだけつぶやき、更に木に語り掛けました。

       

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