Neetel Inside ニートノベル
表紙

デェーとティー
カッコいいタイトル付けたいけど思いつかないから髭を剃りに行った話でいいや

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 私はとあるしがない労働者。市営団地で高校生の息子と来年受験を控えている中学3年の娘を育てている。

 私が近所の商店街を歩いていると数日後の週末に友人の結婚式に出席することを思い出した。ふと顔に手を当てると気付かないうちに頬髭が伸びていた。

 このままの姿で式に出席するのは招待される身として新郎に対して立場が無い。私はその商店街の出口にある行きつけの床屋のドアを開けた。

 平日は待ち時間ナシでカットとシャンプーと髭剃りが出来る昔ながらの商店街の床屋。首元にビニール製の髪避けを巻かれ、馴染みの店主と他愛も無い世間話を交わす。

 髪のカットが終わり、鏡の中には隔月でこの店を訪れた時と同じ髪型が写っている。シャンプーが終わり、散髪台が後ろに倒される。顔の髭剃りというのは男性特権の愉しみだと私は感じる。

 最近では女性向けの産毛剃りもあるそうだが、しばらく伸ばして顔の中でぼうぼうと生え茂る髭の束をゾーリンゲン製の剃刀でするり、と人の手で一度に剃って貰える爽快感は女性には味わえないシロモノだろう。


 店主が顔にシェービング用の泡を筆で輪郭に沿うように塗りたくる。眉の下まで筆が伸びて私はそっと瞼を閉じる。温かいお湯で溶かれたきめ細かい泡の感覚が実に心地よい。すると店主が私に声をかけてきた。

「あー、すまん。ここからはせがれに代わるよ」

 は?どういうことだ?私が問いかけると店主は自分は人様の髭を剃るにはもう高齢で、手元が怪しくなってきたからこういった細かい仕事は将来的に店を継ぐ息子に修行に一環としてやらせることにしたそうだ。

 おいおい、待ってくれ。私は心の中でこの白髪の店主に抗議を始めた。この店に長年通い続けているがこの店主に息子がいるなんて話は一度も聞かなかった(私の出来の悪い息子に関しては何度も愚痴を溢したというのに)。

 それにその息子の為に私の顔を練習道具にされるようで不快であったし、手出し口出しを出来ないこの状況はまさに『まな板の上の鯛』ではないか。私が不安に思って声をだすと店主は

「せがれは群馬の理容師学校で修行をした。自分もヤツの腕前を見たが丁寧で正確な仕事をする」と私が頭を乗せているヘッドレストの角度を緩めながら言い諭した。

 すると後ろで剃刀の刃を鮫肌のやすりで研ぎなめす音が聞こえてきた。なぁに、ただ顔の周りの髭を剃ってもらうだけだ。何のことはない。私は胸に手を置いてその青年が私の元へやって来るのを待った。

「ここからは自分が担当します。よろしくお願いします」

 声の質からして20代半ばくらいだろうか。目を閉じているので把握できないが少しくぐもったその声はおそらく口元にマスクをつけていると予想できる。私がよろしく、と言い返すとその青年は私の頬の表面にそっと控えめに剃刀の刃を落とした。

 頼むぞ、私は数日後に友人の結婚式を控えているんだ。頼むぞと心の中で念じるがその想いは杞憂に終わった。青年は肌と剃刀の接触面を限りなく小さく留めるような細かいストロークで手際よく泡の上から私の無精髭を剃り上げていった。

 うむ、店主が言うように若いのに非常に手際がよい。大体床屋の髭剃りというのは逆剃りする時に違う向きに生えていた毛を引っ掛けたり、肌を傷つけて出血させてしまったりするのだが、その店主の息子はそういった集中力の欠如から起こるミステイクを一切しないような一貫してブレの無い高度な技術からの見事な剃りっぷりを見せていた。

 あまりの心地よさに思わず意識が薄れるがテレビのボリュームが私の眠りを妨げた。頭にチューナーが置かれたブラウン管の上ではお笑い芸人のネタ見せ番組が放送されていた。

 テレビの中で声を荒げているのは…名前を失念してしまったがどうやら女性のコンビらしい。今にも途切れそうな細い声で話を進める女性がもう片方の女性の容姿を問うとその女性は店中に響き渡すような大音声で視聴者に向かってこう発信した。

「いや、シュレックじゃねーよ!!」

 剃刀を持った青年の手が刃を通してぴくり、と意図しない方向に動いたのを感じ取る。思わず湧き出した冷や汗がまだ剃刀の手を入れていない顔の反対側のシェービングフォームを跳ね除けて耳たぶに落ちた。

 青年はひとまずその、私の顔に当てていた剃刀を数センチ、宙に浮かべた。瞼を閉じていても青年がマスク越しに深く息を吐き出した事を感じ取った。

 一息ついて落ち着くと青年はもう一度私の顔に剃刀の刃を置いた。大丈夫、いつも通りやればうまくいくさ。より慎重になった青年の手さばきを肌を通して感じ、私は心の中で青年にエールを贈る。

 左側の剃顔が終わり、剃刀が私の喉元に伸びた。人はどうして髭剃りをされていると頭に中にスウィーニー・トッドの映画を思い浮かべるのか。まことに不謹慎なことなのだが、この青年がもし…その手に持った剃刀で私の喉元を掻っ切ってしまおうという衝動に駆り立てられたら。私はその時どう、彼に反撃すべきか。今時、不良学生でも考えもしないことを取り留めなく頭の中で思い浮かべていた。

 喉仏の上に生えた毛を刃先で慎重に刈り取る。よし、いいぞ青年。鼻から息を吐き出して安心し始めたその瞬間、


「タルヤ・ハロネンじゃねぇよ!」

 日本人が生涯で一度も発しないであろう人名が私が座る散髪台に向かって飛び掛ってきた。喉の周りは人間の急所、髭剃りに当たって一番集中力の要る場面での外野からの絶叫は営業経験の浅い青年を萎縮されてしまうには充分すぎる妨害だった。

 その後も青年が気を取り直して刃を滑らそうとする瞬間、

「角野卓三じゃねぇよ!」

「いや、映画撮ってねーから!マイケル・ムーア監督か!」

「豚じゃねぇよ!ヒューマン!」

 と女性芸人が声を張り上げ、その勢いは留まるところを知らない。彼女がもし、私の髭を剃っている彼の邪魔をしようとして叫んでいるのなら立派な傷害罪として彼女を事務所ごと訴える事が出来るのだが、彼女は私の気持ちも露知らず

「井脇ノブ子じゃねよ!」と声を張り上げている。彼女は世界中に親戚がいるのだろうか。彼女の素性を知らない私に教えて欲しい。

 とにかく、このままではラチが開かない。青年は先ほどから何度も事故の起こしようの無い、もう剃り終えた左側の方に指で泡を乗せながらそれを刃先で弾きながらもう一度首周りへ剃刀を伸ばすべく呼吸を整えてタイミングを計っている。

 行き詰まった施術。しかしその時私の頭にこの状況を打開すべく名案が閃いた。私はテレビの前に置かれた本来は散髪の順番を待つソファに座っているであろう店主に向かって声を出した。

「なぁ、競艇はどうなってる?」

 私の声を受けて店主が「ああ?あんた競艇なんてやってた?まぁ、いいや」といいながら手元にあったテレビのリモコンをガラス製のテーブルの上にかしゃり、と置いた。

 しばらくしてチャンネルが代わり、耳元にはゴール直前で一着を争いあうマシンの様子を実況するアナウンサーの声が聞こえてきた。よし。雨合羽のように身体にかけられたビニールの下で私は拳を握り締めた。

 突然の災難に見舞われたこの将来有望な若者の神経を逆撫ですることなく紳士的にこのトラブルを回避した。このチャンネル変更が功を促したようで青年の剃刀が以前のようにスムーズに動くようになった。

 絶体絶命の危機を脱出した。そうタカをくくっているとレースの実況が終わり、CMを知らせる音楽がテレビから流れ出した。

 まずい、私の眉間から再び汗が湧き出してくる。番組とは別に制作されたCMのナレーションがどん、と大きく内耳に響く。

「冬の季節、ピザが食べた~い...そんな時は」待ってくれ、やめてくれ。声に出来ない恐怖がひとつ間を置いて我が身に飛び込んでくる。

「ボリュームミートピザじゃねぇよ!!」もはや意味不明。例の芸人の叫び声が店中に響き渡ると首元の剃刀がすっと喉仏の下を通って、かしゃん、と音を立てて床に落ちた。

 その瞬間、私は胸の上に置かれていたシェービングの泡や剃り終えた髭を拭う新聞紙などを勢い良く跳ね除けた。

「急用を思い出した!帰らせてもらう!」

 私はその場で立ち上がると首に巻かれた襟巻きを自力で取り外しそれを床に向かって叩き付けた。もうたくさんだ、このままだと喉元を掻っ切られてそれこそ、スウィーニー・トッドのように...!

「おきゃくさ~ん、こまりますよぉ~」くぐもった声が正面から聞こえる。私が声の主を見上げると彼の容姿を見て私は息を呑みこんだ。

 細い長身にマスクをはめたスキンヘッド。目は大きく見開かれていてその上の眉にはただ一つの毛根も植わっていない。血の通っていないような白い肌に銀色に光る剃刀を持ち、皮のエプロンを巻いたその姿は例えるなら西洋映画に出てくる死刑執行人のようにも見えた。

「ひっ......!!」

 本能的な恐怖感を感じ、年甲斐もなくマヌケな声を出して私はドアの取っ手を掴んで店の外へ出た。この場に居たら殺される。とりあえず避難ができる場所まで逃げなければ...!

 私がその場を駆け出すと、なんと店の中から剃刀を持ったスキンヘッドの男が私の後を追って走り出してきたではないか!その迫力におののいて私はその場で膝を追った。

「ああああ!!」崩れ落ちた私の前に立った男はうっとおしそうに顔の巻きついたマスクを剃刀を持った反対側の手で外した。もうダメだ。私はこの男に殺されてしまう。ふたりの子供よ。どうか力強く生きてくれ。

 私が観念して男を見上げると男は剃刀の刃を二つ折りに畳んでわたしの顔の前にそっとその白い手のひらを伸ばした。

「へ?」顔の右側に泡を乗せたツーフェイスの私に男は強い声を向けた。

「あの...お勘定」

 ああ、そういうことか。理解したように事の経緯を見守っていた人たちが歩き出した。私は町の雑踏に溶け込まんとする毅然とした態度で立ち上がるとズボンのポケットに入れていた財布から数枚の札を取り出した。

「釣りは要らない。受け取っておけ」

 私は青年の背をぽん、と叩くと走ってきた方とは別側の道を何事も無かったかのように歩きだした。途中反射する窓で自分の顔を見て手で泡を拭う。おお、神様。もしこの世界を覗いてるのであれば、どうか家に着くまで俺を知り合いに遭わせないでくれ。

 私はそう祈りながら商店街の角を曲がった。ひどくうなだれる様な、八月の前の蒸し暑い真昼の出来事だった。



       

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