――朝、改札を通り抜ける、人、人、人の波。その中で一際目を引くひとりの女性。通勤時間にスーツで溢れ返るその流れを裂くように現れたその群青色のアウターは決して華やかなファッションではないが、高さのあるパンプスが前に踏み出すたびに揺れるニットセーターに包まれたその、ふくよかな二つの乳房。今、その女性に向かって一直線に歩き出した男が居た。
「いやぁ、本当ありがたいですよね。日本でもこういう光景が日常になって国際化の波を感じると言うかね」
ツイッターやインスタグラムといったSNSの普及により、海外スターとの距離が身近に感じられ、それらを参考にした生地を体のラインに密着させるようなファッションが数増えて普及している。
《あ、今見た!》
《え、今の撮れてる?…まさか、おー、そのタイミングで来たかー》
思わずカメラも見落とすほどの自然な動作。男とすれ違った女性を呼び止めて話を聞いてみた。
《あのー、すいませーん》
スタッフに声を掛けられて足を止めるその女性。丸眼鏡の中から覗く大きな瞳。駅から徒歩数分の企業で働くOLだという。
《いま、胸、見られてたの気付かれました?》
《えっ、何ソレー!全然気付かなかったー!……きもーい》
デデデン、デデデン、デデデデーデデン^~
この街で20年間、女性の胸をチラ見し続ける男、横山修一。
「青春ですよ。いくつになっても、男の夢」
性に憧れ、愛を手に入れられなかった少年時代。
「やっぱりねぇ、反抗なんですよ。一種のね。いわゆる社会に対しての」
相手に気付かれることなく、一瞬の間に美貌を脳内記憶する動体視力。
「優しさですよ。一番大事なのは見られる方にとっての、思いやり」
男はなぜ、この街で女性の胸を見続けられるのか、そしてその先にある未来とは。
永遠の夢を追い求める彼の流儀に、密着・・・
横山修一。39歳。
職業は都内のビルでの清掃業務を主に請け負っている。15階建てのビルの男子トイレ。これらを全て午前中に綺麗に掃除する。
「ありがとう、なんて言われる事なんか一日に一度、あるかないかですよ」
ゴム手袋をはめ直し、汚物が付着した便器に向かって横山はブラシを向けた。横山は登録した派遣会社からの紹介でこのビルでの仕事を2年前から続けている。シフトは週5日で時給は1100円。
交通費の支給はなし。一日7時間半の勤務。これらで得た収入で横山は足立区のワンルームマンションで一人暮らしをしている。
「うわぁ、これは酷い。いやんなっちゃうね」
個室のドアを開けると床にはおびただしい量の尿が水溜りを作っていた。横山の話によるとこのような粗相をして、そ知らぬ顔で便所を出て行く従業員が最近、後を絶たないのだという。
「やっぱり、皆ストレスが溜まってるんだろうね。皆大変だ。俺だって大変。生きていくのは大変。それは本当に」
その階の男子トイレの掃除が終わると横山は階段ですぐに次の階へと向かう。
用具入れのバケツの中にあったブラシに手をかけた横山がすぐにそれをバケツに戻した。3つあった個室、全てに鍵。満席だ。
用を足す便器の掃除が出来ない以上、その先の階へと進むことは出来ない。中に居る人間が出てくるまで、横山は待たなければならない。
「(この年で)何やってるんだろーなって思うことはしょっちゅう。低く見られてるというより、人間扱いなんてされてねぇんだろうなって」
《横山さーん》
トイレの前から横山を呼ぶ声が聞こえる。
「ああ、女子トイレ担当の山口さん。いつもシュウちゃーんなんて呼んでるんだけど、テレビだから」
手持ち無沙汰の横山がトイレを出る。背の低い、腰の曲がった壮年の女性が仕事のベテランらしい態度で横山の袖口を掴んで指導を始めた。
《一階のゴミ、箱から出し忘れたでしょ?》
「いっけね忘れてた」
《しっかりしてよ。わたし達はプロなんだから。先輩に言われたこと、お客さんに頼まれたことは必ずする。そうしないと次の契約、会社から切られちゃうよ》
受け流すような態度で聞き流す横山を見て山口さんは語気を強めた。
《あんたが忘れた場所、あとで私がやってんのよ。もうこの仕事2年やってるんでしょ?しっかりしてよ。ほんっと、シュウちゃんなんていてもいなくてもおんなじなんだから》
そう言葉を告げてずけずけと、山口さんは階段を上って次のトイレへと向かっていった。彼女の真意は伝わらず、横山は口元に笑みを浮かべていた。
「僕にとって最高の褒め言葉ですよ」
踵を返すと個室から出てきたスーツ姿の男とすれ違ってトイレに消えていく。横山の一日はまだ、始まったばっかりだ。
コォォォン..『横山にとっての“仕事”』