Neetel Inside ニートノベル
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 ハムスターという生き物はトーチも知っていた。大きくても体長は一〇センチそこらで、ネズミとよく間違えられるが、多くの人からは愛玩動物として親しまれている。最初は異国からの船に紛れてやって来たのだったか。
 ともかく、ハムスターというのはいわゆる“ペット”として愛されている動物のはずなのだが……
「うおおおおおおおおおおおおおおお!!」
 鋭利な爪での一撃を、トーチはすんでのところで回避する。
 戦闘経験がなかったら一撃で心臓を貫かれていたかもしれない。現に、外れた先の煉瓦壁は見るも無残に崩れてしまっている。リザード肌が立つ思いになった。
「じょ、冗談じゃない……!」
 トーチはすぐさま距離を取る。
 ハムスター……と思しき猛獣は、燦然と輝く赤い両眼で、周囲をギロリと睨んでいる。警戒行動だろうか。げっ歯類特有の前歯は恐ろしいほど伸びていて、伝う唾液が地面に落ちるたび、じゅっという音が聞こえた。よく見ると、ハムスターの足元に生えている草が溶けているようだった。
「デッカイ身体、両手両足に鋭い爪、そして唾液は酸性……か? くそっ、こんなハムスターがいてたまるかってんだ」
 港の人々が逃げ惑う最中、トーチは逃げる人々の誰かが落としていった斧を手に取る。手斧は専門外だが、四の五の言っている場合ではない。
 交易所の港ならある程度戦える連中はいるかもしれないが、多くは突然現れた猛獣に恐怖して逃げているか、腰が抜けて立てなくなっているか――それかすでに戦って事切れているかだ。トーチは横たわる人々にできるだけ目を向けないようにしながらハムスターと対峙する。
 周囲にトーチ以上の体躯をもつ生き物がいないからか、ハムスターは完全にトーチのことを対象として捉えていた。今さら尻尾巻いて逃げようものなら背後からひと突きだろう。新たな生き方を見つけた今、無残に死にさらすというのは避けたい。かといって倒せる自信があるかというと、そうでもなかった。
(……さて、どうしたもんか)
 最後に剣を振るったのはいつだったか。大戦時は隊を率いて甲皇国軍の兵士をなぎ倒したものだったが、平和ボケというのは恐ろしいもので、トーチは戦闘時の立ち回りを上手く思い出せなかった。
 自分よりも大きい相手に遭遇することがほぼなかった……というのも理由のひとつだが、それ以上に武器を振るうということが久しぶりすぎて、上手く渡り合えるか不安だった。
 小難しいことを考えているが、要するに勝てる気がしなかった。
「せめて他に戦ってくれる連中がいれば……」
 周囲を見渡す。昼間で多くの冒険者が奥地に出払っているということもあり、戦える人数は想像以上に少ない。この稼ぎ時の時間帯に交易所にいるくらいだ、あまり腕は立たないのだろう。多くがトーチの巨躯に隠れるようにして、手持ちの剣やら槍やらを構えている。じろと見ても、「がんばってくれ」とばかりに眼差しを向けてくるだけだ。トーチが戦うほかに手段はなさそうだった。
「ああもう、どうにでもなれってんだ!」
 やけくそ気味にトーチは突っ込む。それを察知して、ハムスターも目をカッと見開いて飛びかかってきた。両手両足に、牙に、唾液。どれかに触れたらもう終わりだ。それか、肉を斬らせて骨を断つしかない。トーチは死も覚悟して大口を開けるハムスターに正面から突っ込み――――

「邪魔です、どいてください」

 ――ハムスターは何者かから横腹に飛び蹴りを喰らい、近くの民家らしき家屋にドゴッ! と吹き飛ばされた。
「んなっ……!?」
 トーチはぴたりと動きを止める。
 ハムスターは遠くに吹き飛ばされ、周囲からはどよめく声が聞こえた。誰かがハムスターの死角から蹴飛ばしたというのはトーチにも分かったが、その実行犯を目にすると、信じられない思いになった。
「全く、暴れるなら場所をわきまえてほしいものです」
 小さな身体からは想像もつかない蹴りを繰り出したのは――見慣れない服姿をした少女。着物キモノと呼ぶのだと書物で読んだような気もする。着物姿の少女は短く揃えた髪に針が並んだ奇妙なものを差していて、腰には一振りの刀が結わえ付けられていた。顔は、何ごともなかったという風に平然としている。
「あ、アンタは一体……」
「ん? あなたあの猛獣の飼い主ですか? 困りますよ、ちゃんと管理してもらわないと迷惑するのは我々旅人なんですから」
「旅人? アンタもしかして、今の船に乗ってきたのか」
「ええ、そうですが……何か?」
 トーチは港に停泊中の船を見る。甲皇国やアルフヘイム、SHWのものとも違う形状の船だ。船は多く見てきたが、この形状のものは早々見たことがない。それに加えて、この少女の服装。トーチの頭のなかでピースがうまくはまった。
「ってことはアンタ、エドマチってとこの出身か」
「おや、察しが良いですね」
 少女は革張りのブーツで地面を鳴らす。
「あなたの言う通り、私はエドマチ出身です。少し仕事を探しに……というか、どこで判断しました?」
「いや、その着物ってやつを本で読んだことがあったから」
「なるほど、そういうことですか」
 少女はなかなかに整った容姿をしていた。赤い葉が散りばめられている着物にも、腰に刺さっている立派な業物にも負けない顔立ちだった。警戒するような瞳は少しマイナスだが、笑ってさえいれば客引き――たとえば看板娘にでもなれそうな風格だ。
「……あの、あまりジロジロ見ないでもらえません?」
「は、すまん」
 トーチは我に返る。看板娘を探し始めてからというものの、つい女性を見ると選別まがいの行為を始める癖がついてしまっていた。良くないことだ。
 それに、今は他に対処すべきものがある。ぐるるるる……と、崩れた壁の向こうから、再びハムスターの唸り声が聞こえてきたのだ。
「……まだくたばったわけじゃなかったか。なんとかして退治しないとな」
「はあ。ではせいぜい頑張ってください」
 え、とトーチは少女に目を向ける。件の少女は我関せずといった調子で、すたすたと歩き去ろうとしていた。慌ててその肩を引っ掴む。
「ちょっと待て! 一緒に退治してくれるんじゃなかったのか!?」
「はあ? 誰がそんなことするんですか」
 侮蔑的な視線に、トーチには少しだけ身震いする。
「私は非効率的なことは嫌いなんです。あの猛獣を殺したところで私には何の利益もありません。他がどうなろうと知ったこっちゃありませんから」
「お、おい!」
 トーチを振り切り、少女は再び早足で歩き出す。後ろからは再び恐怖の悲鳴。どうやらハムスターが這い出してきたようだ。どうにもならないか、と諦めかけたところで、トーチはふと少女の発言を思い出す。
『あなたの言う通り、私はエドマチ出身です。少し仕事を探しに……』
 再び、頭のなかでピースが符合する思いになった。

「――――仕事だ!」
 ハムスターに立ち向かいながら、トーチは背中越しに叫ぶ。
 もうそこにはいないかもしれないが、振り返っている余裕もない。
「仕事を探しに来た、って言ってたな!? 俺と一緒にこいつを退治したら、仕事をやる! 約束しよう! 絶対食いっぱぐれることのない仕事だ!!」
 ハムスターが眼前に迫る。
 ――頼む、届いてくれ。そして、聞き入れてくれ。
 トーチはすがる思いで手斧を構え、迎撃の体勢を取る。そして次の瞬間、ハムスターの鋭爪はトーチの身体に深く突き刺さり、牙が頭蓋を破壊――――

「……仕事をやると、言いましたね?」

 することはなく、ハムスターはトーチに襲いかかる寸前で動きを止めた。
 トーチが構えを解くと、先刻まで殺気を放っていた猛獣からはそれが消え、いつの間にか流れ始めていた鮮血の中に倒れこんだ。胴体が真っ二つになっている。しばらくハムスターは痙攣していたが、血塗れの刀を提げた少女がブーツで足蹴にすると身動ぎしなくなった。
「良いでしょう。その代わり約束は守っていただきます」
 懐紙で血を拭うと鞘に収め、唖然としているトーチを、動かないハムスターの上から見下ろす。ちょうど陽と重なり、影絵のようにシルエットが浮かび上がった姿は、やはりこの猛獣を倒した者とは思えなかった。
「仕事の話、詳しく教えていただけますか?」
 少し悪そうな笑みとともに、言い放つ。
 これが、エドマチ出身の少女・猪鹿蝶いのしかちょうチギリとトーチの出会いであった。

       

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