Neetel Inside ニートノベル
表紙

ヤミアン -戦場の雛姫-
02.鷹か鳶か

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 毎朝五時半に起きる生活が始まった。ヤミアンは朝が弱い。だから起床ラッパが鳴ろうとも、教官にベッドから蹴飛ばされても、たっぷり一時間はぐだぐだする。髪は艶を失いバサバサだし、顔はむくんでひどい有様だった。基地のロゴが刺繍されたスリッパを履いてゾンビのように棟内を徘徊し始めるヤミアンを見て九人は笑い一人は怯えた。いずれにせよ教官からの印象は最悪に近かった。入隊して二週間。パイロット候補生になったヤミアンを待っていたのはごり押しの筋トレと田舎娘には少々荷が重い礼儀作法の洗礼だった。
 敬礼の仕方に二十九種類もの作法があるなんて知らなかった。手の角度だけじゃなく、左右の足や腕の振り方まで制御されて、ヤミアンがロボットに乗る訓練をしているというよりヤミアンがロボットにされていくようなものだった。軍隊ではロボット・ダンスが好まれる。一度だけ訪れた週末に同期生たちがボーイズ・バーでなんの皮肉か若さの発露か分からないが硬質的な踊りを披露しているのを見てヤミアンは少し怖くなった。練習さえすればああいう動きができるという感動よりも、練習してしまえばああいう動きを覚えてしまえるということが不気味だった。だからノン・アルコールのジュースもそこそこ、場酔いだけで撤退し、そして夜更かしのツケを翌日に持ち越して、ぐるぐる巻きに固めた布団ごと教官にサッカーボールキックを喰らう羽目になった。少し寝違えた気がする。
「だいじょうぶ? ヤミアン」
「うん……」
 ルームメイトのアネロラが覗き込んでくる。綺麗に整えられた明るいサンクリーム・レッドの髪がヤミアンには眩しい。軍服さえ着ていなければどこか小粋な港町の花売りにでもいそうな雰囲気。彼女もシルヴァだとジュリト少佐は言っていた。ここにいるのはみんな、親から捨てられたシルヴァだと。
「マッキュリー教官は戦場のど真ん中で三日間も部隊と離れ離れになって少しおかしくなったんだって。気にすることないよ」
「でも、蹴られたところは痛いよ……」
「あとでうちの兄貴が作ってくれた軟膏を分けたげる。馬に蹴られたって効くんだから!」
「うん。ありがとう、アネロラ」
「いいってことよ、気にしなさんな」
 気さくに言って、「じゃ、またあとでね」とアネロラは購買の方へ向かっていった。アネロラはヤミアンに優しくしてくれる。だからヤミアンは時々、彼女が自分の作りだした妄想なんじゃないかと疑うことがある。
 基地の廊下はいつも冷たい。まるで冷蔵庫の中のようだ。ヤミアンはぐったり疲れた身体を引きずって、居室へと戻っていった。途中でブリキ缶のコーヒーを買い、上着のポケットの中で意味もなく回した。今日――五月十八日の訓練もきつかった。白兵教練で白髪のクリミアに思いっきり投げ飛ばされて背中から叩きつけられた時は肺が潰れるかと思った。いったいなぜ戦闘機のパイロットが喧嘩の練習なんてするのかさっぱりだ。自分には向いてないんじゃないかという気がしてくる。そもそも――とヤミアンは誰かが相合傘を残していった居室の天井をベッドに寝転がって見上げた。シルヴァってなに? 全然わかんない。
 あれからジュリト少佐は何も言ってこない。ポン、とパイロット候補生の中に放り込まれて、最初ぐらいは何か手ほどきしてくれるのかと思ったらそれもなし。おかげでヤミアンは交代入浴の時間割を知らずに男子湯に飛び込むわ、模擬戦室と間違えて本物のドックに飛び込んで軽空機を動かしそうになるわ(だって実戦と遜色のない訓練だって聞かされていたのだ)、散々だった。もしアネロラが見かねて助けてくれなければ、ヤミアンは今でも男湯に特攻していたかもしれない。思い出したくもないトラウマの大行列だった。
「はあ」
 なんでこんなことに――自分はただの田舎の郵便屋の娘で、つまらなくて退屈で馬鹿にされたりもするけど平凡な一生を送るはずだった。家族だってそれを疑っていなかったと思う。十三歳の頃に一度お見合いの話があったくらいだし、とっととどこかの農家のドラ息子のところにでも片付けられて、いっぱい嫌な思いをしたあとに子供をポンポン産んで、髪の毛を引っ張られおっぱいを噛みちぎられそうになりクタクタになりながらどこにでもいる普通のお母さんになる。
 それがヤミアン・グリッジヴィルの未来のはずだった。
「それなのに……」
 革手袋に覆われた自分の手のひらを採光灯にかざしてみる。すっかり手垢と油にまみれたそれは機械工学の実習で汚れた名残だ。
「わたし、なんにもできやしないのに」
 ぽふ、と薄い腹に左手を落とした。
「人殺しなんて出来るのかな」
 机の上のカレンダーに目をやる。明日も早くから訓練だ。もう休もう。
 ヤミアンは目を閉じて、懐かしい夢のなかに落ちていった。

 ○

 アネロラ・クインハリヤはそこそこ自分に自信を持っている。それは悪童どもを魅了する白味がかった赤髪によるところなのかもしれないし、あるいはシルヴァと呼ばれるにふさわしい戦闘操縦能力によるのかもしれない。だからそんな彼女は自信を持って、『みんなの嫌われ者』を庇っている善い子ちゃんのまま、なにも恥じることなく購買ブースに顔を見せた。それまで若き候補生たちの談笑にさざめいていた空間が、潮が引いたように静まり返っていた。いかにも前時代的――とアネロラは思う。一生やってろ。
 購買にクレジット・リングをパンチして指定したボタンを押すと夜食が出てくる。茶色い紙にくるまれたハンバーガーを拾い上げてモグモグぱくつきながら、アネロラは中央モニターを見上げた。そこには教練部から候補生たちへの全体通知が表示されている。いまは「245年 5月18日 消灯まであと27分」とクリーム色の文字がスクロールしていた。アネロラはなんの目的もなく、そこに突っ立って夜食をかじっていたが、
「おい、クインハリヤ」
 と不意に呼びかけられた。赤髪をなびかせて振り返る。
 その少年は『紫陽花』と呼ばれていた。濃紫色の髪がその名の由来だったが、本人は褒め言葉だと思っているらしく、通りがかった廊下でその単語が聞こえても涼しい顔で通りすぎている。が、本当は髪の色ではなく癖の強い髪質のことをバカにされているのだとはとうとう気づいていないらしい。だが、それに気づいたところで、負け犬の遠吠えぐらいに思ってやはり冷笑を崩さないかもしれない。
 キャンフゥ・バスピッド。
 アネロラは肩越しに中央モニタを見上げた。そこには四月から今日までの模擬戦の撃墜数ランクが十位まで公開されている。キャンフゥは一位だった。アネロラは七位だ。
「なに、キャンフゥ。デートならお断り」
「いいのか? チャンスかもしれないぜ」
「なんの?」
「未来の大統領夫人になるチャンス」
 これだ、とアネロラは思う。おもしろいと思っているのだろうか? 下衆で下世話で下品な発言が、よくもまぁその綺麗な顔から吐き出されてくるものだ。神様はかたちとこころの振り分けを毎回ドジする。いい加減に懲りたらいい。
「あんたと添い遂げるくらいなら惨死した方がマシね」
「みんな最初はそういうんだけどさ、不思議なことにいつの間にか手のひらを返すんだ。こう、クルっとね」
 画面に落ちたシミュレーターのシートにもたれかかりながら、にやけたツラで手のひらをヒラヒラと翻すキャンフゥにアネロラは嫌悪感しか湧かない。
「悪いんだけど、あんたも明日は〈ジオラマ〉でしょ? お互いのために、さっさとバイバイして寝ちゃうのが賢い選択だと思うけど」
「ところがそうもいかない」
 キャンフゥは子供のように、くるくるとシートを回転させた。
「最近おれはよくない噂を聞くんだ」
「へぇ、どんな?」
「……おれたちシルヴァのなかに『偽物』が混じってる」
 アネロラは自販機でモーター・コーラを買った。プルタブを引剥しながら無感情に聞き返す。
「それで?」
「お前も知っての通り、おれたちシルヴァは選ばれた種族だ。ほかのやつらとは違う。なにせ我らが祖国は学者どもを結集、総力を挙げてシルヴァの研究を進めているくらいだからな。だが、その判定基準は不明瞭だ」
 人差し指を指揮棒のように振り、
「ジュリトのやつみたいに、十年前からシルヴァを見てきた古参兵があっちこっち回って『たぶんこいつだと思う』ってガキを拉致って訓練し戦場に出す。うん、いまのところは成功のようだ。この〈スクール〉の卒業生はほとんどエースと呼んで差し支えのない性能を発揮している。でも? それを選んでる連中はシルヴァじゃない」
「だから?」
「教官が選定を間違うことだってあるって話さ。そしておれは寛容なんだ。そういうこともあってしかたないかなあ、と思う。だって人間だもんな、ミスくらいするさ。だから……」
 トントントン、とキャンフゥがシミュレーターの縁を叩いた。
「おれたちでそのミスを修正してあげなきゃ。それが恩師思いの生徒の勤め、だろ?」
「……あんた、ヤミアンに絡む気?」
「ヤミアンがシルヴァじゃないとはまだ言ってないが……」大げさに肩をすくめ、
「しかし、お前、あれがシルヴァだと思うのか? あんなに弱い候補生は聞いたことない。白兵教練はいいよ、おれもあれは無駄だと思ってる。だが……〈ジオラマ〉は言い訳ができない」
 アネロラは何も言わずに、飲みかけのコーラを見つめた。
「おれたちはパイロットになるためにここにいる。そのために親から捨てられ、悲しい思いを乗り越えてきたんだ。そうだろ?」
 なにが悲しい思いだ、とアネロラは思う。キャンフゥは名家の生まれで、経済力と強い自薦でこの基地に来たというのは誰でも知ってる噂話の一つだ。つまり教官に選定されてきたわけじゃない――だが、確かにシルヴァとしか思えない。強さも、心も。
「キャンフゥ、言っておくけどあの子も孤児だよ。あんたがどう思ってるか知らないけどあの子は――」
「孤児なら無条件でシルヴァならこんなに簡単なことはない」キャンフゥは嗤った。
「だが、違う。そうじゃない。孤児というのはあくまで最初のシルヴァが全員そうだったから、というだけのことでしかない」
 おれはね、とキャンフゥが言った。
「向いてないやつは、やめさせてやるのがイチバンだと思ってる」
「じゃああんたがやめれば――」
 とは、アネロラは言えなかった。言ったところで彼の優位は揺るがない。撃墜数No.1。その数字は、いまのアネロラには動かせない。最終成績が発表されるまであと二ヶ月。夏までに、この最悪な人格者の戦闘性能を超えることは、自分にはできないだろう――それが彼女の自信と理性の境目だった。
 キャンフゥは強い。
 それは、確かだ。
 アネロラは空っぽになったコーラをダストボックスに放り投げ、背中を向けた。
「あんたがどう言おうが、あの子はシルヴァ――あたしの仲間だよ。それにまだあの子はここに来てから一ヶ月しか経ってない――それで結果を求めるのは早いと思わない?」
「おれは最初から強かったけどね」
「あ、そう。よかったね」
「なあ、アネロラ。なんでそんなにあの根暗女にこだわる? こっちに来いよ」
 キャンフゥは半身に構えたアネロラに男とは思えないような真白い手を差し伸べた。
「見捨ててしまえよ、弱者など」
「そんなこと――」
「わざわざあんなやつのために、おれとおまえがいがみ合う理由がどこにある? 切ればいい。それだけのことだろ。――戦場に出れば、どうせあいつは死ぬぜ。つらいぞ、いつか」
「あんたは――」
「ん?」
「あんたは、なにもわかってない」
 吐き捨てられたアネロラの本音を、キャンフゥが吟味するように咀嚼していたが、やがて言った。
「そんなにアレが『本物』だと思うなら、賭けようよ」
「はあ? 賭け? なんのためにそんなこと……」
「まあまあいいじゃないか。そんなに肩肘張るなよ。ただの娯楽、レクリエーションさ。……明日の〈ジオラマ〉――おれはヤミアンとやる」
「なっ……そんなの、急にできるわけ……!」
「ああ、噛みつかなくていい、対戦カードなんてどうにでもなる。おれはジュリトに好かれてるしな? 予定の前倒しも階級無視も全部オッケーさ。そんでさ、おれが負けたら、ヤミアンのことを認めるよ。バカにしてごめんと謝ってもいい」
「もうひとつ」
「なんだい」
「二度とあたしとヤミアンに話しかけないで。近付かないで。そばをうろつかないで。息を吹きかけないで」
「息を吹きかけた覚えはないんだが……」
 困ったようにキャンフゥが耳のうしろを掻く。
「ま、いいよ。そうしよう。土下座だってしてやる。なんでも来いだ。……で、ヤミアンが残念ながら、やはりおれに負けてしまったときは」
 キャンフゥは頬杖を突いて、にっこりと微笑んだ。
「おれと付き合えよ、一晩」
「――――」

 本当に、この男は。

 なにひとつ、どこにもひとつも、

 いいところなんか、無い――――













 ――――殺してやろうか。






「いいよ」
 アネロラの答えに、「えっ」と周囲で聞き耳を立てていた連中がどよめいた。アネロラはそいつらを憎悪で無視して、続けた。
「抱けばいいじゃん、あんたが勝ったら」
「いやあ、ありがとう! なんだかやる気が湧いてきたよ」
 キャンフゥはご機嫌だ。
「それじゃあおやすみ、諸君! おれは用が済んだからもう寝るよ、ねむいのさ」
 足音も軽やかに去っていったキャンフゥの笑い声がいつまでもアネロラの耳に響いていた。

       

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