第二十七話 夜半の最中に昇るは朝日


 魔獣セイレーンとは、岩礁に腰を下ろして惑いの唄を歌う人外だ。これにより数々の船は海の藻屑と消えて行き、それに伴い多くの犠牲者を出した。
 その唄声は聴覚を介して生物に干渉し、また正常な五感を有していないものや非生物にまで通ずる。ここより端を発し、付いた二つ名は『魔声』。

 妙に耳心地の良い旋律が、鼓膜だけでなく全身を震わせる。暖かな波動が怪我の痛みや疲労を軽減してくれていた。昊の真名解放の感覚に似ているが、やはりあれには及ばないか。
(だけれど充分っ!)
 音々は既に瀕死の体だ。身体を巡る毒素の遅延、アルの拘束、さらに追加で旭の補助まですれば喉の酷使も仕方のない話。
 呪縛の旋律は不可視だが、それが咆哮を続けるアルの動きにいくらかの制限を付与しているのは『反転』直後から闘っている旭にとってはよくわかった。明らかに行動動作に淀みが出ている。
「ガギッ、ゥがァあアアああ!!」
「身体倍加二百倍!!」
 全身の筋肉が常軌を逸した異能の力に充てられて一瞬ドクンと脈動する。同様に強化された五感から悪魔の一手を判別する。
 またしても武器の創造。何せ材料は倒壊した工場のいたるところに転がっていた。今、『魔法の金属細工師』は本領を遺憾なく発揮することが出来る。
 左手に生み出されるは短い柄と幅広の両刃。片手剣のようだが剣身は黒炭を寄せ集めて固めたような薄汚れた黒色。とてもまともな切れ味があるようには思えない。
 だとしたら、本命は右手の内で創造される長剣。
 血濡れたような黒刃は夜気を喰らう不可思議な照り返しを放ち、逆に左手の短剣からは、
(黒い…光?)
 薄暗い周囲を照らす光源の代わりも果たしている九つの陽玉と対を成し、その短剣は橙色の光と拮抗して紫紺の光を揺らめかせていた。
 四つの陽玉がアルへと突撃し、闇光を迸らせてこれを左の短剣で弾き返した。並大抵の武具では受け切ることの不可能な陽向旭の真名。やはりアルの短剣も強度自体はそれほどのものではなかったらしく、四度の迎撃の後に亀裂が走る。
 そうして、罅割れた剣身から堰を切ったように溢れ出るおぞましき漆黒の裂光。贋の銘が悪魔の声帯から紡ぎ出でる。
「“喰ラu祖らス”」
 瞬間視界を覆い尽くす闇。砕け散った短剣から、周囲一帯を夜すら塗り潰す極悪の黒が支配した。
「陽向!」
 ずっと後方で音々の声が聞こえるが、姿は見えない。周りに侍らせていた陽玉すら、その威光を翳らせている。おかげでアルがどこへ潜んでいるのかまったくわからない。
(黒い光を生み出す剣…『反転』しているせいで武装の効力まで裏返っているってことか!?)
 アルは北欧の出自からしてそれに因んだ武具に相応の効果を付与させる能力に特化していた。
 スルトの魔剣レーヴァテイン、フェンリルを捕らえた魔枷グレイプニル、アイルランドの大英雄クー・フーリンの魔槍ゲイボルグ。
 それほど神話の武具に詳しいわけではない旭だが、名前くらいならば聞き覚えがあった。だがその効力や逸話にまでは知識が回らない。
 光を放つ剣、『反転』によって汚染された武装の真価がどれほどの威力を有するのか。考察している余裕は無い。無いが、
「負けるものかよ、こちとらひかりで遅れを取るわけにはいかないもんでね…!」
 展開されている陽玉の出力を最大まで引き上げる。肌を焼く熱が四周の闇を引き裂いて自らの存在を誇示して見せた。
 明かされた宵闇から飛び出たアルの姿をようやく捕捉して拳を握った。相手も既にもう一振りの剣を構えている。
「ウ留、さイ……五月蠅い…!!」
「…っ!」
 怒りに歪んだ形相は旭を見ていない。目隠しの暗闇も、狙いは旭ではなかった。
「避けろ音々!狙われてる!」
「そのようね。あとは頼んだわ」
 未だ後方には闇の余韻が残っていて見渡すことは出来ない。敵の位置を正確に把握しているのは武具の使い手であるアルだけだろう。
 回避を促して叫んだ声に、瀕死の彼女は潔いほどの淡白な返しのみで応じた。もはや体を動かすことすら困難なほどに毒が回っているのか。声だけでは判別できないが、もしかしたら既に倒れているのかもしれない。
 脳に直接響き渡る不快な唄を歌うことをやめない、後方の魔獣種へと長剣を振りかざし、投げる。
「“降ら雅、LAッ破ァ!!”」
 回転する刃の表面が黒色に煌めき、突如として矛先を固定し飛来速度を倍近く上げた。迷うことなく、晴れ掛かっている闇の奥へと突き進む。
 その先に音々がいる。
「させるか!」
 アルに背を向け駆け出し、それを追い抜いて五つの陽玉が長剣の進路を阻み衝突する。熱と衝撃に歪んだ剣が失速し、ようやっと追い付いた旭の脚撃が投擲された剣を真っ二つにへし折った。
 数瞬遅れて効力を完全に失った剣の残骸が散らばり、黒い光が消え去ってうつ伏せに倒れた音々を視認する。もはや顔を上げる気力も残っていないのか、ひゅーひゅーと不安定な浅い呼吸を繰り返しながら小刻みに震えていた。
「こ…の、馬鹿」
 見下ろす赤毛の頭部が罵倒を溢す。それは他でもない、死にかけの人外を助ける為に敵に背を向けた人間へ向けたものであって、
「…けふ」
 そんな罵倒を受けて、旭は文字通りの苦笑を浮かべたまま口の端からどろりと朱色の液体を吐き出す。
 背後から刺し込まれた刃が胸から突き出ていた。感覚で致命傷ではないと、経験でなんとなくわかる。重要な臓器はやられていない。
 だが問題は次だ。振り返るより先におそらく首を刎ねられる。そうでなくともこのまま突き刺された武器を引き下ろされれば肉体の損傷は再起不能の域に達するはずだ。
 せっかく準備が整ったというのに。できるだけ一撃で済ませられるように、とびっきり重たい一発を用意できたのに。
 このまま自分ごとそれに巻き込んでやろうか。とも思う。
 刺された傷のことを考えればどう見込んでも自殺に近づくが、気付けとしては抜群のはずだ。おそらくアルも無事では済まないし、その拍子に正気に戻れるかもしれない。
(やるだけの価値はあるか…)
 出血が酷い。生き残るにしてもこれでは時間が惜しい。即断にして即決、すぐさま振り返り様に肘鉄を突き出す。避けられるまでを想定に入れて、それでも逃がさぬように両手でしっかりとアルを掴んでやろう。
 そんな気弱で、当たるはずもないと確信していながらも全力で振った右の肘は、予想を大きく裏切って黒色に染まったアルの鼻っ柱に勢いよく叩き込まれた。やった自分が一番驚く。
 何があった?相手がこんな手を予想していなかったわけがない。何故当たった。まさか肘鉄が来ることがわからなかった?見ていなかった?
 だとしたら、アルは一体この状況下で何を見ていたのか。

「……、アル?」

 倒れ伏す音々のより後方、破壊された工場街に残る数少ない電灯や街灯の光で照り返す白銀の髪、丸く幼い紺の双眸。
 額から流れた流血もそのままに、少女は異形と化した悪魔の姿を、見紛うことなく妖精アルムエルドだと認識した。
 動揺、忘我、茫然。
 鼻血を噴きながら仰け反ったアルの狂気に染まる両眼が、救いを求めるように倒れる視界の中でそれでも少女の行方を追う。
 唯一最大の好機。
 刺さった刃も構わず振り返り、転倒直前にたたらを踏んで立て直したアルの胴体を蹴り抜く。ボロボロの蝙蝠羽を広げて後方へ流れる我が身に急制動を掛けたが、稼いだ距離は既に充分。
 再びアルが特攻を仕掛けて来るより速く、前後左右を四つの陽玉が取り囲う。迎撃も回避も、それに割く思考すら全て遅い。
 妖精であった身を喰らい蝕む魔性の性質。それごと焼き払ってようやく決着だ。
 だから解き放つ。
「“九つの日、集い集いて魔を照らせ。陰を払いて邪気を退け、真なる我が名を解放せん!”」
 『陽向旭』の真名に基づき、退魔の直系たる心身に宿る存在そのものを具現させる。真名解放のさらに上。
 存在解放。
 それは大天狗が放った流星アマキツネとも酷似する、全てを纏めた全霊の一手。退魔師にとっての奥の手。
 囲う四つの陽玉が急速に光熱を増していき、大気を取り込み膨張する。中央にいるアルを飲み込んで、それは巨大な熱波の球と化して工場の残骸ごと巻き上げて焼き尽くす。
「嫌でも目覚めてもらうぞアル!頼むから僕を悪者にさせないでくれ…!」
 背後から棘のある視線を感じながら、旭は突き出した右手をぐっと握り込む。
 陽向総本家門弟筆頭、陽向旭のこれぞ秘奥の極。
「“退魔本式・旭光きょっこう!”」
 夜明けにはまだ程遠い時刻に、明けの明星を押し退けて一足早くあさひが現る。
 
sage