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「タクトくん」(アンノジョー先生:「杏野丞」(あんのじょう)名義)

 人工知能が感情や自我を獲得する、というのはSFにおける王道のモチーフといえる。そのような作品は、手塚治虫や藤子不二雄の漫画にも幾つかあったし、到底SF愛好者とは自称できない私であっても、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』、『月は無慈悲な夜の女王』などのタイトルは挙げることができる。最近だとアニメ『楽園追放』も、やはり機械による自我の獲得が物語の軸であった。

 本作は、「タクトくん」と呼ばれる多機能炊飯器の話である。物語は、自我を獲得した「彼」が、その持ち主の「人生を再び炊きたての白米のように熱く、かがやくものにしなければならない」と決意するところから始まる。「彼」は、どのようにして、彼女の人生を変えていくのか。

 「道具が自我を獲得する」というお話は、(日本人に限定されるかどうかわからないけれども)八百万の神だとかフェティシズムがどうとか指摘するまでもなく、「道具に名前をつけること」がまったく珍しくない私たちの文化にとっては非常に馴染みやすい。「初音ミク」は、生まれた直後に、「自我を持つ機会の消滅の悲哀」を歌わされた。

 しかし、本当に「機械が感情を持つ」ならば、まず問題となるのが、誰がどのようにそれを認識するのか、ということだ。それは、翻って「感情」「人間らしさ」の定義、「高度に発達した応答プログラムとの違いは?」といった面倒な問いを呼び起すものの、たいていの作品では、2、3の問答を通じて、感情の所在を確認することが通例となっている。本作では、この難所をむしろ逆手に、炊飯器の「人知れぬ決意」と、その努力、帰結が描かれる。

 「人知れぬ」というところに、私は、あるいは私たちは弱い。竃炊きのような熱い情熱を持つ「タクトくん」の挑戦は、その行為の規模、インパクト、その影響力のどれをとっても薄く儚い。地味だ。持ち主を軸とした人間ドラマにおいて、「彼」は何かをなしえたのか、「彼視点」に立つ読者であってさえ、はっきりと「そうだ」とはいえないだろう。それだけに、この物語は、ほのかな寂しさ、小さな心の穴を穿つ。『セリエント』という不思議な作品集の最後を締めるにあたり、本作はちょうどいい具合の読書感をもたらしている。

 「タクトくん」はまた、偶然ではあると思うけれども、『セリエント』という作品集の中でも、SF特有の技術や不思議と、登場する人物の物語との関わりという点で、独特の位置を占めている。「過去との対峙とSF」という軸から顧みるならば、「登坂車線」は、主人公たちは現在を含む過去から逃避する作品であり、SFはこのドラマの起点ではあり転機であるが、総じて中立である。「セリエント」では、そもそも「過去」をほぼまったく振り返らない圧倒的な未来志向の物語であり、強いて言うならば「過去」はモブとして未来の技術に蹂躙されている。これらに対し、「クレーター」「Lovely Fairy with Me」は、主人公が「過去に逆襲され、飲み込まれる」物語であり、SF要素は過去が主人公を覆い尽くす媒体となって現れている。「タクトくん」は、この2作とはまったく対照的に、主人公が過去と和解する話であり、SFはその和解を後押ししている。いわば、「人と過去」との対峙という普遍的なテーマとの関わりで、この作品だけが唯一「明るい未来」を提示している。このような構図、そして作品の配置は、おそらく意図したものではないだろうけれども、このことが、本作の「はかなさ」や後を引く読後感をよりいっそう強くしている。

とにもかくにも、この万能炊飯器。
もし実現したら、私は真っ先に買う。
お値段はボーナス2ヶ月分?
ボーナスなんて、はじめからないから平気。

 なお、この作品を読むまで、私にとって「感情を持つ家電」といえば、島本和彦『ワンダービット』の「ポットちゃん」であった。作者がこの作品をご存知かどうか、もしご存知ならその感想などを聞いてみたいものである。

       

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