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 ボストンバッグの動く音がする。合皮を軋ませながらもがくように動くその姿は、さながら蛹のようだ。
 ふと目を見張ると、ジッパーが微かに開いていることに気がついた。じりじりとそれがもがく度にジッパーは下がっていく。
 開けてはいけない。閉じなくてはいけない。なのに動けない。
 開く、開く、開く。
 のたうち回るボストンバッグは羽化を待ち望む。その姿を晒すために。窮屈な孤独から逃れるために。
 やがて、バッグが開いた。
 その暗闇の先で、誰かの笑い声がした。
 甲高い女の声。
 鋏の音。
 悲鳴。
 アンモニア臭。
 鞄からはらりと何かが落ちた。
 恐る恐るそれを覗き込み、あざみは戦慄した。
 これは、ルナの髪だ。
 あたしが切った、ルナの髪が、落ちている。

 森に会ってから、あざみはこの夢を、毎日のように見ている。

   ●

 自宅に辿り着いて、潮はクローゼットを乱暴に開いて大量のビニールパックを漁り、部屋に放り投げていく。日付、時間、場所の詳細まで丁寧に書き込まれたあざみとの記念のかけらたちが、それを収集した本人の手によって粗雑なゴミへと変わっていく。
 もはやここにあるのは汚物だ。他人の使用した紙コップ、生理用品、好きだった映画のパンフレット、爪、くしゃくしゃに丸められ干からびたティッシュ。気持ち悪い。こんなものを仕舞い続けておく。想像しただけでも怖気がする。
 嫌いだ。あざみなんて嫌いだ。
 俺の好意を踏み躙りやがって、愛を裏切りやがって。
 美しい髪を粗末にしやがって。
 嘆きながら潮は【彼女との記念品】に当たる。これだけ愛したのに、どうして、どうして自分を裏切ったのか。腸にどろりと溶岩のような熱が溜まっている。それはどれだけ放出しようとしても決して熱を落とすことなく、むしろ発熱は強くなっていった。
 棚の奥の最後の一つを投げようとして、潮は掲げた右手を止めた。力なく膝をつき、あざみとの思い出を胸に抱える。
「どうして、裏切るんだ」
 こんなに、愛していたのに。
 どうして俺は、あの枝毛を見つけてしまったのだろう。
 気が付かなければ、あざみは失われることがなかった。いや、あの時の躊躇いが命取りだったのだ。潮が、あざみを殺したも同然なのかもしれない。
「あざみ……」
 目元を熱い涙が零れ落ちていく。大粒のそれが一粒、また一粒と頬を伝って落ちて、床に散らばるかけらたちを濡らした。
 涙のせいだろうか、目元が霞む。心なしか気だるさから意識も薄い幕がかかったみたいにぼんやりとしていた。剥がれ落ちていく輪郭の中、潮はその場にしゃがみ込むと額に手を当てた。
 思えば遠いところまできたものだ。はじめ、喫茶店であざみの別れ話を背中越しに聞いた時、とうとうチャンスが巡ってきたと思った。だがそれを森やルナに遮られ、そればかりか愛美まで。
 あの日を切っ掛けに、潮を取り巻く全てがおかしくなった。いくつもの後悔が絶え間なく脳裏を過ぎっていく。潮は這いずるようにしてベッドの縁に辿り着くと、頭をもたげた。目が回る。ひどい気分で吐きそうだ。
「あざみのせいだ」
 力ない声でそう潮は呟く。彼女には、それ相応の報いを受けてもらわなくてはならない。
 俺の愛を踏みにじったことを後悔させてやるんだ。潮は落ちていく目蓋を堪えるように歯を食いしばる。
 攻めて、攻めて、攻めて、攻めて、攻めて、完璧に、徹底的に、完膚なきまでに、丹念に、どこまでも攻め抜いて……。
 彼女を、壊してやる。
「潮、くん?」
「あぁ?」
 呻くような返事と共に潮は顔を上げた。
「体調、悪いの?」
 良質な髪がいた。
 彼女は慌てた様子で潮に歩み寄ると、額に触る。「熱っ!」と大げさに言って潮の脇から潜り込み、彼の体を支える。
「ちょっとだけ頑張って、ベッドに、横になったほうがいいから」
 頬に触れる髪の感触が、心地よい。健康的で、室内の灯りですら取り込んで繊細に光るそれを見て、潮は触れてみたいと思った。
(指先で溶けるように流れるんだろうな、きっと)
 ベッドに転がされ、彼女に上着とズボンを剥ぎ取られた。幾分気が楽になったが、それでも体調は最悪だった。
 潮は差し出された体温計を素直に受取る。しばらくして戻ってきた体温計の数字を見て、彼女は悲しそうに顔を歪めると、彼の頬を優しく撫でる。
「おかゆとかなら、食べられる? 潮君、病院はあまり好きじゃなかったよね。薬局でお薬買ってくるね。他に欲しいものがあったら教えて」
「ああ、悪い」
「いいんだよ、潮君の為だもん」
 彼女は笑う。髪を引き立てるような明るい笑顔を浮かべて、彼女は言った。

「私は、潮君の為に生きてるんだから」

 その笑顔を見て、潮は衝動的に彼女の髪に手を伸ばす。横で二つに結ばれた髪の先に触れると、痺れるような快感が体を走る。乾きを潤すような満足感があった。
「いいんだよ、何をしても。潮君だったら、いいんだよ」
 目蓋が落ちていく。この良質な髪を手放したくない。だがその思いと裏腹に、意識は薄れていく。
「いやだ……お前を、離したく……ないのに……」
 最後に彼女が浮かべていた顔。あれはなんだったのだろう。今はもうよく思い出せない。重たくのしかかる眠気と、衰弱した心と、脳裏を過るあざみへの怒りと、指先の髪の感触で、潮は一杯だった。
 だから、潮は気がついていない。
 今、自分が言葉にしたことの意味を。
 言葉にしてしまったことの、意味を。