Neetel Inside 文芸新都
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 覚醒した時、潮はその後のことを何も思い出せなかった。
 浮き上がり、部屋中を見回すが、何の変哲もない自分の部屋だった。いや、元通り過ぎる。あの時散らかしたあざみとの思い出たちはどこへいったのか。
 布団を出ると、随分ひどい汗をかいたのか、下着とシャツがべったりと気持ち悪いくらい湿っていた。その寝汗とは裏腹に、潮の意識ははっきりとしていたし、気分も回復していた。ふとローテーブルに目を向けると、錠剤の入った瓶と空になったグラスが一つ、置いてあった。いつ飲んだのかは、やはり覚えていない。
 キッチンに向かうと、きれいに洗われた鍋と器、食器類がクロスの上にきちんと並べて置かれていた。どれもぴかぴかに磨かれていて、潮でもここまで丁寧に洗ったことはない。
 上着を脱いで浴室に入ってシャワーを浴びながら、誰かに介抱してもらったことを思い出す。色んなことで頭に血が昇っていたせいか、体調をひどく崩してしまったせいか、よく思い出せない。だが、とにかく良い髪質をしていたことだけは覚えている。
 一人、思い当たる女がいた。だが、彼女に自宅を教えたことはなかった。携帯を見ても連絡はない。いや、むしろ彼女ならこういう時、起きるまでいるはずだ。そうして自分がいかに大切な相手かを、一生を共にすべきかを説くために自分から言ってくるはずだ。

 熱湯で気持ちの悪い汗を流すと、ようやく冷静になれた実感があった。
 だが、もう起きてしまったことは取り返せない。冷静になった頭で次に考えるべきことは、糸杉あざみをどう追い詰めるか。その手筈を考えることだ。
 ふと、そういえば、ルナと森はどうなっただろうか。ここしばらくあの二人と顔を合わせていない。
 潮が思いついたのは、ルナのような目に遭わせることだった。詳細を知らなくとも、数多くの関係を結び、トラブルを抱えがちだった彼女を知っているからこそ、あの光景はそそのツケを払った瞬間だと想像はつく。
 あざみに好意を寄せる男性は幾らでもいる。なら、ルナとまではいかなくとも、そういう危険に彼女を誘うことはできるのではないか。
「アイツらと話ができたら、なんとなく掴めそうなんだけどな……」
 森はルナを回収した日、動揺し、交流のあった自分ですら敵視していた。今となっては気軽に会える相手ではなくなってしまったのかもしれない。それに、ルナはもう十分にツケを払った。森も、少なくとも自分が放任してきた結果を目の当たりにして傷ついていた。
 森とルナはそっとしておこう。
 ならば、どうすべきか。
 あざみの資料はどこへ行ったのだろう。あの情報があればもっと綿密に計画が練られるのに……。
 ベランダに出て外の空気を吸いながら、潮は煮詰まりすぎた頭を休憩させる。珈琲でも淹れようか。欄干に寄りかかりながらぼんやりと考える。
 不思議と、怒りは湧かなくなっていた。彼女に対して批判や拒絶の気持ちはあるが、それだけなのだ。もっと、復讐しか考えられなくなると思っていたのに。
「これまでにないくらい、本気だったんだろうな、俺」
 あざみの枝毛すら受け入れる気持ちを持てた。誰かの為に自分の想いを捻じ曲げる努力をしたのは、彼女が初めてだった。
 スマートフォンを取り出すと、潮は瀬賀に電話をかける。三、四回目のコールで瀬賀は電話に出てくれた。
「瀬賀か、今時間いいか?」
 山間に消えていく夕日を眺めながら、潮は諦めたように笑う。少し、風も冷たくなってきた。
「週末にさ、飯でもどうだ? 愛美も一緒でいいから。ちょっと気晴らししたい気分なんだ」
 電話口の瀬賀は動揺していたが、快く話を受けてくれた。適当に雑談を絡めた後通話を切ると、潮はため息を一つ着いた後、大きく背伸びをしてから欄干に両手をつき、思い切り吠えた。
 どこまでもどこまでも遠くへ、この想いが遥か彼方まで消えてくれたらいいのに。

   ●

 潮の声が聞こえた気がした。
 愛美は顔を上げて空を見上げる。一筋立ち上る煙の先には、沈みかけた太陽が見える。
「こんなところで潮君の声が聞けるなんて……素敵」
 好き合った仲なら当たり前だ。どこにいても想いは一つなのだから。
 パチ、パチと弾ける音と共に彼女の足元の焚き火は燃え上がる。愛美の想いに答えるように、赤く、強い光を帯びて空に灰と煙を落としていく。
 沢山の記念のかたちが黒く焦げて無くなっていく。目線の合っていない写真、乾いたティッシュ、半券、ストロー、切符。指紋。生理用品。ビニールに書かれた潮の字だけ残して、中身は全て容赦なく焚べられていく。
 熱にうなされていた潮もカッコ良かった。愛美は瞼の裏に焼き付けた光景を思い出してニヤニヤと笑う。うふふ、と漏れ出た自分の声にあわてて口を塞ぐ。
 介抱している途中で、潮は愛美にこう言った。
「お前を離したくない」
 これ以上ない幸福を感じた言葉だった。心の奥底を掴まれたような充足感と、子宮が悶えた。
 この感情をどう表に出せばいいか分からなくて、思わず彼の傍でしてしまった。それがまた、愛美の心を震わせた。
「潮君、どんなドレスが好みかな」
 健やかなるときも、病める時も。
「入籍は、潮君の誕生日がいいな」
 喜びのときも、 悲しみのときも。
「子供は何人がいいかな。でも子供に潮君が取られちゃうのはちょっとやだなあ」
 富めるときも、貧しいときも。
 パチ、パチ。
 拍手のように火花が飛ぶ。あざみの写真がくしゃくしゃに丸まり、焼けていくのを愛美は火かき棒で念入りに潰す。飛んできた灰が目に入って染みる。
「死ぬ時は一緒がいいな」
 これを愛し。
「潮君を、殺さなくて済んでよかった」
 これを敬い。
「誰かのものにならなくてよかった」
 これを慰め。
「私、こんなに幸せでいいのかな」
 これを助け。
「潮君……大好き」
 頬を伝う涙があざみの燃え滓に落ちた。その涙は写真と共に燃えていく。愛美は焚べられた記念のかけらたちを見下ろしながらしゃがみ込み、膝を抱える。涙が止まらない。どうしてだろう、こんなに幸せなのに。

『いいか、愛美。こういう手に入れた記念品は、速やかに保管しろ! 丸出しとか何を考えてるんだ。基本がなってない! 基本がな!』
『き……え……?』
『特にこういう紙製品はすぐに乾かせ! また濡らして使うなんて言語道断だ!』
『とりあえず乾燥はいいだろう、こういうチャックの付いたビニール袋を持って来い』
『い、今は持っていません……』
『仕方がないから今日は俺の一式を貸してやる。いいか、こういうのは速やかに行うことが大事だ。まず記念品を入れたら空気をしっかりと抜け』
『ち、近いですぅ……』
『シールには、記念品を手に入れた日付と場所を書け。そして綺麗に貼れ! 丁寧に残すことが重要だ、これを見た時に、より鮮明に当時の光景を思い出せるように、だ。汚れや、劣化、汚い保管はノイズになる。絶対に保管作業を怠るな!』
『出来たぁ!』
『これで完成だ。いいか、チャック付のビニール袋、ラベルシール、ペンは常に鞄に入れておけ。いつ、どこでどんなものを入手するか分からない。どんな時でも即座に対応できるようにしておくのが、愛だ』
『はーい、せんせい!』
『よし、よく頑張ったな』

 あの時の感触を、愛美は今もまだ覚えている。これまでで一番気持ちが良くて、幸せな感触だった。
 記念品は、愛のかたち。
 愛は今、愛美の目の前で燃えている。
「ねえ、潮君……せんせいにとって、私は愛ですか?」
 愛美の言葉に答えるように、パチ、と火が飛んだ。

--その命ある限り、 真心を尽くすことを誓いますか。

 潮の記念品の中に、愛美はいなかった。

       

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