Neetel Inside 文芸新都
表紙

用法用量を守って正しいストーキングを。
17

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 森とルナの消息が途絶えてずいぶん経つ。
 以前と比べ聴き込みは減ったが、それでも彼らの消え方と、そして森の自宅の様子があまりにも「普通ではなかった」為に、調査は続けられているようだった。
「二人の関係はどうでしたか」
「男性はかなり束縛的な性格ではありませんでしたか」
「女性側から恋人に暴行を受けているといった相談を受けてはいませんでしたか」
 どれもこれも的はずれな質問だと、取材を受けた学生たちは皆思った。だが、深く関わるのを面倒臭がった彼らの言葉は自然と揃い、「おとなしい人だった」や「普段から人気のある女の子だった」と誰もがテンプレートのような言葉を口にした。結果彼女が門の前にボロ布のように打ち捨てられていたことが明るみに出ることもなかった。
 もちろんこの件の聴き込みに、瀬賀も協力をした。
「二人とは時々遊ぶくらいの仲でした。でも、普段僕が一緒にいる時の彼らは仲良くしていましたし、正直、こんなことになるとは思いもしませんでした。二人が無事に帰ってくることを祈ってます」
 瀬賀の発言はどこにも使われることはなかった。その後警察に何度か声をかけられたが、本当に彼らに関しては伝えられる情報がなかった。いや、実際のところ、糸杉あざみの件を伝えようと思えばできた。そこから小波潮に繋がればもっと面白くなっただろう。
 だが、瀬賀にはどうでもいいことだった。もう、退屈のままでいいと諦めてしまった彼にとって、これ以上かき回すような行動をするつもりはなかった。
 森とルナの一件がきっかけというわけではないが、キャンパス内でのニュースは、どちらかというと瀬賀に関するものが多かった。それと、糸杉あざみも。
 最近、瀬賀の付き合いが悪くなったのだ。これまで当たり前のように混ざっていたグループから離れ、遊びに誘っても理由をつけて離れることが増えた。連絡をしても返答までのスパンに間が空き、キャンパスで顔を合わせても適当な挨拶くらいで講義に行ってしまうのでまともな会話もできない。
 彼のもともとの外面の良さと勤勉さから「何か目指すものができたのだろう」と友人たちは寂しがりながらも瀬賀を応援していた。だがその実、裏を返せば見守る程度の仲であったということにもなる。
 全てを放り投げてみて、瀬賀は改めて理解した。「良い人」は別にいなくても問題ない。やっぱり自分は空っぽだったのだ、と。
「よう、瀬賀」
 顔を上げると、学友が隣にどっかりと座り、筆記用具を出していた。ここ最近ほとんどの時間を共にしている男だった。親のツテで薬(とはいえ市販品に毛が生えたレベルのものだが)を安く買わせてもらっていた。
「森君とルナちゃんの事件、大変だな」
「俺は別に大丈夫だよ。まあ、ちゃんと見つかるといいんだけど」
「そういや糸杉さんの件、聞いたか?」
 瀬賀は目を細める。そう、今キャンパス内で話題になっているのは瀬賀と森たちのことだけではない。
 糸杉あざみが、大学に来なくなったのだ。
 理由は誰にも分からない。身近だった友人たちも理由を知らない。というより、彼女らもまたあざみのことを何一つ知らなかったのだ。到るところから噴出した男性との関係、嫉妬による嫌がらせ、本来の清楚なイメージとは違う姿が露呈するたびに、糸杉あざみを知るものは目を背けるようになった。
 全く。瀬賀は彼女のことを思い出してため息をつく。そんなところで似てほしくはなかった。結局のとこと、僕たちはどこにも必要とされなかった。
 いや、違うな。
 必要とされたくて行っていたことが、まったくの無駄だった。
 この世に必要とされていなかったことを理解した今、不思議と瀬賀の心は穏やかだった。
「糸杉さん、俺何も知らないんだけど、どうなってるの?」
「興味なさそうな顔だな」
「正直そんな興味ないもん」
 学友は笑った。瀬賀が顔をしかめていると、悪い、悪いと学友は言った。
「なんか最近のお前、とっつきやすくなったよな」
「俺が?」
「何があったのか知らないけどさ、俺、今のお前のほうが好きだわ」
「言ってる意味がよく分からん」
 瀬賀は彼の言葉を無感情に切り捨てる。大したリップサービスだ。空っぽの自分を見て彼は悪くないと言う。なら、これまで取り繕っていた自分の努力はなんだったのか。彼の言葉を、ポジティブに受け取ることはどうやってもできなかった。
 瀬賀は、ふと思い出したように顔を上げると、隣に座る学友を見た。彼は不思議そうに瀬賀を見返す。
「ねえ、今更で悪いんだけどさ」
「なんだよ」
「俺の名前、呼んでくれない?」
 名前、と彼は繰り返す。瀬賀は頷いた。
「確かに、お前のこと、あだ名でしか呼んだことなかったな」
 彼は少し気恥ずかしそうにそう言って、瀬賀を笑いかけた。

「×××××」

 自分はこれまで、この名前に痛みを感じ続けてきた。
 なぜだろう。どうしてだろう。瀬賀の見つめる先に座る学友の姿が歪んでいく。彼の背後に広がる窓から差し込む光がやけに眩しい。
「どうした?」
 そう尋ねる彼に、なんでもないと瀬賀は顔をそらし、トイレ行ってくると一言残して講堂を後にした。

 個室に転がり込むように入り、瀬賀は天井を見つめる。
「×××××」
 自分の名前を口にしても何も感じないことに、瀬賀は乾いた笑いを吐き、水流レバーを叩きつけるように下げた。蓋の閉じられた便器に腰を下ろし目を閉じると、水流によって何かが洗い流されていくような気分になった。何を洗い流しているのだろう。今ではそれももう分からない。
 分かっていることがあるとすれば、自分が何か「これまで必要としてきた」パーソナルな事情を損なってしまったということだけだ。
 瀬賀はずっと、綺麗なものに憧れていた。愛美のような純粋無垢な存在に。憧れているが故に、自分がそうなれない事実に気が付いた時、嫉妬して生きることを決めた。何もかもをめちゃくちゃにしてやりたかった。思い通りにならない世界なら、自分がめちゃくちゃにして、それに巻き込まれていく人たちをみて高笑いを決めてやろう。
「ほんと、どうしてこうなっちゃったんだろう」
 脚本家、演出家でいたはずなのに、なぜか瀬賀は舞台上に立ってしまった。そしてクライマックスが見えてきたとき、自分の役柄がただのピエロであったことに気が付いてしまった。
「まあ、もういいか」
 それももうどうでもいい。糸杉あざみに自分を見抜かれた時、彼の中で緊張の糸が切れてしまった。今さっき学友の口から聞いた自分の名前に何も思わなかったことで、確信に変わった。
 流水の音に自分を浸しながら、瀬賀は笑った。長いこと八つ当たりを続けてきたものだ。愛美にも、小波にも、その他の奴らにも。
 そろそろ、ケリをつけてもいい頃だ。
 全てを流し終えて、瀬賀は立ち上がった。

「体調悪いのか?」
「いや、最近下痢気味でさ」
 恥ずかしそうに瀬賀がはにかむと、学友は心配げな顔を浮かべた。
「腹痛に効く薬とか、持ってない?」
「ねえよ、俺は薬屋じゃないんだからな」
「だよな、でも薬屋の親父はいる」
 彼は怪訝な顔を浮かべる。
「俺がくすねてお前に渡してること、言うなよ」
「分かってるよ。俺も市販のじゃ効かなくて困ってるから。お前からこっそりもらえないと困る」
 学友はため息をついた後、思い出すように「そうだ」と呟いた。
「この間やったヤツ、気をつけて扱えよ。流石に俺もやべーもん持ってきたってちょっと後悔してるんだ」
「分かってるよ。そう言うとこ俺は律儀なんだ」
 瀬賀は晴れやかな表情で彼に向かって言った。

「用法用量は守って、だろ」

   ●

 洗面所から水の流れる音がする。
 糸杉あざみは明かりもつけず、目一杯の水を出し、虚ろな目で鏡を見つめていた。しばらく手入れしていなかったせいで髪はパサつき、彼方此方へ跳ねている。肌も荒れてボロボロだ。ストレスのせいか、寝巻きの襟からのぞく首筋に、ポツポツと湿疹も見える。
 それだけでも十分な変化だが、何よりも大きな変化は、その【傷痕】だ。
 鼻から頰にかけて深く残った切り傷は赤く膨らみ、化膿している。彼女はその傷に血まみれの左手で触れ、呻くように小さな声で囁いた。

−−なんで私が、と。

 愛される立場にあったのに。小さな頃から自分の美しさを誰もが褒めてくれた。ビュッフェで食べる順番を選ぶみたいに、異性だって好きに選べた。
 なのに、誰もが離れていく。君を愛してるなんて言うくせに、すぐに他の女を見る。浮気をする。外見とセックスに飽きると「ほとんど食べ尽くした」とばかりに捨て去る。
 選べるのは私のはずなのに、捨てるのは男だなんて、理不尽だ。
 永遠の愛を誓うくせに、みんな嘘をつく。そう言う奴らを罰して何が悪い。どうして、私がこんな目に遭わなくてはいけないのか。
 ただ、瀬賀に仕返しをする気はなぜか起きない。自分のこの傷を受け止めることで精一杯だから、と言うだけではないと思う。
 瀬賀と私は、表裏一体だった。
 彼ともし違ったかたちで出会えていたら、付き合っていただろうか。互いの損なった部分を満たすべく、愛しあえただろうか。罵り合えたろうか。
 瀬賀は核心を突かれて、傷ついたに違いない。ザマアミロって思いもある。でも、同時に彼があの苦しみから解放されて欲しいとも思う。
 彼は、私以上に様々なものを憎んでいる人だから。
 憎むことでしか生きられない人だから。

 あざみは、右手に握りしめたカミソリを見つめる。一番良さそうなものを見つけて買ってきた。試しに何度か切ってみたが、とても良い切れ味だった。星五つでコメント付きレビューをつけても良いくらいだ。
 さて、他人の心配よりも、まず自分のことだ。
 あざみは鏡に映る自分に微笑みかける。赤く腫れた痛々しい傷跡越しでも、その笑みは美しかった。いや、むしろ傷がまた彼女の美しさを際立たせていた。
 だが、傷のある美しさを、彼女は決して望んではいない。
 あざみは、右手に握ったカミソリを持ち上げ、顔を鏡に寄せて、目を大きく開く。

「ちょっと削げば大丈夫…ちょっと削げば大丈夫…ちょっと削げば大丈夫…ちょっと削げば大丈夫…ちょっと削げば大丈夫…ちょっと削げば大丈夫…ちょっと削げば大丈夫…ちょっと削げば大丈夫…ちょっと削げば大丈夫…ちょっと削げば大丈夫…ちょっと…」

 あざみはカミソリを、引いた。

   ●

 帰宅して瀬賀はコップ一杯の水を飲むと一息つく。
 真面目に講義に出るようになってからずしりと重たくなったバッグをワンルームの隅に投げ捨て、ベッドに腰掛け天井を見つめる。ウォークインクローゼットはあれから開ける気になれない。
 しばらくして、彼はキッチンの戸棚を開けて、奥の紙袋を取り出す。隠すようにしまわれていたそれは、学友から回してもらったものだ。うまく寝付けないと言って彼の好意につけ込んで手に入れた。
 飲み干したコップにもう一度水を入れて、瀬賀はベッドに戻る。

 これで最後だ。

 最近、よくみる夢があった。

 自分が好きな服を着て外出して、誰もそれをおかしいと思わない世界だった。
 愛美も、小波も、誰もが自分を綺麗だと言ってくれた。
 糸杉あざみと好みのブランドの話をして、服屋に買い物に行って、ついつい買いすぎちゃって困ったねと笑い合った。
 ルナの泥棒猫癖どうにかならないものかね、とか話したり。
 そうしてるうちに、偶然みんなあのカフェに集まってくる。
 奇遇だね、とかなに二人でまたお金の無駄使いしたのか、とかルナまだ来てないの、とか。
 潮は糸杉あざみの髪を褒める。嬉しそうにする彼女を見て、愛美はねえ私の髪も褒めてよなんて頰を膨らませて彼を困らせるのだ。
 彼らのやり取りを見て自分は笑って、いつもの美味しいコーヒーを飲みながら、ああ今日は何をしようかな、と話すのだ。
 今日も退屈なくらい良い日だな、なんて思いながら。

 不思議と随分良い夢だと思えたその夢を、また見よう。退屈かもしれない。でも、あの退屈は心地いい退屈だ。
 あの夢のような世界で生きられたら。何もかもがうまくいくかもしれない。
「……さて、おやすみなさい」
 瀬賀は紙袋を開いて、中身を取り出す。

 だが、そこには、彼の想像していたものとは全く別のものが入っていた。
「…んだよ、これ」
 一枚の付箋の貼られた錠剤入りのビニール袋。中にはふた粒だけで、瀬賀の求める量としてはまるで足りない。
 普段の瀬賀なら、適当にチャンポンすることも考えたかもしれない。だが、そこに貼られていた付箋が、彼の心に深く刺さった。

【なんかあるなら、飲みに誘え。愚痴を聞く耳ならあるからさ】

 なんでこんなにも悲しいのだろう。同情されたからだろうか、うまく夢に行くこともできないからだろうか。
 それに、彼は瀬賀にとってただの講義で隣にいるだけのモブだ。名前もまとも覚えていない、夢にだって出てくることもない。自分の都合のいい時にだけ登場させるだけ。外見だって帰ったら忘れる程度の奴だ。
 そんな、奴に同情されたのか。
 モブ程度にすら自分は憐れまれているのか。
「隣に座ってるモブが調子乗ってるんじゃねえよ……」
 気がつくと瀬賀は声をあげて泣いていた。
 嗚咽をあげながら、みっともなく身を丸めながら。
「…こんなクソみたいな現実で生きろってか…ふざけんな…」
 あの夢の世界へ。
 そんな細やかな願いですら叶わないのか。

 どうしたらよかったのだろう。
 どうしたら、自分は救ってもらえたのだろう。
 泣きながら考え続けるが、答えは出ない。
「ふざけんな……ふざけんなよ!」
 震えるような叫びが、ワンルームに響く。
 彼一人だけの孤独なワンルームに、寂しく響き、やがて消えていった。

       

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