Neetel Inside 文芸新都
表紙

用法用量を守って正しいストーキングを。
18(終)

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 待ち合わせの小さな時計台の前で、小波潮は人混みを見回していた。珍しく身に着けた腕時計は待ち合わせ時間の十五分前を指している。
 珍しいのは腕時計だけではない。普段の無精髭を剃り、髪は櫛を通してヘアワックスでまとめ上げ、ワインレッドの丸首セーターに黒いコーデュロイのジャケットとチノパンで整えたその姿は、普段の無愛想な格好を知る者なら驚くだろう。彼を小波潮と気がつかない可能性もある。
 その証拠に、潮の姿を見て好意を向ける異性の姿もちらほらと見えた。ねえ、あの人ちょっと良くない、彼女と待ち合わせかな、待ち合わせが男とだったら声かけてみない、でもそう言う軽いの受けたらちょっとショックかも、でもちょっと話せたら良くない。
 雑踏に混ざる好意の言葉はしかし、彼の耳には全く入らなかった。なぜなら彼は、今最愛の人を待っているのだ。髪の綺麗な恋人を。
 五分ほどして人混みの中を駆ける小さな女性の姿が見えた。腰よりも長い長髪を二つにまとめ上げて揺らしながら走る姿を彼が見つけると、潮はにっこりと笑顔を浮かべ、大きく手を振った。
「ごめんね、潮くん。遅くなっちゃった」
「気にすんな。その髪を見たら分かる。ギリギリまで手入れしてたんだろ」
 潮の言葉に愛美は恥ずかしそうに笑い、髪に触れる。彼女の指先を流れるように通っていく髪を見て、潮は満足そうに笑みを浮かべ、彼女に手を差し出した。
「行くか」
「うん!」
 彼の手をとり、絡めるように手を繋ぐ。
 髪の他にも、彼女は沢山のことをやってきた。眉からリップの色、化粧品も一番血色のいい組み合わせを探した。服は派手過ぎず、かと言って地味過ぎないラインを探し、さりげないレースのきいた青いワンピースに白いカーディガンとパンプスを選んだ。
 愛美の服装のラインナップは最近大きく変わった。全て「髪」の映えそうな色と服の組み合わせを選んでいる。全て、彼女自身のセレクトだ。
 一人で服選びをするように鳴ったきっかけは、瀬賀だった。近頃彼に細かく言われることがなくなり、自分でなんでも決めなくてはならなくなってしまい、手探りで愛美はできることを増やしていった。だが意外なことに、放り出された愛美は全て器用にこなし、上達していった。料理、服選びから大学の過ごし方。
 これまで彼女のことを気味悪がっていた同学年の女子たちとも、少しづつ繋がることができた。どうして今まで距離があったのかと思うくらい、今愛美の周りは華やいでいる。
 これも、潮くんと付き合うようになったからだ。彼女はそう信じて疑わなかった。
 潮の為にしてあげられることを探していくうちに、愛美は気が付いた。

 そうだ、「彼の全てをしてあげればいいんだ」と。

 愛美の自立は目覚ましく、日に日に彼女は社交的に成長していった。
 潮もまた、愛美の愛を一身に受けているうちに、自らも彼女の髪に相応しくなければならない、と思うようになった。
 気まぐれに髪を切りに行った時のことだった。美容師がやけに自分の髪を褒めてくれたのだ。
「最近、何かいいことありませんでした?」
「なんで、ですか?」
 潮の短かい毛先を、細い指先で弄りながら彼女は笑う。
「髪って、人の気持ちに作用するらしいですよ。ほら、ストレスは髪に良くないっていうじゃないですか。だからその逆もあるんですよ」
「ああ、なるほど」
 潮は、彼女の言葉を聞いて腑に落ちた気がした。どうして彼女の髪があんなにも美しいのか。
 彼女は、何も知らないのだ。
 何も知らない彼女が潮に恋をした。嫉妬も不満も何もかも、彼女にとっては新鮮で、その一つ一つを体験する度世界に色がついていった。潮に不満を曝け出した時、ついに彼女の中に「気持ち」が生まれた。何も知らない人形から人になった瞬間だった。
 そういった気持ち一つ一つを手に入れる度に、彼女は人になっていった。
 初め出会った頃に、彼女の髪の美しさに惹かれはしても、糸杉あざみへの想いを振り切れなかったのは、そこだと彼は思っていた。
 愛美は、自分と出会ったことで、命を得たのだ。美しかっただけの髪に、血が通った。あの日、首を絞められた時、これまでにないくらいの幸福を感じたのは、きっとそれだ。
 であれば、これからも彼女に一つ一つ教えていかなくてはいけない。
 愛美が何かを知る度に、その髪に魅力が宿るというのなら、自分が、それを与えていこう。
「なんか、いい話を聞けたな」
「他愛もない話ですよ。そんな嬉しそうな顔してもらえるなんて、思いませんでした」
 彼女の言葉に潮は顔を上げた。首元に溜まった毛を全て払い終えると、彼女は鏡を開いて笑った。
「いかがですか」
 鏡に映る自分を見て、潮は目を輝かせる。
「生まれ変わったような気分です」
「そう言ってもらえて、とても嬉しいです。きっと彼女さんも喜びますよ」
「喜ぶ、そうかな。喜んでもらえるかな」
「もちろん」
 全て綺麗に髭を剃り、睡眠と運動を増やして目元の隈も薄くした。そして今日、髪を整えた。普段のだらしのない髪ではなく、整髪料を使って束感を出し、思い切って額も出して清潔に。

 愛美が喜ぶ。それはつまり、より一層彼女の髪が綺麗になるということ。

 もっと愛そう。潮は思う。
 もっと愛して、彼女を美しくしよう。

 でも、全て知ってしまったら、その先はどうなるのか。

 いや、それは今考えることではない。
 その時は、その時だ。
 今は、愛美が美しくなれる全てを叶えてやることが先決だ。彼女の知らないことを全て洗い出して、一つ一つ丁寧に教えていく。その度に彼女はきっと驚くだろう。泣くだろう、喜ぶだろう、怒るだろう。
 その感情の全てが、やがて彼女の美しさに繋がる。
 潮はそう信じている。

   ●

 デートに映画はどうだろう。潮は随分悩んだが、愛美は彼の好きな物を好きになりたいと言って聞かず、結局デートのアラカルトは映画鑑賞とショッピングになった。
「潮くんは、どうして映画とか本が好きなの?」
 活気付く休日の街路を歩いていると、愛美が不意にそんな言葉を口にした。潮はしばらく考える。糸杉あざみと出会う前から、映画や本は好きだった。彼女と近く上で武器になると考えたのも事実だが。
「理想を描いてくれるから、かな」
「理想?」
「俺は、受け入れてくれる現実を知らないままいたから。なんでも最終的には受け入れられる主人公の姿を見て、いいなって思ってたんだ。まあ、うまくいかずバッドエンドのとかも勿論あるけど、俺は、色んな出会いを経て、最終的に受け入れられる主人公が、羨ましかった」
 羨ましかった。
 それは、多分本当の気持ちだ。
 潮が求める美しい髪の持ち主と、どこまでも愛させてくれる、どこまでも知ることのできる異性を、果たして潮が本当にいると信じていたかというと、そうではない。ただ、いて欲しいと願い続けていた。その為の努力は惜しまなかった。好みの女性の全てを知ることで、潮の夢見る存在とぴったり当てはまる人がいるかもしれない。そうやって彼は相手を精査し続けた。
 まさか、視界外れのところにそんな相手がいるとは思わなかったが。灯台下暗しとはよく言ったものだ。
「潮くんは、もうスクリーンの向こう側を羨ましがる必要、ないんだよ」
 腕を抱いた愛美の手の暖かさを受けて、潮はその手に触れ、愛美を見た。彼女は穏やかな表情で笑っていた。なんの取り繕いもない、純粋な笑みが、その完璧な髪の中で輝いていた。
「……そうだな」
 潮は笑う。
「でも、これからも映画とか本は好きなんだろうな。今更叶ったからやめるってものでもないし」
「じゃあ、潮くんのオススメの本教えてよ。私全部読むから!」
「お前本読めるのか? つまんなくてすぐに寝そうだ」
「読むもん! 潮くんが面白い本なら、私も面白く読めるもん!」
「どうだかな」
 膨れる愛美の髪に触れながら潮は声を上げて笑う。上機嫌な彼の笑い声を聞いて、愛美は呆れたように彼を見てから、ニッコリと笑みを浮かべた。

 映画館に到着した二人はチケットの発券を済ませ、時間潰しがてら周辺を散策していた。休日ということもあり、カップルや家族連れで賑わっている。フードコートの席も一杯で座って待てそうにない。
「ねえ、ちょっとあそこ寄っていい?」
 愛美が指差す先に視線を向けると、フロアの隅に小さな画廊が見えた。
 名前は知らないが、どこかのカメラマンが写真を展示しているらしい。上映時間を待つ人々が入っては適当に眺めて出ていく。担当者も別に繁盛すると思っていないのか、接客する様子もなく気怠そうにパイプ椅子に座り、鑑賞に来る客たちをつまらなそうに眺めていた。
 愛美に手を引かれて画廊に入る。上手いのか下手なのか、いまいちパッとしない写真が並んでいる。壁面や長テーブルの上も写真で飾りつけられ、それぞれにタイトルと値段が乱雑に貼り付けられて置かれていた。ブレた蝶、もう見なくなった公園の遊具、閉店セールの看板。取り壊される寸前のビル。潮には何がいいのかまるで分からないが、愛美はやけにその写真たちに惹かれている様子だった。
「すみません、ここの写真家さん、有名な人なんですか?」
 パイプ椅子に座る担当者のカードをぶら下げた男性は、その問いかけに気怠そうに立ち上がって愛美に近くと愛想のいい笑みを浮かべると、首を横に振って「まだ駆け出しの人なんです」と答えた。
「当館では希望される方にブースをお貸ししているので、その週によって展示も変わります。この写真家の方も、まだ撮り始めて間もないとお会いした時におっしゃっていました」
「そうなんですか。でも、何か、こだわりみたいなものが見えますね」
「愛美、わかるのか」
 愛美は頷く。
「なんていうか、時間を切り取りたいのかな。終わっちゃいそうなものばっかり撮ってる」
 確かに、彼女の言う通りだった。どの写真も終わりを連想させるシーンを切り取ったものが多い。潮は感心しながら改めて周囲を見て回る。愛美の言葉を受けた上で眺めると、このなんの変哲も無い写真たちに途端にメッセージがあるように思えてきた。
「いつか終わるもの。その息遣いが見える寸前を撮りたい」
 担当者がそう呟くのを聞いて、潮が視線を向けると、彼は少し恥ずかしそうにはにかんだ。
「終わる前の瞬間を撮ることで、永遠に美しさを封じ込めたい、ってこの写真を撮った方は説明していましたよ」
「永遠に…」
 潮が、ずっと考えていたことだった。
 果たしてこの先も、愛美は美しいままでいられるだろうか。老いていくうちに、彼女の髪も輝きを失い、やがては彼の望む美しさからはかけ離れていくのではないか。
 ようやく掴んだ愛も、終わりがあるかもしれない。潮は今、それが怖かった。人は永遠ではないのだから。映画のように美しい瞬間で終わらない。写真のように閉じ込められない。物語のように想像のまま閉じ込めておけない。
 ただ、それゆえに美しいのかもしれないとも思う。
 いつか、潮が愛美から興味をなくす日が来るだろう。その時、彼はどんな風に彼女を処理するのだろう。大切に愛でたからこそ、最大の感謝をもって送り出すのか。ブームの去った玩具のようにいとも容易く捨て去るのか。
 それは、その時がやって来るまで分からない。潮自身も、まるで想像ができない。ただ、彼は少なくとも愛美に対して「裏切られた」と思うことはないと考えていた。
 彼女は全ての愛を彼に捧げている。
 時間は決して無限ではないことを潮は知っている。そこまで想ってくれた彼女を、どうして責められようか。
 この先彼女が魅力を失ったとしても、潮は彼女を決して責めないと心に決めている。そっと抱きしめ、いかに君が魅力的だったかを語り、枯れる最後の瞬間まで共にいてくれたことに感謝する。そして、最後の最後まで愛してくれた彼女に、別離の後も幸せであるよう願うのだ。
「愛美」
 振り向いた彼女を、潮は写真に撮った。
「綺麗だよ」
 彼の言葉に、愛美は照れながら笑い、彼の腕をぎゅっと抱きしめ頬ずりをする。
「運命の人が、潮くんで私、本当に良かった」
「俺も、愛美と一緒にいられて、本当に幸せだよ」
 その時が来るまで、潮と愛美がどうなるかは分からない。
 ただ、少なくとも彼らはお互いが有限であることを理解している。永遠がないことを理解している。

 彼らのやりとりは続く。
 二人の中に息づく終わりの日が来るまで。
 彼らは互いを求め、追い続けるだろう。

 二人は座席に座る。
 上着を脱ぎ、荷物をまとめて足元に押し込むと、深く呼吸をした。
「楽しみだね、潮くん」
「ああ、楽しみだな、愛美」
 互いに微笑み、やがて照明が落ちると彼らはスクリーンに目を向けた。手すりの上で、二人の手が固く握り締められる。

 上映のベルが鳴った。

 スクリーンが白く輝き、物語が始まった。

   完

       

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