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 昨日から、ずっとおかしなことばかりが続いている。小波にとってあまりにもイレギュラーなことが、まるで点を線で繋ぐように起こっているせいで、彼の疲れた頭ではどうにも現状を理解することができないでいた。
 そして、今現在、最もわからないことが、目の前の状況だ。
 するり、と白い手がこちらに伸びてくるのを目の端で捉え、潮はその手を軽くはたく。むう、と頬を膨らます愛美を見て目を細めると、頬杖をついた。右隣では瀬賀が、注文したパンケーキを満足そうに食べているし、向かいには潮が追い求めていた女性、あざみの姿がある。
 二人の談笑する姿を見ながら、潮は何故こうなったのか思考を巡らせていたが、一向に答えは見つからなかった。
 それにしても、と瀬賀は甘いシロップがたっぷりと乗ったパンケーキを満足そうに呑み込んでから、愛美に笑いかける。
「びっくりしたよ、愛美ちゃんと、潮くんが仲良しだったなんて」
「神の……導きかな」
「仲良しじゃないし、神の導きとかもう黙れよお前……」
 彼女の妙な発言にうんざりしたが、それら全てを溜息に集約させて吐き出す。この女には何を言っても無駄ということを、昨夜潮は嫌というほど思い知らされていた。
「愛美ちゃんも小波君も面白いね」
 唯一の癒やしといえば、二人のちぐはぐさを楽しそうに見ている目の前の彼女の姿だろう。あざみはよく笑う。元々明るい性格であることは知っていたが、こうして改めて接点を持つと、それがよく分かる。
 だが、予断を許さない状況であることに変わりはない。彼女、あざみは、もしかしたら恋人と別れたことで普段以上に明るく振舞っている可能性だってある。潮が今一番重要にすべきことは、彼女の気を紛らわせること。決して【髪を切らせてはならない】ということだ。
「そうそう、あたし二人とも学校で見たことあるよ」
「え?」頬杖をついて微笑むあざみを見て、潮はひどく驚いた。対して瀬賀は、そうなんだ、と淡白な返しをすると、最後の一切れを飲み込んだ。
「まあ、同じ大学だからね」
「眼鏡の人といつも一緒にいるよね。このカフェでもよく見かけるもの」
 あざみはカップを手に店先に目を向ける。パラソルの群れの先に、彼女と愛美の職場が見える。店頭に飾られた花の中に、チョークで書かれた丸字の可愛らしい看板が立てかけられている。
「見られ……見てたんだ」
「うん、うちの大学の人好きだよね、ここ」
 戸惑う潮の横で、瀬賀は柔和な笑みを浮かべている。
「じゃあ今度は森くんも呼んで遊ぼうか」
「うん、是非遊びたいなあ。でも、まさかこんな風に話すようになるなんて思わなかったわ」
 彼女から既に認知されていた。
 その事実が、潮の中で引っかかった。三人で、というが、顔を知られていたということは、つまりそれまでの【一人の時】も彼女は知っていることにはならないだろうか。そうなると、偶然とは言い難い頻度であざみと潮はこのカフェや他の場所で出会っていたことになる。
 なるが、今彼女が何気ない会話の一端としてこの話題を出してきたということは、大して気にしてはいない。本当に【偶然】と思っているともとれる。だとしたら……。
「神の導きかもしれないな、これは」
「潮くん?」苦笑する瀬賀に、潮は慌てて両手を振って冗談だと誤魔化した。
 彼女に認識されていた事実は確かに引っかかる。引っかかるが、しかしそれ以上に、彼女が自分を知ってくれていた事実が、とても嬉しかった。
「ところで、愛美ちゃんと小波くんは付き合ってるの?」
「うん、愛し合ってるの」
「頼むから黙ってろ! コイツとは全然、何もないから」
 間髪入れず答えた愛美の言葉を、潮は慌てて遮った。あざみに変な印象を持たれたくはないし、何よりこのストーカーと並べられるのだけは避けたかった。
 懸命に否定する潮の反応を、とても面白そうにしているあざみに辟易しながら、ふと彼女の手の甲に傷に目が行った。爪で引っ掻いたような、生々しい線が三つ、あざみの白い肌を赤黒く染めている。少なくとも、昨日までは付いていなかった傷だ。
「その手の甲、どうしたの?」潮が尋ねると、あざみはまるで今思い出したかのように、その傷を擦り始める。「猫にね、引っ掻かれちゃったのよ」
 うわあ、痛そう、と瀬賀が顔をしかめている。確かに、結構深そうな傷だった。幸い血は止まったみたいだが、まだ完治には時間がかかりそうだ。
「猫なんて飼ってた?」潮が持っていない情報だった。「ううん、野良猫」
「猫! 見たい! 触りたい! ねじる!」
「え、ねじるの……?」
 呆れた顔で瀬賀は愛美を見る。随分と猫に興味があるようだ。
 対して、潮は随分と怖い顔をしている。ギッタギタに……傷つけるなんて……と小声ではあるが、その野良猫に対して随分と怒りを覚えているようだ。
 いや、というよりは、あざみに傷をつけたことに対して怒りを覚えているのだろう。
「今度その猫見かけたら、傷めつけてやる」
「ちょっと、その発想は怖いよ、潮くん……」冗談、と笑ってはいるが、目は真剣そのものだ。もしその猫を見つけたら、今の冗談という言葉を彼は撤回しそうだ。
 ああそうか、そういうことか。瀬賀の中で、潮と、愛美、そしてあざみの関係が合致する。
【愛美が小波を好きで、小波はあざみを好いている】
 あざみの真意はともかく、瀬賀の脳裏で組み上がったトライアングルに、彼は思わず吹き出した。
「どうした、瀬賀?」
「いやいや、なんでもないよ!」
 流石にこんな話をおおっぴらにはできない。内心でこの関係図を面白がりつつも、瀬賀はそれを胸の内にしまい込んでおくことにした。
「あ、いっけない、そろそろ帰らないと」
「ええ、もっとお話したいのに……」
 残念そうな愛美に、ごめんね、とあざみは口元に手をあて、しおらしく首を傾ぐと柔和な笑みを浮かべた。
「早く帰らないと、怒られちゃうから」
「え?」
「ん? どうしたの、潮くん」
「いや、なんでもないよ。また、今度遊ぼう」
 頷いて席を立つあざみに表面では笑みを浮かべながらも、大きなショックを感じていた。
 まさか、ヨリを戻したのだろうか? 一人暮らしなのに、怒られるという言葉が出てくるということは、家に誰かがいるということだ。
(あれほど腹に据えかねていた男と、また……?)
 呆然とする潮を見て、瀬賀は憐憫の目を向ける。折角面白いことになってきたと思ったのに。あっという間に潮の失恋が決まってしまって、正直残念だ。
「潮くん、あざみちゃんを送ったら?」
「一人で大丈夫! ありがとうね」
 とりつくしまもない。瀬賀は遠くなるあざみの背中を見送った後、隣で項垂れる潮を見て、溜息をつく。あまりにも気の毒だが、なってしまったものは仕方がない。
「あ、あのね……あたし、家まで送って欲しいなあ」
「愛美は瀬賀と帰りなさい」
「ああ、せっかくなんだし、愛美ちゃんの家でちょっとお茶でもしようよ!」
 瀬賀、と潮は困った顔を浮かべたが、瀬賀は気にしないことにした。
 ほんの少しでも、あざみから受けたショックが緩和できればいい。
 ついでに言えば、そのまま愛美と好き合う方向に話が動けば、それはそれで、瀬賀としては嬉しい展開でもあった。

   ●

 糸杉あざみは、とても機嫌が良かった。
 昨日ひどい別れ方をした時は流石に落ち込んだけれど、その後、自分なりにこの最悪な日をちゃんと精算できたのが大きかった。お陰で、今日一日笑って過ごすことができた。
 バイト先に新しく入ってきた子もとても良い子だ。少し応用が入ると苦手意識を見せるけれど、言われたことは完璧にやってくれる。飲み込みの早い子が入ってきてくれるのはとても嬉しい。それに、今日は自分のおすすめしていた花が沢山売れた。店長にも今日は調子がいいねと言ってもらえた。
 友達も増えた。元々何度か見たことのある人達だったけれども、会話は初めてだ。
「潮くんと、瀬賀くんかぁ」
 潮のことは、店先でも見たことがあった。あざみの好きなメニューをよく注文する人だ。好みが似ているのかもしれないと思っていたし、実際今日話してみても悪くかった。
 もう一人の瀬賀も、あざみの中で評価が高い。気配りができて、話もしやすい。異性との交流もきっと難なくこなせるタイプだ。
「ほんと、ストレスは抱えるものじゃないしね」
 気分が良いと、帰り道も自然と楽しくなれる。これから、また楽しくなりそうだとあざみは、いち、に、とステップで踵を鳴らす。
 自宅に辿り着き、あざみは鍵を差し込んで、扉を開けた。
「ただいまー」
 返事はない。
 あざみは靴を脱ぎ、奥の部屋に続く扉を開ける。
 清潔感を感じさせる薄いブルーを基調とした部屋を見渡し、あざみは一度大きく深呼吸をする。
 その時、クローゼット中からカタ、と音が聞こえた。
「ああ、起きてるんだ」
 あざみは閉じられたクローゼットに目を向ける。
「遅くなってごめんね。ちゃんと大人しくお留守番できた?」
 返事はない。
 あざみは構わずクローゼットの前に立つと、取手に手をかける。
「ねえ、ルーナちゃーん?」
 ガラリ、と開かれた左右の扉の奥に、小さく縮こまる少女がいた。
 顔面と、両手と、両足をガムテープでぐるぐるに巻かれ、塞がれた口から必死に嗚咽を漏らし、鼻水を垂らし、テープの間から覗く頬は涙でぐしゃぐしゃだった。
 視界も動きも制限され、クローゼットの中に閉じ込められるということが、よほど恐ろしかったのだろう。あざみの声を聞いて、彼女は身体を震わせた。
「怖かったのね、ルナちゃん……」
 助けを訴えるように必死に呻く彼女の頬に手をあてる。びくり、と痙攣するようにルナは一度震え、すっかり硬直してしまった。
「一人は怖いよねえ、誰もいないのは嫌だよね。もう大丈夫だよ、あたしが来たから」
 あざみは、左手の傷を見る。生々しさの残るその傷を、嬉しそうに撫でて、ルナの髪の毛を強引に引っ張った。ルナの呻き声が強くなるのを見て、あざみは下唇を舐めた。
「怯えなくていいのよ。あたしは、善意でやっているんだから。ルナちゃんの、そのちょっと緩いおマタを、糸で縫ってあげようって、それだけなんだから」
 抵抗できない女を怯えさせるのは、とても楽しい。
「あたしね、野良猫は好きよ。とっても躾け甲斐があるから」
 でね、その野良猫の中でも、特に好きなのがいるの。あざみはルナの髪を強引に引くと、耳元でそっと囁く。
「あたし、泥棒猫が一番スキなの。ねえルナちゃん、どんな風に躾けられたい?」
 怯えるルナの声に、あざみは胸が高鳴るのを感じていた。嗜虐的な言葉を一つ唾のように吐き捨てる度に、昨日までの鬱憤が晴れていくのを感じた。
「今日は本当に、良い日だわ、あなたもそう思うよね? ルナちゃん」